拾
「笠井 忠房が消えました」
朝霧が秋彦との対面を終えた次の日、血相を変えた白雪が謁見の間に飛び込んできた。
笠井 忠房とは巳笠原の庶子であり、主水司の役人で帝を暗殺した飲み水に砒霜の入った毒氷を混入させた疑いのある人物である。
皇后と中宮が参加した朝議があったあと、すぐにこれだ。怪しいことこの上ない。白雪の調査では、忠房は真面目な役人で今まで何の連絡もなしに假(休暇)を取ることはなかったという。
物忌みか、ただの假か。同僚の話では、数日前から歯痛を訴えていたらしい。
白雪からの報告を聞いて、柊は首を振った。
「その忠房という者、すでに巳笠原に処分されただろう」
朝霧も柊と同じ予想をしていた。しかし、こちらが毒氷の真相に近づいている気配は徹底的に見せていなかった。こちらの動きに気づいて、慌てて手を下したというよりは暗殺の下手人をいつまでも飼っていると、そこから情報が漏れるかもしれないという恐れからか。
「巳笠原に不利な証言をした楉爾という者、今は弾正台の監視下にいますね。逆に安全でしょう。陛下の即位から、私たちは宮廷の膿を一掃できるよう努めましたから、弾正台は上手く機能しているはずです」
柊は、朝霧に視線を向けてそう言った。かつての同僚が不審死したら、朝霧だって寝覚めが悪いだろうという配慮だろう。朝霧は久しぶりに楉爾の顔を思い出していた。
そういえば、楉爾は朝霧を女だからと見下さず、むしろ朝霧の知識に感心していることが多かった。同じ典薬寮の役人として対等に扱ってくれ、僅かな好意だって滲んでいた。今思えば、きっと彼も庶子だと見下されてきたから、見下したくなかったのかもしれない。
朝霧が、楉爾の好意に応えなかったのは色恋に疎かったのもあるが、結婚相手を探しにきているという誹りに対抗するために意地になっていた。
もし、楉爾が清廉潔白な役人だったなら。罪を犯していなかったなら。朝霧は、楉爾の好意に応えただろうか。そこまで考えて、意味のないことだと思考を閉ざした。
「皇后陛下、典薬寮の調査に行かせてください。まだ帳簿の改竄の犯人が見つかっていません」
それに、柊に処方された薬の和が乱れた当帰芍薬散を調合した犯人もまた見つかっていなかった。
「朝霧、焦るのはわかりますが怪しまれない程度にしなさい」
「心得ております」
若干、不安そうな柊を押し切り朝霧は典薬寮の調査の許可を貰った。典薬頭はまた朝霧が来たことに、明らかに不満そうな顔をしたが典薬寮のどの建屋にも立ち入りを許可した。
帳簿は前回と変わらず、改竄されたままで新たに改竄された場所はなかった。そして、朝霧は「皇后陛下が当帰芍薬散を処方してくれた医官に大変感謝しており、礼を言いたいと探している」という情報を流すことで犯人を炙り出そうとした。
「…それはきっと内薬司の女医でしょうな」
典薬頭の何気ない一言を朝霧は聞き逃さなかった。
「内薬司の女医…ですか?」
宮廷には典薬寮の他にも薬を扱う内薬司という官衙があった。そこを完全に見落としていたことに気づいた。目の前が夏の暑さで眩むようにちかちかとした。
女医は内薬司の側に別院を造って住まわせ、産科を始め、創腫、傷折、針灸を担当している。皇后の月のものに関わる当帰芍薬散は女医の担当だったのだろう。
「なぜ、内薬司が処方したのに典薬寮の帳簿に記録があるのですか?」
朝霧はあまり言葉が鋭利になりすぎないように気をつけながら尋ねた。典薬頭は自分が責められていると察知すると言い訳に逃げようとするばかりで本当のことを言ってくれない可能性があった。
「女医は典薬寮の医博士が指導しているでしょう。それに薬園は我々、典薬寮が管理しておりますし、こっちの役人とあっちの役人が行き来することもありましてな。…まあ、内薬司が典薬寮と併合されるという噂もあるので。当帰芍薬散の材料はうちから出ていますし、記録があることも不思議でない」
典薬頭が言い訳に流れようとする気配を察知した朝霧は無理やり会話を自分の流れに持って行った。
「当帰芍薬散を処方した女医の名前はわかりますか」
「七瀬という者です。民間の薬師の娘で、腕を買われて内薬司の女医になったとか…」
内薬司の女医の教育は典薬寮の医博士が徹底して行っているし、家が薬屋ならば薬に親しんで育ってきたのだろう。それが、婦人病の代表的な薬、当帰芍薬散の調合を間違えるような初歩的な失敗を犯すだろうか。やはり、意図的にしたものだ。
「ありがとうございます」
朝霧は典薬頭に礼を言うと、典薬寮を後にした。意外とあっさり引いた朝霧に、典薬頭は少し拍子抜けしたような顔をしていた。もっと根掘り葉掘り聞かれると思っていたのだろう。
朝霧はまた宮中の噂の調査を始めた。急に假をとった笠井 忠房の行方を知る者はいないか。そして女医の七瀬の身辺調査である。
主水司や内薬司の役人に過ぎない二人より、宮中の噂は皇后と中宮の激しい争いに目が向けられていた。白雪が怒りを見せたように、やはり紫という禁域を犯した中宮の行為は噂の的であった。
噂は、女の争いは恐ろしいと締め括られることが多い。朝霧の中宮、浜木綿の印象は蝮のような女だと思った。顔は花のように美しい。しかし、毒を孕んだ蝮のように思えてならなかった。
茶会の時を思い出す。浜木綿は目の前に立つと気圧されてしまいそうなくらいの残酷な美貌と恐怖を併せ持っていた。朝霧が柊だったならあそこまで冷静に言葉を返せたかわからない。
朝霧は主水司の官衙がある区画へ向かった。白雪が調べてくれた、歯痛を訴えていたという話が気になった。もしかすると、忠房は自分が消されるかもしれないと予感していたのかもしれない。
楉爾が諦めのように、自分が巳笠原の庶子だと言った時の様子を思い出した。庶子たちは自分が軽んじられていて、いつでも切り捨てられる存在だと薄々わかっているのではないか。それでも困窮して、目の前に金を積まれたら、手を伸ばしてしまう気持ちはわかる。
朝霧も、父を治す薬を目の前に差し出されたら手を伸ばしてしまいそうになるだろう。
もしかしたら庶子たちは、協力すれば出世や家での立場などを保証すると言われているかもしれない。餌を吊り下げるのは簡単だ。
朝霧は主水司の役人に聞き込みを開始した。あわよくば毒氷の手掛かりを掴めたら良いと思いながら。
「忠房…ですか。確かに歯痛を訴えていました。でも何だか尋常じゃないほど怯えていて。そんなに歯が痛かったのかと…」
主水司の役人たちは皆、忠房の歯痛を知っていたようだった。そこで、朝霧は忠房が毒氷を仕込んだとされる一年前のことを聞いてみた。
「一年前? そんなの覚えてはいませんよ。彼はいつも真面目に働いていました」
役人たちは彼の仕事ぶりを評価していた。彼は寡黙な性格で、黙って職務をこなしていたようだ。だからこそ、彼が感情を露わにし歯痛を訴えていたのが余計に記憶に残ったそうだ。
「一年前と今の歯痛で休んでいるのに、何の関係があるのですか」
忠房の同僚の男は不審そうに朝霧に尋ねた。今の朝霧は、官服を身に纏い女房装束ではない。しかし、いざとなれば皇后の佩玉を取り出し、無理やりにでも話を聞き出そうと思っていた。
「とにかく、一年前に何か不審なことやいつもと様子が違ったなんてことはありませんか」
朝霧が尋ねると、男は顎に手を当て首を捻りながら記憶を呼び覚まそうとしていた。
「…そういえば、仕事を代わって貰ったことがありましたね」
ぽつりと呟いたのを朝霧は見逃さず「詳しく」と続きを促した。
「氷の運搬業務だったんですが、何せ氷は貴重でしょう? 私は緊張であがってしまいましてね。そうしたら忠房が代わってくださったのですよ。いつもは自分の職務にだけ忠実にこなすので、意外と面倒見がいいのだなと思ったものです」
氷──その言葉に推測が繋がった気がした。忠房が代わったのはその時に氷に毒を仕込むためだったのだろう。
「その職務を代わった後に、何か変化はありませんでしたか?」
「えぇ…? そう言われると、確かにその後の仕事時は少し上の空だったような…」
朝霧は証言から推論を組み立てた。豪胆な者でもない限り、自分が暗殺の下手人を務めるなんて緊張して当たり前だ。そして表向きには皇后の暗殺は失敗したことになっている。きっと忠房は自分の失敗が咎められるのではないかと恐れたはずだ。
「ところで、あなたはなぜそんなにも忠房のことを聞きたがるのですか?」
男が朝霧に尋ねた。朝霧は一瞬、佩玉を見せてしまおうかと思ったが、安易に皇后との繋がりを開示してしまうのは嫌な予感がした。
「実は私と忠房殿は恋人だったのです。何度も文のやり取りをしたのに最近は何のお返事もなく…!」
朝霧が泣き真似をして見せると、男は納得したのと憐れむような表情を朝霧に向けた。
「それは可哀想に…」
男が憐れみの言葉を口にしたその時だった。駆使丁の男が今にも吐きそうな顔をしながらやって来た。
「忠房さんの衣を着た水死体が川から上がったそうです」
朝霧に話していた男はそれを聞いて縮み上がった。「恋人だったのでは!?」と取り乱している。朝霧はすぐさま、主水司を後にして忠房が見つかったという川に向かった。宮城の外に出る時には、日照雨を護衛につけなさいと柊から言われていたので、連絡をとった。
日照雨はすぐに駆けつけてくれた。柊は朝霧に調査を頼んでいるので、朝霧も顔が売れてしまい危険な目に遭うのではないかと心配していた。だから、本来は帝の護衛である日照雨を朝霧の護衛に貸し出してくれた。
「笠井 忠房の死体が見つかったって?」
日照雨の額には汗が滲んでいた。直丁に文を託してまだ少ししか経っていないのに。日照雨は文を確認してからすぐに走って来てくれたようだ。
文はいつどこで情報が漏れるかわからないので事前に決めていた符牒を一言書いただけだった。意味としては、緊急事態、直ぐに来てほしいというものだ。
「はい。死体が荒らされてしまう前に確認に行きます」
そうして朝霧と日照雨は宮城を飛び出した。忠房が見つかった川の土手には筵をかけられた死体が一つあった。
野次馬が集まっていて、その中の一人が「水死体なんて見るもんじゃねぇよ!」と女の朝霧を止めたが、構わず人混みを掻き分けて死体に近づいた。
筵を捲った日照雨は「うおっ…」と思わず声を漏らしていた。水死体は膨れ上がっていて、ぶよぶよしていて気持ちが悪かった。日照雨の反応もわかる。
朝霧は少し躊躇ったが、覚悟を決めて死体を観察した。屍の鼻と口から出る水泡のようなもの、これらも水で溺れた証拠とされ、溺れた時に吸い込んだものが出てくると思われる。それを確認しようとしたが、見つからなかった。
手のひらには皺があるが手の甲にはない。甲に皺ができるのは水中にいて五日以降だから、まだ長く水の中にいたわけではないようだ。体は膨れているが皮はめくれていない。
水に落ちて死亡した場合、肌の色は白く、口は開いて目は閉じている。腹が膨れ、爪に砂泥が入っているとされる。しかし、死体の爪にはもがいて入るはずの水底の砂泥は入っていない。
殺した後、水の中に棄てた場合、黄ばんで、両手は少し屈んでいて腹は膨れず、爪に泥や砂が入っていない。この死体は溺死したのではなく、殺された後に川に遺棄されたのだ。
巳笠原は忠房を処分した。柊の予想は当たっていた。庶子とはいえ自分と血のつながった子供を簡単に殺してしまえる巳笠原が恐ろしかった。
「朝霧殿、これは…」
日照雨が小声で話しかける。
「これは溺死ではなく、殺された後に川に遺棄されたのでしょう」
朝霧が静かに呟くと、日照雨は驚いたような顔をした。日照雨は水で膨らんだ死体を直視するのもつらそうだったので、朝霧のようにこれが遺棄された死体であるという証拠に気づけなかったのかもしれない。
「どうしてわかるのです。皮膚はもうこんなにふやけていますよ」
日照雨は臭いがきつかったのか鼻を押さえていた。確かに、朝霧は風上に立ち日照雨は風下に立っている。死体を検分する際は必ず風上に立つべし、という教えが体に染み付いていた朝霧は自然と風上に立っていた。
「死体は時に生者より饒舌です」
朝霧がそう言うと日照雨は「そういうものですか」と納得したように頷いた。