拾参
「まずは名乗られてはどうかな? 私のことは知っているというのに、あなたたちのことを私は知らないのは公平ではない」
烏帽子に狩衣姿の巳山上は穏やかな顔で、中肉中背のどこにでもいそうな平凡な顔立ちをしていた。朝議に柊の供として参加した時に、特に記憶には残らなかったので目立った発言もしなかったのだろう。それよりあの時は太政大臣の発言にばかり気を取られていた。
「…時雨と申す。夜分にこんな形で失礼する」
「朝露と申します」
日照雨が偽名を使ったので、朝霧もそれに倣い偽名を使った。
「ほう、片方は小柄だと思っていたが女か」
巳山上は朝霧の方に目を向けた。そして目を細めて笑った。
「だが、偽名を使うのは誠実では無いな」
巳山上の言葉に、日照雨の言葉が詰まった。まさか気づかれるとは思っていなかったのだろう。そして自分が偽名を名乗ってしまったことにより、交渉が決裂するのでは無いかという不安がよぎったのだろう。日照雨は一瞬だけ、朝霧に視線を寄越した。
朝霧は落ち着けるように深呼吸したあと、口を開いた。
「今は人目を忍ぶ姿。私たちの密議は誰にも聞かれてはなりません。故に真名を明かすことはできません。人の名など、仮初のもの。人の名を暴くことは野暮というもの」
朝霧は焦りからか自分が饒舌になっている気がした。それすらも年の功で巳山上に見透かされているような気がした。
「なるほど。誤魔化すというなら、それで良い。何せ、私は藁にもすがる思いで外部の情報を欲しているのだからね。君たちに会うという危険を冒してまで」
自身の愚かさを自嘲するように、巳山上は呟いた。
「どういうことです? 自ら物忌みで篭られているのでは」
日照雨が尋ねると、巳山上は静かに首を振った。
「私のせいで、融様が朝議で恥をかいたと私に謹慎を命じられたのです」
融──太政大臣の名であり、巳家の当主の名だ。
「私はただ、今上陛下の違和感を申し上げただけ…」
巳山上の言葉に、朝霧は緊張が身体中を巡るのを感じた。影武者の違和感に最初に気づいたのは太政大臣ではなく、巳山上だったのだ。巳山上からの言葉で、太政大臣は違和感に確信を持ち、「御簾を上げろ」などと言ったのだろう。
それが外れていたとなれば、太政大臣の言葉は無礼以外の何ものでもなく、恥をかいたと思うのも仕方がないだろう。それにしても、目立たないのに目ざとく影武者の違和感に気づくとは、巳山上は只者ではない。
交渉の余地があるかも、とある意味舐めてかかっていたことに朝霧は考えを改めた。この一歩も引けない腹の探り合いに勝利しなければ協力などもっての他。
それにこちらは偽名を名乗っていると印象が悪い。どう挽回すれば良いのだろう。偽名の嫌悪感を上回るほどの報酬を差し出さなければならない。
「融様は私を病死として葬るつもりです。物忌みと称して餓死させようとしているのでしょう」
巳山上は腹を摩った。食事が提供されていないらしい。餓死させるくらいなら、いっそのこと毒を盛られた方がましかもしれない。
「携帯食料でよければございますが…」
薬と一緒に持ち歩いている頓食を朝霧は差し出した。少し端を齧って毒が入っていないことを証明する。
「いやぁ、ありがたい。一日食べないだけでひもじくて。後でいただきましょう」
巳山上は嬉しそうに顔を綻ばせた。少しは警戒心を解けただろうか。
「あなた方は巳笠原の敵対者なのですか。敵の敵は味方ということで言えば、私はあなた方の味方になり得るかもしれませんね」
先程、ひもじいと言ったばかりなのに巳山上の余裕は崩れていなかった。食事を抜けば思考が鈍るはずなのだが、それでも矜持というもので威厳を守っているのだろう。
「巳笠原の横暴は目に余ります。巳家の序列さえも崩してしまう」
朝霧がそう言うと、巳山上は深く頷いた。
「融様に間違いがあるとするならば、巳笠原を重用していることでしょう。誉ある巳山上家と同じく、大納言の地位にいるなど、巳笠原の分際でおこがましい。それに、私は融様の機嫌を損ねましたからね。次の右大臣の座は巳笠原になるでしょう」
巳山上の言葉に、日照雨が息を呑んだ。今の右大臣は高齢で、そろそろ職を辞すのではと噂が飛び交っていた。
「太政大臣に任命権はない。帝に任命権がある」
日照雨はそう言ったが、巳山上は笑うだけだった。
「融様の影響は絶大ですよ。帝といえど、意向に沿わねばなるまい」
日照雨は押し黙った。本当の帝はいない。朝霧は柊から聞いた帝の姿しか知らないが、稚拙な理想を描いた彼ならば、太政大臣の好きにはさせないはずだ。彼と柊は、巳家に侵食された政治を自らの手に取り戻そうとしていた。
「巳山上様、あなたはこのまま巳笠原が右大臣になることを容認なさるのですか?」
朝霧が尋ねると、巳山上はとんでもないと言うように拳を床に叩きつけた。
「到底容認できることでは無い! 巳笠原は巳一族を蝕む毒だ」
忌々しいというように巳山上は巳笠原の名を吐き捨てた。同じ巳一族なのに、ここまで憎むとは。だが、朝霧たちには好都合だ。巳一族が結束するより、瓦解してくれた方がいい。
「私たちは巳笠原を強訴するつもりです。我々に必要なのは確かな証拠ではございません。それも必要ですが、一番必要なのはそれに賛同してくれる者の権力なのです」
巳山上は巳一族の中でも古い歴史を持ち、大納言という地位にいる。巳山上が賛同するだけで、流されるように賛同する者はいるだろう。
「どうだろうね。私は今、監禁されていて命は風前の灯。まずはこの状況を脱しなければ巳笠原を倒すことなど不可能」
どうやら、巳笠原を倒すことには前向きな様子だ。朝霧は畳みかける。
「我々に協力してくれるのならば、秘密裏に食料を届けさせましょう。物忌みは長くとも一ヶ月。それ以上篭っていては、不審に思われることでしょう」
朝霧がそう言うと、巳山上はごくりと唾を飲み込んだ。人目がなければ、先程朝霧が渡した頓食に齧り付きたいと思っているはずだ。食事を摂らなければ、正常な判断が出来なくなる。巳山上が空腹というのは朝霧たちにとって追い風かもしれない。
彼は空腹に耐えかねて、食料を渡すという提案に屈しそうになっている。
「巳笠原を倒す、その証拠はあるのか?」
巳山上が尋ねる。その目はぎらりと光っていた。温和な人物に見えて、意外に狡猾なのかもしれない。
「巳笠原は、皇后陛下を暗殺しようとしました。その証拠を我々は握っています」
皇后という単語が出た時に、巳山上は一瞬顔を顰めた。
「なるほど、貴様ら皇后の手先か。今の宮中で皇后が暗殺されかかって必死に犯人を追い落とそうとするのは、皇后派の人間しかいない」
巳山上の発言に、日照雨が腹の底から低い声を出した。獣が喉笛に噛み付くような気迫を感じた。
「このまま沈む泥舟に乗り続けるのか? 食料を届けるのは皇后陛下の慈悲だぞ」
日照雨は無慈悲に、皇后の慈悲に縋らなければこのまま餓死することになるぞと脅した。
「巳笠原が邪魔なのは我々と同じです。手を組む余地があるとは思いませんか?」
朝霧の言葉に、巳山上は険しい顔を崩さなかった。自分の命と、巳家の裏切り者になってしまう葛藤があるのだろう。
「太政大臣は、あなたに餓死しろと残酷な死を突きつけた。そんな方に忠義を尽くす義理はありますか?」
朝霧が尋ねると、巳山上は唸るような返事をした。自分の置かれている状況、それを作り出した太政大臣。冷酷に巳山上を切り捨てた融。それは庶子を躊躇いなく切り捨てる巳笠原に通ずるものがあった。この一族は人の形をした蛇なのではないか。そう思うほどだった。
「この世で最も恐ろしい毒をご存知ですか?」
朝霧は静かに語り出した。
「植物性の毒、動物性の毒、鉱物性の毒。どれも恐ろしいですが、真に恐るべき毒は人の心の中にあります」
朝霧が射抜くようにじっと巳山上の目を見つめると、巳山上は唇を噛んだ。今まで生まれ育ってきた巳一族からの脱却。それはとても大きな決断なのだろう。
物忌みのために焚かれている護摩の匂いが辺りに充満していた。虫の声、草木の騒めき。全てが遠景で、灯りが燃えている様だけがはっきりとこの場にあった。
「…わかった。巳笠原を強訴する際は協力しよう。そのために私が死なぬように食料を届けるのだ」
「わかりました」
交渉は締結した。日照雨は朝霧に目線をやり、巳山上にばれないようににやりと笑ったように見えた。朝霧たちが巳山上の邸から脱出したときには、すでに夜は更けていて西に傾く月が出ていた。
***
皇宮に戻る頃には、太陽が昇り始めていた。こうなると夜の闇に紛れる黒の衣は目立つ以外の何物でもなく、日照雨は朝霧を後宮の近くまで送ると、すぐに去っていった。朝霧も目立たないように、月光宮まで戻った。
「朝霧殿、いったいどこへ行っていたのですか。昨夜はお姿が見えなくて」
早朝に起きていた女房、六つの花に見つかってしまった。しかもまだ黒い衣のままだったので、朝霧は焦った。明らかな外出着を寝間着だと言い訳するのは苦しいだろうか。
六つの花は女房の中で年嵩で、上臈と呼ばれる食事の給仕や髪型や化粧の世話、話し相手などを行う高位の女房だ。特に、柊の髪に椿油を塗り込む作業は六つの花にしか任せられないと女房たちの間では共通認識になっている。
まだ朝霧が皇后の女房になる前に、高位の貴族の娘が柊の女房として仕えていたらしいのだが、その女房は嫉妬に狂い枝毛を手入れするという名目で、長かった柊の髪を一房、ばっさりと切ってしまったのだという。
当然、皇后の体を傷つけたとしてその女房は解雇された。髪が短くなったからと言って帝の寵愛が薄れることはなく、むしろそんな女房を付けてしまったことを詫びられ寵愛は深まったらしい。しかし、それからは柊は髪の手入れは信頼のできる者にしか任せなくなったという。
六つの花は表向き、貴種の後家ということになっているが本当は柊の実の母だ。白雪と同じく、形だけ貴種の身分を手にいれ、仮名を賜り柊を傍で守っている。
朝霧は中臈という下臈という下位の女房の仕事の監視、雑用を担当する中位の女房として引き抜かれたので、本来なら柊と会話するのは不可能な立場だが、暗殺の犯人の報告のため特例で話をすることができる。
六つの花は心配そうな顔をして、朝霧を見つめた。
「何か…危ないことをしているのではないの?」
きっと朝霧が夜の間に不在だったこと、そして明らかに怪しい衣を纏って何処かへ行っていたこと。全てばれている。しかし、柊は六つの花には秘密を明かしていないのだろう。白雪だって知らないようだ。
家族にさえ明かせないのはつらいだろう。しかし、柊は嘘を抱えさせて苦しめることをしたくなかったのだろう。朝霧にだって、朝霧が自ら暴かなければ隠し続けたはずだ。
「いえ、何もしていませんよ。六つの花殿は心配しすぎです」
朝霧は誤魔化すように笑顔を浮かべたが、そんなことで六つの花が納得してくれるわけはなかった。
「朝霧殿、その衣…黒いから目立たないかもしれないけど、朝顔の青の汁が付いていますよ。洗濯で落ちるかしら…」
六つの花の言葉に、朝霧の心臓は跳ねた。六つの花は朝霧が後宮の外に出たことを確信している。巳山上邸から脱出する際に、衣に擦ってしまったのだろう。
「青い朝顔は麗扇京じゃ、一部の場所にしか咲きません。整地の折りに運んできた土の種類が違うから花の色が青くなります」
六つの花が淡々と詰めてくる。朝顔は紫陽花ほどはっきりとではないが土壌が酸性か碱性(アルカリ性)かで色が変わる。六つの花が青い朝顔の場所を絞り込んで調べたら、巳山上にたどり着くかもしれない。
しかし、六つの花は困ったように微笑んだ。
「あなたが秘密にしたいなら、深くは問いません」
そう言って六つの花は去っていった。見逃してもらえた…ということだろうか。しかし、朝霧が柊の敵になるようなことがあれば六つの花は容赦しないだろう。柊の勘の鋭さは母親譲りなのかもしれないと思った。
危険を冒したおかげで、収穫もあった。巳山上の協力を取り付けた今、彼の物忌みが一か月以上続くのであれば朝議の場でなぜ来ないのか問うことができる。餓死させられないとわかった太政大臣は、一旦は表舞台に巳山上を連れ戻さなければならないだろう。
そこでようやく、場が整う。巳笠原と巳雲居を暗殺未遂と暗殺を企んでいた罪で晒しあげれば、巳家に打撃を与えることになるだろう。