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拾弐

 朝霧あさぎりは一旦、七瀬ななせのことは日照雨そばえの言う通りに中宮の元で泳がせることにした。今からは、巳一族の中でも穏健派であり巳笠原みかさはらに不満を持っている巳山上みやまかみの協力を得る為の交渉に入る。


 朝霧は日照雨を護衛に、直盧じきろに向かった。宮城外に出る時も護衛は必要だが、宮中こそ敵が跋扈している。


 直盧とは摂関せっかん太政官だいじょうかん宿直とのいや休憩を行う為の部屋だ。今ではもっぱら執務室としての役割を持っており、いおり(簡易な家)に逆らって堅牢な造りと立派な調度が目立つ。


 今回は皇后の女房、朝霧として堂々と行くわけにはいかないので、帝の護衛、日照雨を目立たせて朝霧は尚侍ないしのかみ(女官の最高位で帝の秘書官)の部下、少侍しょうじ(日常的な文書や物品の出納に関与する女官)に扮して、あくまで帝の命令という形で行うことにした。


 巳山上大納言の直盧は、宜陽殿ぎようでん東廂とうしょう(日差しを防ぐ為に屋根が出た造りの建屋)にあった。


 朝霧は日照雨の後ろで仕えるようにして歩き、日照雨は堂々と歩いた。東廂の警護の兵士が、日照雨に話しかける。


 「こちらに何用か」


 兵士は不審そうに日照雨と朝霧を見ていた。日照雨は帝の護衛を示す佩玉を取り出して目の前に掲げると、「巳山上大納言に取り次いでくれ」と言った。


 兵士は帝の佩玉の威光に怯えて、少し目線を泳がせた。何か隠していることがあると言っているようなものだった。


 「巳山上大納言は物忌みのためをとっておられます」


 兵士の声は震えていた。昨日の朝議には参加していたはずだが、急に物忌みとは少し怪しい気がした。


 「巳山上大納言の直盧にて陛下の臨席のない密議を行なっているという匿名の通報があった。私は調査権限を有している。入らせて貰おう」


 日照雨がすらすらと嘘を言っていることに、朝霧は驚いた。彼は頭の回転が早く、機転が効く方だとは思っていたがまるで詐欺師のように澱みなく嘘を本当のように言うのは才能だろう。

 彼の嘘は帝付きを示すの佩玉により、真実味が増していた。


 「本当にいらっしゃらないんです!」


 兵士は慌てて日照雨を止めようとするが、彼は片手で兵士の腕を捻り上げて放ったあと、直盧の扉を勢いよく開けた。中はしんと静まり返っていて、人の気配はない。先程、乱暴に扉を開けたからか埃が舞っていた。


 「…どうやら本当に物忌みとして自宅に篭っているらしい。しかし密告があった以上、直盧の調査は行わせてもらう」


 嘘で堂々と巳山上大納言の直盧の調査を行えることになったが、ここに何か手掛かりはないだろうかと朝霧も辺りを見渡した。


 「しかし困ったな。本当に自宅に篭られているなら、接触の機会が無いぞ…」


 日照雨が朝霧にだけ聞こえるように呟いた。巳山上が巳笠原や巳雲居を陥れられるような重要な証拠を持っていたとして、それを直盧にわかりやすく放置するとは思えない。それより、朝霧たちは巳山上に巳笠原を共通の敵として協力できないか交渉しにきたのだ。


 その時、朝霧は装束を保管する小部屋に気づいた。中に入ってみると、朝議などに参加する時に身につける黒の装束が衣桁に掛けられていた。


 「日照雨殿、これです!」


 朝霧は装束を指差した。これこそが、巳山上に近づく策になると考えた。直衣で出仕した太政官は直盧で装束に着替える。


 「夏に入りましたが、梅雨の名残がまだあります。湿気が多く装束は傷んでしまうでしょう。これを理由に巳山上の邸に行きましょう」


 朝霧がそう言うと、日照雨も納得したようににやりと笑った。




***




 貴族たちの住う邸がある区画は、麗扇京みやこの北側、宮城付近を囲うように存在している。朝霧と日照雨は装束を荷車に積み、巳山上邸を訪れていた。日照雨は直盧を管理する官吏として、朝霧は裁司の女官としてやってきた。


 「それにしても、化けたなぁ」


 日照雨は朝霧の顔を見ながら、恐ろしいものを見たというようにしみじみと呟いた。朝霧は今までの調査活動により、顔が割れていると判断して化粧をした。


 いつも仕事一筋で、化粧なんてせずに素顔で出仕していたが、今は白粉を叩き、紅を引き、眉墨で眉を引き、目の下には印象を変えるために黒子を描いた。そうすると地味だった顔の印象が変わり、華やかとまではいかないが愛嬌のある顔にはなる…と思っている。


 あとは、衣の下には綿を詰めて体型を多少変化しているように見せている。少し見ただけでは、朝霧だとは気付けないくらいには変身できただろう。


 巳山上邸は物々しい雰囲気だった。過剰に兵士が警備についている。物忌みをしている主人を守るにしては何か、奇妙なような。まるで守っているのではなく、監視しているような。


 「そこの荷車よ、止まれ。何者だ?」


 門を守る兵士の一人が朝霧たちの荷車を止めた。日照雨は頭を下げた。


 「私は大納言の直盧を管理する官衙に勤めております、時雨しぐれと申します。巳山上様の装束がかなり傷んでおりますので、処分するものの検分と新しいものをお預かりするために参りました」


 「後ろの女は?」


 兵士の男が朝霧に目を向けた。いくら化粧をしているとはいえ、骨格まで変えられるわけじゃない。もしかしたら朝霧の顔を知っているかもしれないと、肝が冷えた。


 「裁縫係の者です」


 日照雨が平然を装って話すが、彼が唾を飲み込むという緊張の動作をしてしまったことを朝霧は見逃さなかった。天性の嘘つきでも、やはり人間は無意識に嘘だという証拠を残してしまう。


 「巳山上様は物忌みで篭っておられる。日を改められよ」


 人払いを命じられているのだろう。兵士は獣を追い払うかのようにしっし、と手を振った。それが荷車を引いていた駄馬は不快だったのか怒ったように鼻を鳴らした。


 「しかし、いつ出仕するかわからない大納言だいなごんを傷んだ装束のままお迎えするわけには参りません。私たちの首が飛んでしまいます」


 朝霧が目を潤ませながら、訴えると兵士も少しの不手際で簡単に笞刑ちけいに処されたり、最悪の場合は首が飛んでしまう下級役人の悲しい運命に同情したのか、少しこのまま追い返すのを躊躇ったように見えた。


 そこを突くようにして、日照雨は口を開いた。


 「巳山上様から帰れと言われたなら仕方がないが、取り次ぎもせずに帰れとは失礼ではないか? こちらだって仕事として来ている」


 その正論に、返す言葉が見つからなかったのか兵士は「わかった。取り次いでみよう」と頷いた。しばらくして、出て来たのは巳山上邸に仕える女房だった。


 「私が装束をお預かりし、ご主人様にお伺いします。荷車を裏庭に回してください」


 白髪混じりの熟練の女房のように見受けられた。きっと巳山上の信頼も厚い、と思わせるほどに貫禄があった。荷車を裏庭に回している間、朝霧と日照雨は鋭く辺りを見渡した。顔を動かさず、眼球だけを動かす技だ。


 巳山上邸の見取り図と兵士の位置を頭に叩き込む。寝殿造りの邸は母屋とひさしという建築構造に板床を張って濡れ縁を巡らせ、内部は丸柱が立ち床は板張りだった。


 南側には庭園には鯉が泳ぐ池があり、そこに突き出すように釣殿がある。真ん中には寝殿が、北と東に対屋があり、侍所と車宿がある。朝霧たちの荷車は車宿の辺りに連れて行かれた。


 「巳山上様に直々に判断していただきたいのです。よろしくお願いします」


 朝霧は念を押しながら、装束が入った箱を女房に手渡した。女房はそれを受け取って奴婢たちに運ぶように言いつけた。


 「確かに受け取りました。物忌みの最中なため、対面は叶いまませんが、ご主人様に直々に装束の様子を判断してもらうように取り計らいます」


 そうして女房は建屋の中へと消えていった。朝霧は、手を合わせて祈りたくなるような気持ちを堪えてじっと待った。ここからさ運任せだ。装束が直接、巳山上の手に渡るのを待つしかない。


 しばらくして、先程の女房が新たな装束が入った箱を手に帰って来た。


 「新たな装束にございます。くれぐれも道中お気をつけて運んでください」


 朝霧たちは新たな装束を荷車に積むと、巳山上邸を後にした。


 「……これは、賭けに勝ったと見ていいのか」


 日照雨がぽつりと呟いた。第一関門は突破したと見ていいだろう。


 「いえ、賭けはこれからです。私たちは始点に立ったに過ぎません」


 朝霧はそう返す。交渉の準備は整ったと見ていいだろう。朝霧たちは傷んだ装束の帯に刺繍で文を仕込んだ。「巳笠原の横暴は目に余る。賛同し、交渉の席に着く用意があり、応なら、新しい装束を預け夜に蔀戸を開けてお待ちください。否なら、新しい装束は日を改めて送るとお伝えください」という内容だ。


 巳山上は新しい装束を預けた。これは交渉の席に着く用意があるという意味だろう。帯に隠すようにして文を認めたので、気づいてもらえない可能性や装束を損壊したと言われる可能性もあった。しかし、装束に普通に文を隠すのではバレる可能性が高い。


 こうして帯に刺繍をして伝えるという手段しか取れなかった。装束は誇りの現れだ。普段身につけるものの些細な変化に巳山上が気付けると信じた賭けだった。




***




 夜の闇に紛れる麻の黒い衣には、衣の下の腹の部分に麻縄を巻きつけて簡易の鎧とした。動きやすい袴と草履、顔は布で覆って目元だけ見えるようにした。


 「まさか、野盗の真似事をすることになろうとは…」


 暑苦しいというように首元の布を緩めながら、日照雨は呟いた。


 「正々堂々など、矜持にしがみついていては命がないやもしれません。巳山上は装束を預けた。あとは蔀戸しとみどが開いているかどうかが答えです」


 朝霧は口元を布で隠しながら、そう答えた。毒を盛って暗殺しようという、朝霧が最も嫌う卑怯な手を使って来た相手に対抗するには、こちらも手段は選んでいられない。

 

 「卑怯な搦手からめてを使うのは今に始まったことではないが…。本当に一緒に行くのですか? 朝霧殿は危険ですよ」


 日照雨が心配そうにこちらを見つめる。


 「ひいらぎ様はあなたなら、私を守りながら戦うことは余裕だと仰いました。それに私なら交渉の役に立てるはずです」


 日照雨の瞳が揺れた。柊からの信頼が心を揺さぶったのだろう。彼の押し殺した恋情が実ることはない。それでも傷つくだけだとわかっていても、彼が柊の傍にいるのは何故だろう。朝霧はふとそう思った。


 帝の護衛という職につき、美丈夫で女に困ってそうには感じない。それでも彼の心を占めるのは柊なのだと思うと、少しの恐ろしさを感じた。


 柊は魔性の女だ。浜木綿はまゆうが蝮のような毒を持った恐ろしい女だとすると、柊は花の蜜のような甘い毒の持ち主だ。彼女自身に、日照雨の恋情を利用してやろう、誑かしてやろうなどという気は一切ないのは傍で見て来た朝霧は知っている。


 柊は微笑みで毒を隠し、その全容は掴めない。玉蟲色の女だ。帝の死の隠蔽という嘘を抱え、それを朝霧に明かしてくれた今でさえ、まだ柊には隠し事をされているのではないかという気がする。隠し事を問うても、柊は自分で暴けと言うだろう。


 あの魔性の女に狂わされているのは、朝霧とて同じなのだ。同じ女に困らせられ、狂わされている者同士、朝霧は日照雨を哀れな同志として見つめた。甘い毒が体内に巡るのを楽しもう。


 「…わかった」


 日照雨は柊からの信頼と朝霧への心配で板挟みになったような険しい顔をしたが、柊の信頼に応えることを選んだ。


 二人は昼間に叩き込んだ邸の見取り図と兵士の配置を躱すように動線を定め、動き出した。しかし最終的には、朝霧の忍足の精度が低いことにより、日照雨が米俵のように朝霧を担いでの移動になった。


 「重いって言ったら、手が滑ってしまうかもしれません」


 朝霧が冗談めかして脅す。


 「いつもの女房装束を着ている時の方が重いだろう。それに比べたらましです」


 日照雨は軽々しく朝霧を抱えながら、素早く塀を乗り越えて屋根を伝い巳山上の寝殿の近くまで来た。あとは、ここで蔀戸が開けてあれば、朝霧たちは第一関門を突破したことになる。


 「もし、交渉が失敗したら…。交渉に乗ったこと自体が嘘で罠だったら私たちは死にますかね」


 朝霧は今更沸いてくる不安を思わず口にしていた。


 「そんなことになれば、死に物狂いであなたを担いで逃げますよ。それに、多少の放火に巳山上には目を瞑っていただくことになるかも」


 日照雨は冗談めかしてそう言った。しかし、放火の部分は、冗談じゃないのだろう。邸に潜入する前に、日照雨は厩舎に寄り、藁に油をたっぷりと染み込ませていたのだから。それが活躍することがないことを祈るしかない。


 巳山上の寝殿の蔀戸は──開いていた。これが罠だとしても朝霧たちは虎穴に飛び込むしかない。蔀戸の中からは仄かな灯りが漏れている。


 朝霧と日照雨は覚悟を決めて、そっと蔀戸から飛び込んだ。中は薄暗く、大殿油が蔀戸からは言った夏の風に揺れていた。床に映し出された人影が、揺れる。


 奥には円座に座った一人の男がこちらを見ていた。


 「ようこそ、お越しくださいました」


 敵を招き入れたかもしれないのに、男の態度は鷹揚であった。この男こそ、巳山上なのだろう。朝霧はゆっくり唾を飲み込んだ。

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