拾壱
笠井 忠房に身内は居なかった。たとえ巳笠原と血が繋がっているとはいえ、表向き家族としての頭数に数えられていない忠房には死体を引き取ってくれる家族がおらず、無縁仏として処理されることになった。
「人相がわからぬほど膨れ上がって…それに供養してくれる家族もいないとは…」
朝霧は思わず、彼のために手を合わせたくなった。しかし、それを険しい顔で日照雨は止めた。
「あまり同情するのも止した方がいいですぜ。こいつは人殺しなんだ」
彼の瞳には友であり主人を殺された恨み、そしてそれにより柊が悲しみの淵に立たされていることへの怒りが滲んでいた。
「俺は血の復讐において、七代先まで復讐する…いや、してやりたい。でも実際に復讐の掟を背負うのは若宮様になってしまう。それを柊様は望まないだろう」
日照雨の目には消えない憎悪と、その憎悪によって未来まで焼き尽くしてしまうことへの僅かな躊躇いが見て取れた。朔にとって不倶戴天の仇は巳笠原なのだろうか。でもきっと、朔が状況を理解し復讐を志す前に日照雨や朝霧たちが決着をつけるだろう。
朔には何のしがらみもない、明るい未来を歩いてほしい。そう願わずにはいられない。だからこそ、柊や日照雨の覚悟は固いのだろう。
「湿っぽい話になってしまった。この話はやめよう。朝霧殿、せっかく宮城を出たのですから他の所に寄りますか?」
日照雨が自分が口にしてしまった言葉で空気を重くしてしまったのを償うように明るい声を無理して作っているようだった。
「内薬司の女医、七瀬について調べようと思います」
「その者も暗殺に関わっているのですか?」
朝霧は少し躊躇ったが、柊が信頼している人物である日照雨に隠すことでもないのかもしれない。柊の深い傷を朝霧が軽々しく口にしてしまっていいものか悩んだ。だが、ここで朝霧が言葉を濁すことによって、日照雨に状況が伝わらず、最終的に柊や朔の命を脅かすかもしれない。
朝霧たちの置かれている状況は、目隠しをしながら綱を渡っているような心地が続く。一歩踏み外せば奈落へ落ちるのだ。
「柊様に処方する薬をわざと失敗したものを献上し、流産を引き起こすことを企てた疑いがあります」
朝霧がそう言うと、日照雨の眉間には深い皺が寄り奥歯を噛み締めたように見えた。その反応で彼は柊が流産を経験したことを知っていたのかもしれないと朝霧は思った。
七瀬は平民出身であり、姓が無い。だが、宮仕えを輩出し、しかも女なのだから有名なはずだ。親が薬師だという情報も手に入れている。朝霧は麗扇京の薬屋を訪ねて回った。
「七瀬ちゃんの実家と言ったら川沿いの涼華屋っていう薬屋よぉ。親父さんも、大層自慢にしててね」
近所に住む女たちの井戸端会議に突撃して、聞き込みを行えばすぐに場所は割れた。たどり着いたのは、何の因果か巳雲居が芥子を買い上げた薬種商の店であった。
「巳雲居に買収された可能性があります。典薬寮に出入りできるので、帳簿の改竄も彼女なら可能です」
「十中八九、そうでしょう」
朝霧が険しい顔で呟くと、日照雨も同意した。巳雲居も巳笠原も巳の一族という大きな輪で繋がっている。それを崩すのには、どうしたら良いのだろう。
「日照雨殿、以前に巳家の分家は山、川、野、雲に分かれたと仰いましたよね」
「ええ、そうです。その四家が分家の中で最も古い歴史を持ちます」
日照雨が解説するには巳家の始祖には五人の息子がいたと考えられている。長男には本家を継がせ、次男には雲、三男には山、四男には川、五男には野、という字を与えたのだという。
「字の意味から、序列がわかってきました。上から下に流れているのです。まず序列一位の雲。雲居という姓から雲のある空、天上、転じて貴人の御所を意味します」
きっと巳雲居が本家に一番近い家柄なのだろうと朝霧は予想した。一番高い場所、空にある雲という字は高貴さを意味する。
「序列二位は山。空に向かって高く聳え立つ。雲に次いで高いです。山から流れる川は序列三位。川が流れた先に広がる野は序列四位といったところでしょう」
巳家は自らの繁栄を絵巻ものに喩えるために分家に字を与えたと日照雨が教えてくれた。雲は殿上人を意味し、山は麗扇京に聳える神聖な山、麗扇山を指す。そこから流れる川は生命の源を意味し、広がる野は麗扇京という扇状に広がる裾野を意味する。
ここから、朝霧は嫌な想像をする。もしや巳家は、始祖の代から麗扇京──この国そのものを乗っ取ろうとしていたのではないか。巳本家は帝、巳雲居は側に仕える一番高貴な従者、山は雲より下位の従者、川は民の支配、野は土地そのものを支配…といったように。
これはただの権力争いによる、暗殺計画ではない。建国の時代から歴史を積み重ねて皇位簒奪を狙う強大な計画。朝霧は、帝の死の隠蔽という計画だけでも大変なのに対する相手が歴史を重ねた皇位簒奪計画という壮大さに目眩がしそうだった。
少し前まで、ただの典薬寮の役人だったのに。とても遠い場所まで来てしまった。
「巳笠原は分家の中では新参なのですよね」
朝霧は日照雨に尋ねた。
「そうです。最初の四家ほどの歴史はありません。しかし、今や分家の中では一番出世して太政大臣に重用されています」
太政大臣に重用されているということは、巳本家に重用されているということだ。朝霧が予想した始祖が思い描いた絵巻ものは崩れ始めている。明確に、雲、山、川、野という上位の序列があったはずなのに巳笠原の登場で崩れたのだ。
巳笠原は笠という字を与えられている。笠は雨具だ。雨は雲から降る。巳雲居から枝分かれしたのだろうか。それとも雨から連想して、水。つまり川から枝分かれした家だろうか。原という字から連想して、野か。
「巳一族は一枚岩ではありません。序列、格差…きっと内部から崩れるはずです。私たちは巳一族が崩れる矢を放たなくてはなりません」
朝霧がそう言うと、日照雨の目がぎらりと光った。
「戦を起こされるか」
日照雨はどこか嬉しそうだ。もしかしたら彼は裏でこそこそと情報収集をし、敵である中宮派に挑発されても黙って耐えている現状に不満を覚えていたのかもしれない。反撃に出ると知って嬉しさが滲み出ている。そういえば、この人は武人だったなと朝霧は思い出した。
「巳一族のうち、巳笠原に反感を持つものをこちら側に引き込みます。巳笠原を重用する巳本家にも不満を持っているものは多いでしょうから」
朝霧がそう言うと、日照雨は賛成しながらも「そう上手くいくのか」と心配した。
「確かに巳一族は中宮派です。皇后派にはならないでしょう。しかし、巳笠原の台頭はよく思っていないはず。巳笠原を共通の敵として、一時的な協力を要請します」
これが巳笠原を倒す、巳一族の弱点だ。
「分家の中にも過激派と穏健派がいます。皇后暗殺に乗り出しているのは巳笠原と巳雲居。この二つの家は協力関係にあると想定して動きましょう。穏健派の代表は巳山上あたりでしょうね」
日照雨は顎を触りながら、記憶を辿っているようだ。そして巳山上、これは最初の四家の「山」の家だろう。先程、巳笠原の血筋の根源を辿った時に唯一引っ掛からなかった家だ。笠という字は「雲」か「川」に連想で辿り着き、原という字は「野」に辿り着く。
「巳山上をこちらに引き込みます」
朝霧は真っ直ぐ宮城の方角を見つめた。肥大化した巳家という獣を内なる毒で瓦解させよう。
***
「黒胡麻は髪に艶を出し、大根は毒素排出、山芋は抗老化、棗は女性の病に効きます」
七瀬は中宮の御所に赴いていた。華美な調度に負けないほど中宮である浜木綿は眩く美しかった。そんな高貴な御方の居室に七瀬が呼び出されたのは理由があった。
「この身は陛下の御子を産み落とす大切なものです。美しく保つには、やはり専門家が必要ね」
綺麗に整えた桜貝のような爪がついた指をしなをつくって頬に添えた浜木綿は婀娜っぽい雰囲気を纏っていて、同性である七瀬でさえ、見惚れてしまうほどだった。
七瀬が浜木綿に呼び出されたのは今朝のことだった。内薬正が七瀬を直々に呼び出して、中宮からのお呼びがあると伝えてくれた。
中務省被官──内薬司、その長官である内薬正。内薬司は望診、聞診、問診、切診と呼ばれる四診を行い、皇家に提供される薬や食事などを嘗試する職務についている。皇家の毒味役である。
女医として優秀な成績を収めた七瀬は光栄なことに内薬正に可愛がられている。七瀬は内薬正を尊敬していた。そんな彼からの呼び出しに、心臓を跳ねさせながら執務室に向かったものだ。
そして、告げられたのは中宮直々の指名。七瀬は緊張しながら、中宮の御所に向かった。派手好きで、高飛車な方なのだろうと勝手に噂で聞いていた人物像を想像していたが、実際の浜木綿は気性がさっぱりとしていて、慈悲深く、皇后のもとで酷い扱いを受けていた女嬬を引き取ったのだという。
懐が深く、帝の治世を守るために己の使命を果たそうと、自身を磨き続ける様は尊敬の念を抱かずにはいられなかった。
「少し前、皇后も典薬寮の女官を自身の女房に取り立てた。きっと、美容の知識を欲したのだ。私も遅れをとるわけにはいかない。協力してくれるだろう、七瀬」
浜木綿は花が綻ぶような笑みを七瀬に向けた。
「もちろんでございます。中宮様のお役に立てるなら…」
七瀬は少し頬を赤らめた。今まで内薬正にも実力を認められていたが、中宮にまで実力を認められることになろうとは。少し前までの自分なら信じなかっただろうと七瀬は思った。
「そういえば七瀬、実家のご両親は元気? 巳雲居のおじさまが随分と贔屓にしていると聞いたものだから」
浜木綿のその言葉に、はっとして七瀬は頭を伏せた。
「はい。格別にご贔屓いただき、傾いていた家業も持ち直しております」
七瀬の実家の薬屋は、同業の者たち仕入れる薬を取られる仕打ちを受け、一時は廃業の危機だった。薬草を採取していた土地の荘園の主が変わったとかで、その土地の薬草は涼華屋が専売できていたはずが、他の薬屋に薬草の採取権が移ってしまったのだ。
そんなとき、手を差し伸べてくれたのが巳雲居だった。巳雲居の計らいで巳雲居の荘園の薬草を採取しても良いことになり、廃業は免れた。
「七瀬、お前の皇后の薬の処方や典薬寮の帳簿の改竄などの献身、私はよく知っていますよ」
浜木綿は今までの七瀬の苦労を知っていてくれたのだ。そう思うと、心が温かくなった。
「中宮様もご存知でしたか。いつも巳雲居様から指示をいただいておりましたから」
巳雲居はいつも石楠花などに文を結って、七瀬の元に指示を送る。萎れた菊が挟まっていた時は「実行しろ」の合図だ。
「巳雲居のおじさまも、巳笠原のおじさまも…全ては私のために動いてくれています。七瀬、よく働いてくれますね。嬉しく思います」
浜木綿に微笑みかけられ、七瀬は努力が報われたような気がした。恩を返すのは人間として当たり前のことだ。巳雲居に協力することが、浜木綿の為にもなるならこれほど嬉しいものはない。
こうして、七瀬は内薬司での女医の仕事の傍ら、中宮の美容の相談役としてたびたび中宮の御所に通うことになった。女医の中では破竹の勢いでの出世であり、内薬正も大層喜んでくれた。
***
朝霧が宮城に帰ると、忠房の死はもう風化されつつあった。話を聞いた主水司の同僚の男だけは悲しんでいたが、誰とも深い関係を築いていなかった忠房には、深く悲しんでくれる人がいなかった。
主水司の役人の不審死より、内薬司の女医が中宮に気に入られたという話の方が広まっていた。
「内薬司の女医…嫌な予感がします」
「あの七瀬という者ですか?」
朝霧が呟くと、日照雨も険しい顔をした。七瀬は巳雲居と繋がっている。中宮とも繋がっていてもおかしくはない。中宮に気に入られた女医の噂を集めると、やはり七瀬の存在が浮かび上がってきた。
「これはまずいです。七瀬を当帰芍薬散の配合の失敗の咎で捕まえようとしても、中宮が守る可能性があります」
朝霧はまた小夜を殺した女嬬が中宮の庇護の元に行ってしまった時の悔しさを思い出していた。
「中宮が間に立ってしまったなら仕方がありません。無理矢理、引き摺り出そうとすればこちらが痛い目を見るでしょう。今は中宮の元で泳がしましょう」
日照雨は意外と冷静だった。さっきまで戦を起こすと血の気が盛んで好戦的だったのに、中宮という言葉が出てからは大人しくなった。彼のような皇后に忠義心の厚い人は白雪のように怒りを露わにするかと思ったのに。