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 そこで初めてひいらぎが口を開いた。


 「太政大臣だいじょうだいじんよ。陛下の御簾を下すという決断を、そなたが踏み躙るのか?」


 その言葉は、病の後遺症で弱った姿を晒し臣下たちに不安を与えまいと御簾を下し平常を装う帝の決断をお前が台無しにするのか? と尋ねているように聞こえた。


 「私は、以前の陛下からの変わりように驚いたまでにございます。歩き方も変わられました。体重の掛けかたが変わったように見えます。これは病の後遺症なのですか? どうか健康な姿を見せ、安心させてください」


 太政大臣のその言葉で朝霧あさぎりは直感した。太政大臣は帝が別人に変わったことを確信している。そしてそれを証明するために、帝に御簾を上げさせたいのだ。


 「私は皇后陛下ではなく、今上陛下に申し上げているのです」


 太政大臣は頭を下げたまま続けた。朝堂院ちょうどういん内には、太政大臣にあそこまでさせるなんて…という騒めきが広がっていた。水面に石を投げ、波紋が広がるように。他の太政官たちの顔にも不安が滲んできた。


 本当に、帝は健康なのか? まさか平民の血を引く若宮を後継にしなければいけないのか? そんな不安が広がれば、もしかしたら、帝が別人に変わったのではないかという疑惑が大きくなるはずだ。


 人から人への不安の伝染は止められるものではなかった。朝霧は時間が経つにつれ悪くなる状況に冷や汗が止まらなかった。


 「皇后陛下。今上陛下のご容態は、誰もが案じております。にもかかわらず、陛下の病に関して隠し立てが過ぎるのでは? だからこそ太政大臣もこれだけ心配しているのです」


 父を援護するかのように浜木綿はまゆうが口を開いた。声は冷たく、だが鋭く毒が込められている。


 「太政大臣、そして中宮の発言、誠に無礼にして危険です。陛下の御体に関する事は、内廷の者が軽々しく口にすべきではありません」


 柊が庇えば庇うほど沈黙を貫く帝──影武者は異様に映る。こちらが何かしようとすればするほど、相手の思う壺なのだと朝霧は気づいた。


 その時だった。


 「よい。皇后。そんなに臣下たちを不安にさせてしまったのは余の落ち度。御簾を上げることで信頼が戻るのであれば、上げよう」


 御簾の向こうからそう声が聞こえた。そんなことをしてしまったら影武者であるとばれてしまう。朝霧は慌てて、柊の顔を見た。しかし、柊の表情は変わらず口だけを動かしてこう言った。「私を信じろ」と。


 侍従の者たちが、するすると帝の御簾を上げていく。足が覗き、胴体を覆う袍が見え、そして顔のところまで御簾が上がり、何も遮るものが無くなった。


 「…その顔は…!」


 太政大臣が思わずと言ったように言葉をこぼした。朝霧も息を呑んだ。帝の顔には痣があった。


 「見慣れた顔ではないか。何を驚く必要がある。即位の際に玉体に傷がある帝は相応しいか否かと散々議論してくれたではないか」


 影武者であるはずなのに、その男は本当の帝のように見えた。朝霧は姿絵でしか帝を知らなかった。顔を知っているはずの太政大臣らが偽物だと何も言い出さない。


 政変の際に逆賊から麗扇京みやこを解放する際の戦いで、帝は火傷を負ったとされる。それが足を引っ張り、保守派の貴族たちは玉体に傷がある帝はいかがなものかと議論した。結果的にはこの国を逆賊から救った英雄の印、名誉ある痕として、神性を高めることによって彼は玉座に昇った。


 「陛下はご無事だったのか」


 「太政大臣の心配も杞憂でしたな」


 一気に安堵の空気が広がる。朝霧も状況が飲み込めなかった。太政大臣は「なぜ…」と自分の確信が外れたことに驚いているようだった。


 「皇后陛下、これはいったい…」


 朝霧が小声で尋ねると柊は悪戯っぽく笑った。


 「私を信じろ、といっただろう?」




***




  「皇后陛下、説明してください!なぜ、影武者がばれなかったのです!?」


 月光宮に戻った後、朝霧は柊と二人きりになると我慢ができず尋ねた。柊は余裕そうな笑みを浮かべている。


 「影武者を演じていたのはね、今上陛下の双子の弟である秋彦あきひこだ。大臣たちが気づかなかったのも無理はない。秋彦はこの場にはいないはずの人間だからね」


 秋彦という名前を聞いた時に、朝霧は政変のことを思い出していた。当時はまだ朝霧は裳着を済ませていなかった子供だったので、詳しいことは後から知った。


 奇形であるが故に、寺に流された皇子。それを担ぎ出し叛乱に出た一族がいた。しかし、頭にされた皇子、秋彦は傀儡であり自分の意思で叛乱を起こしたわけではなかった。それが情状酌量の余地ありと判断され死罪は免れ遠い土地に流刑に処されたと聞いている。


 「秋彦殿は皆、流刑地にいると思っているからですね」


 「そうだ」


 柊は笑って頷いた。流刑地にいるはずの罪人がまさか麗扇京みやこに舞い戻り、帝の影武者を務めているなんて誰も思わないだろう。そして、秋彦にあった生まれつきの痣と帝が政変時に負った火傷の痣。奇しくもその位置が重なり、傷跡さえも鏡合わせのようにそっくりになったそうだ。


 柊は帝の死を隠すと決めた時に、白雪しらゆきに自身の影武者を頼み日照雨を護衛につけ自ら流刑地に赴き、秋彦に影武者を依頼したと話し始めた。




***




 流刑地に笠を被った旅装の女と佩刀はいとうした護衛らしき男が現れたのはよく晴れた日のことだった。風は爽やかで洗濯した衣がよく乾き、過ごしやすい気温だった。


 「こんな辺鄙へんぴなところまでよくお越しくださいました。どうぞ、粗茶くらいしか出せませんが上がってください」


 秋彦はそう言って二人を家の中に上げると近隣住民に聞かれないように窓を用心深く閉めた。笠を脱いだ柊の顔は張り詰めていて、後ろに控える護衛の顔も暗く、これから重い話が始まることを予感させた。


 「いきなり尋ねて申し訳ない、秋彦殿。文では詳しい状況をお伝えできなかった。どこから情報が漏れるかわからないから」


 柊の声は切羽詰まっていて、焦りが滲んでいた。


 「そうですとも。わざわざ皇后陛下がお忍びでお越しになるくらいのことなのでしょう」


 秋彦は頷いた。柊は全く出した茶には手をつけなかった。日照雨という護衛の男は茶を出されることすら拒んだ。主人の妻と同じ扱いは受けられないということだろう。同じ卓を囲むことを遠慮したのだ。


 「……陛下が亡くなりました。砒霜ひそによる毒殺です」


 柊の声は感情が爆発するのを抑えるような抑揚のない声だった。後ろに控えていた日照雨は俯いていた。その言葉を聞いて、秋彦は遠いところで兄が死んだのは冗談でも何でもなく事実なのだと知った。


 「わざわざ、報告に来てくださったのですか」


 秋彦が尋ねると、柊は「それだけではないのです」と真剣な表情で語り出した。


 「私は、陛下が亡くなったことをさく…息子が元服するまで隠し通すつもりです。陛下が亡くなられたことが公になれば、巳家は増長を止めることはできないでしょう。秋彦殿、どうか影武者を頼みたい」


 帝の死とはこの国を揺るがす大事であった。しかし、国がどうとか、民がどうとか、そんなものは秋彦にとっては遠くにあった。ただ血を分けた兄がもうこの世のどこにもいないという事実が重くのしかかった。自分の半身を引き裂かれたみたいだった。


 「影武者を私が務める…? そんな行いは玉座を汚す行いです。私は逆賊に利用され、自分の意思ではないとはいえ皇位を簒奪しようとした罪人なのですよ」


 兄の温情により命を繋ぎ、流刑で済んだのだ。秋彦は玉座に興味はない。権力にだって興味はない。僧侶になるべくして育てられ、写経や座禅などの修行を受けてきた。権力に執着するという者の気が知れず、秋彦を突き動かしたのはただ家族に会ってみたいという願いだった。


 秋彦は柊が帝の死を隠す理由が己の権力を手放したくないという醜い執着だったなら、協力しようとは思えなかった。


 「協力してくだされば、あなたの罪を不問とし、影武者の役目を終えれば自由にしましょう」


 柊の言葉は普通の罪人にとっては甘い誘惑なのかも知れない。しかし、この地で生涯を国を乱したことに対する贖罪をするために生きると覚悟を決めていた秋彦にとってその言葉は覚悟を揺るがすには足りなかった。


 「兄上が毒殺されたことは、不憫ですし犯人は報いを受けて欲しい。しかし、なぜ兄上の死を隠すことになるのでしょう。全て天命と受け入れればよいではないですか。それとも、あなたはそれほど失脚するのが怖いですか? 手に入れた地位が惜しいですか」


 秋彦は淡々とそう尋ねた。あまり感情が乗りすぎないように淡々としたのが余計に挑発のように受け取られてしまったのかも知れない。太刀を横に置いていた日照雨の指がぴくりと動いた。彼は今、柊を侮辱されたと感じ怒りに身を包まれたのだろう。


 しかし、柊の瞳は凪いでいた。


 「あなたのような人には、世俗の私は煩悩を捨てきれない女に見えるのでしょう。地位に固執した欲深い女だと蔑んでくれて構いません。私は、生き汚くて朔を守るためなら鬼にでも夜叉にでもなる覚悟です」


 朔──はじまりを意味するその名前を、兄と柊はどのような思いで子に託したのだろうか。ふと、秋彦はそんな考えが過った。きっと未来を見たはずだ。国の夜明けを願ったのだ。


 会ったことのない甥の姿を想像してみた。兄の遺児は間違いなく秋彦の家族であるはずだ。


 「私は、陛下の理想とした政治、未来を守りたいのです」


 柊は過去の遺志を継承し、未来に繋げたいのだろう。秋彦は脈絡もなく、「絆」ということについて考えていた。馬などを繋ぐ綱という成り立ちを持つこの字のことを。これを知ったとき、秋彦はあまり良い意味の字ではないのだと思った。


 秋彦だって自分が皇子だと知った時、頭に過らなかったわけじゃない。なぜ、母は自分を捨てたのだろう。なぜ片方は日嗣の御子と尊ばれ、片や自分はただの僧侶で終わるのだろう。痣さえなければ、自分は家族の元で養育されたのではないか? 答えのない幸せの願望ばかりを考えた。


 兄が傷を負って自分の生来の痣とそっくりな傷跡ができたと知った時、秋彦は兄が自分に手を伸ばしてくれたのだと思った。


 絆とは、呪いのようなものだ。断ち切れぬ呪いだ。それでも秋彦は家族に愛を持った。愛憎かも知れない。でも、自分の愛を呪いごとかき抱こうと思った。


 朔に会ってみたい。そう思った。


 「兄上のためならば、私をお使いください。皇后陛下」


 秋彦は手をついて頭を下げた。兄が残したものを、継いで未来に繋いでいきたいと強く思った。




***




 朝霧が影武者の正体を知った日の夜、月光宮には帝の御渡りがあった。朝霧が女房になってからたびたび帝は御渡りになっていたが、その時はまだ影武者であるなど知らなかった。


 どうして、帝は既に死んでいると結論を出したときに疑問に思わなかったのだろう。否、それよりも帝が死んでいるという事実が重すぎて、夜伽をどうしているかなんて些細な問題だったから気にも留めていなかった。


 御渡りを隠れ蓑に使って柊は影武者である秋彦と堂々と情報を交換することができたのだ。秋彦はあれだけ帝にそっくりなのだ。中宮も気づかなかったのだろう。もしや、中宮に御渡りを始めた背景には、秋彦が堂々と中宮派の内情を探りに行くためだったのか。


 柊の言っていた中宮派に忍び込ませたという間者は、秋彦なのではないか。


 「そりゃあ、信頼できるわけだ」


 柊の思慮深さと強かさを見せつけられたようで、朝霧は思わず感嘆のため息を漏らした。帝の死を隠すと決めた皇后、そしてその共犯者たち。帝の暗殺という巨大な陰謀に立ち向かうのと同時に、朝霧は帝の死の隠蔽という陰謀に組み込まれていることに改めて途方もない心地になった。


 帝の死の隠蔽いんぺいは朔が元服するまで続く。柊はいったい朔を何歳で元服させるつもりだろうか。今、朔は齢三つ。影武者が長く続くとばれる可能性は高まる。七つか八つで元服させるのだろうか。しかし、政略の都合上誕生する幼い帝は摂政を必要とする。国が荒れる元だ。


 少なくともあと十年は、影武者を続けなければいけないのだろうか。公澄こうちょうの焦りが朝霧にもわかった。こんなこと、長く続けられるはずがない。


 「朝霧殿、皇后陛下がお呼びです」


 そのとき、白雪が朝霧を呼びにきた。考えに耽っていた朝霧は一瞬だけ反応が遅れた。


 「今、皇后陛下の元には今上陛下がお越しじゃ…」


 皇后の寝室の隣には白雪が記録を取るために控えていたはずだ。何があったときは白雪を呼ぶことになっている。柊は白雪に朝霧を呼ぶように頼んだのだろう。


 「とにかく、呼んできてほしいと仰せつかっています」


 静かに歩く白雪の後に朝霧は続く。白雪は帝が影武者であることを知らないはずだ。隣の房で夜伽よとぎの記録を取る際に不審に思ったりしないのだろうか。柊の性格上、夜伽をしているような音を偽造して、実際は情報交換をしているだけだろう。

 柊は帝を深く愛しているようだった。操を立て、双子の弟とはいえ情を交わすことはしないだろう。もしかしたら、白雪は不審には思いつつも朝霧とは違い真実を暴かないことを選んだのかもしれない。


 真実などなくとも、白雪は姉を信じることを決めた…のかもしれない。それは朝霧には到底できない忠誠の誓い方だった。

 

 皇后の寝室、御帳台みちょうだいの中には柊と秋彦がいた。朝霧は床に伏して挨拶をしようとしたところ、秋彦に制止された。


 「あなたはわたしが影武者であるということを知っていると伺いました。礼を尽くす必要はありません」


 秋彦は穏やかな声をしていた。その声から、彼の人となりが窺えた。


 「秋彦殿、彼女が協力者の朝霧です。自ら、影武者の存在に辿り着きました」


 柊は自慢するように朝霧を紹介した。


 「そうですか。それは恐ろしい慧眼けいがんの持ち主だ」


 秋彦は褒めているようではあるが、まだ完全には朝霧を信頼はしていないようだった。目は少しの警戒が見れる。


 「朝霧、以前影武者を暴くときに筆跡の違いと香りの違いを挙げましたね。影武者の精度をより高くするために、出来るだけ違いというものを消していきたい。協力してくれますね」


 柊は真剣な眼差しで朝霧を射抜いていた。朝霧も姿勢を正し、熱意には同等の熱意を持って返さねばならないと思った。


 「はい。筆跡の違いは詳しい者が見たらばれてしまいます。右利きと左利きでは文字の重心が変わり、特にはらいや跳ねに癖が出ます」


 柊は朝霧の言葉を聞いて、練習するほかないのか…と呟いた。今までは、秋彦の左利きを無理やり矯正して不自然な文字になるくらいなら、左利きのまま帝の文字に似せるようにしていたらしい。


 「香りの違いはどうする。秋彦殿には、陛下と同じ衣を着てもらい、同じ伽羅きゃらの香をつけてもらっている」

 

 柊はこれ以上はどうしようもない、と朝霧に尋ねた。


 「香りというものは香をつけたから全く同じになるという訳ではないのです。香とその人が持っている元来の体臭が混ざり合い香りを放つのです」


 朝霧はそう説明したが、香りという近くにいないと感じないものにまでそこまで過敏に気を配らなくとも良い気がした。帝の衣の選択を司る女官だって、秋彦本人の体臭を嗅ぐ機会などないのだから、衣に残る残り香だけで影武者という真実には辿り着かないだろう。


 しかし、香りの変化を朝霧に教えてくれた人物の顔を思い出した。不安に駆られ、潤んだ瞳をこちらに向けた朔のことを。


 「若宮様には、影武者のことをお伝えするのですか?」


 朝霧は尋ねた。朔は何か不穏な雰囲気を感じ取っている。父親が変わってしまった違和感。成長すれば、幼き記憶に残る父と今の父が別人である可能性に辿り着くかもしれない。


 「朔には影武者のことは隠し通します。あの子に、この嘘は大きすぎる」


 柊の顔には悲壮な覚悟が滲んでいた。まだ朔が幼いから嘘を守れないというのもそうだろうが、柊にとっても誰にとっても帝の死の嘘は重いものだろうと朝霧は思った。


 それでもこの人の覚悟に、理想に、着いていくのだと決めた。

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