第四章 第4部:深層の記憶
前回までのあらすじ
五年前に「エリシオン」との接触任務を遂行した探査船オミクロン。
その旧乗員たちは再び集結し、「扉」を通過して銀河の深部へと向かった。到達したのは、かつての宙域と酷似した中規模ブラックホール。その重力井戸の赤道面上には八つのモノリス状構造物が存在し、観測結果は「エリシオン」との一致を示していた。
通信を送ったオミクロンは、映像と音声による応答を受信する。その中で姿を現したのは、「前・人類」とされる若い女性アミナ――そして彼らは自らを「ネメシス」と名乗った。入港要請が受理されたオミクロンは、「ネメシス」構造体への接近・進入を開始する。
迎えたのは、ライブラリアンを名乗る女性・セレイン。彼女との対話の中で、ノヴァック博士は「オメガ」からもたらされた銀河規模の「知的存在の失踪」という現象について説明する。その発生はあらゆる知的文明に及び、自分たち太陽系の種族もその対象になることを懸念しており、その調査と回避のための探求の旅をしている旨を伝えた。
セレインは、ネメシスもまた「前・人類」によって創造されたのではなく、より上位の存在「ハダノール」によって設計されたと語る。ただし、その記録へのアクセス権は彼女たち「維持者」にはない。現在、ネメシスが唯一通信しているのは「カザレオン」と呼ばれる存在であり、彼らのアクセス権は最上位であるという。
ノヴァックは、その「カザレオン」との直接通信の可能性を問う。セレインはそれを肯定し、通信アドレスの特定と、言語コーデック、翻訳支援、演算資源の提供を申し出る。アディティ博士はこれを受け入れ、チームはカザレオンとの通信準備を開始する。
一連のやり取りの中で、ジョアン・イエーツは、ネメシスに漂う「人間らしさ」に気づき始める。冷たい構造体の奥に微かに灯る心の在処――それは、「前・人類」の希望の灯がまだ完全には消えていないことを示唆していた。
オミクロンの一行は、セレインの案内によって「ネメシス」の居住区画へと移動した。
構造体の内部にあるとは思えぬその一画は、整然とした都市空間だった。高い天井には柔らかな拡散光が注がれ、歩道には静音化された移動ユニットが行き交い、市民たちが穏やかな表情で暮らしているのが見て取れる。
驚くべきことに、そこには単なる機能美を超えた生活の匂いがあった。市場と思しき広場、植物の育つ中庭、子どもたちが遊ぶ広場――決して演出された「展示」ではなく、そこに根ざした日常が存在していることが、視覚的にも空気感としても伝わってきた。
案内役として彼らを迎えたのは、「レオン」と名乗る少年だった。年の頃は十五、六といったところだろうか。銀灰色の短髪に明るい琥珀色の瞳。端整な顔立ちにはまだ幼さが残るが、言葉遣いや物腰には不思議な落ち着きと自信があった。
「こちらが皆さんの居住区になります。必要なものがあれば、すぐに対応できますので遠慮なくお申し付けください」
レオンは笑顔を浮かべながら、流れるような足取りで先導した。言葉の節々に混じる好奇心の色を、ジョアン・イエーツは見逃さなかった。
この少年は、明らかに外から来た自分たちに興味を持っている。だがそれは警戒でも畏怖でもなく、純粋な探究心に近いもののようだった。
案内された宿舎は、「宿舎」と呼ぶにはあまりに快適すぎた。まるで星間航路のエリートが利用する高級ホテルのようで、各部屋には広いリビングスペースと調整可能な環境制御システム、高機能のバスルームや視覚アートを取り入れた空間演出まで完備されていた。
ジョアンは内心、言葉にならぬ衝撃を受けていた。
六万年以上も前に地球を離れた「前・人類」の末裔でありながら、彼らは今なおこのような文化を維持し、「快適さ」という感性さえ我々「現・人類」と共有している――この事実は、偶然では片付けられなかった。
……彼女が感じたのは、単に物理的な快適さではなかった。
この空間には、「住まう」ことへの美意識や、心地よさに対する何かしらの秩序があった――それは、自分が慣れ親しんだ「西洋的」な様式に通じていた。
けれど、そんなものが人類にとって普遍的なものだということが、あり得るだろうか?
それとも、まったく別の始源から偶然近似したものなのか――その答えを、ジョアンはまだ知らなかった
サミラ・デ・シルバ博士もまた、到着してからずっと静かに観察を続けていたが、宿舎の玄関でぽつりと呟いた。
「この都市の社会的構造、文化的コード、そして空間設計……ジョアン、これだけで論文が三本は書けるわ」
「この空間、私たちには心地よいと感じられるけど……それって、私たちが育ってきた環境に似ているからよ。
本当に人類すべてに通じる感性なのかどうか、文化人類学的には慎重になるべきだわ」
ジョアンは微笑みながら頷いた。
「私もまったく同じことを考えていた。けれど、それ以上に気になるのは……どうして彼らがこれを失わずにいられたのかってことね」
◇◇◇
「カザレオン」の言語解析計画は、翌日から「ネメシス」が提供してくれる研究施設で本格的に始動することになっていた。それまでの短い空き時間、クルーたちは思い思いの方法でこの未知の環境と対峙することを選んでいた。
部屋に備えられたアメニティを試す者、端末でのオンデマンド情報収集に没頭する者、あるいは探索心のままに街へ繰り出す者――それぞれが、空白の時間に自分なりの意味を与えていた。
現地語の壁は、存在しなかった。
ヘリオスの入出力装置が提供するシームレスな翻訳環境は、彼らに異なる言語を用いているという感覚すら抱かせなかった。文法も発音も文化的含意さえも、ほとんど完全に再構成された言語体験がそこにあった。
ジョアンはサミラと連れ立って街へ出てみることにした。
滑らかな静音路面を行き交う市民。
整然と配された都市インフラ。
商業施設では買い物客が品物を選び、公園では子どもたちが無邪気に遊び、親たちがそれを見守っている。
その光景は、あまりに――「地球的」だった。
そのとき、ジョアンの心に突如として波のような違和感が広がった。
「……何かがおかしい」
一瞬、足を止める。サミラが振り返るが、ジョアンは応じない。視線は街の光景に吸い寄せられていた。
「エリシオン」では、すべてが静謐で、制御されていた。人々の感情は希薄で、定められた行動を反復するだけの存在だった。だが、ここ「ネメシス」では、人々は笑い、怒り、戸惑い、悩んでいるように見える。
ブラックホール由来の無尽蔵のエネルギー供給、徹底的なリサイクル・ゼロエミッション構造。モノリスから排出される物質は一粒の塵さえ検出されていない。資源的な意味で、彼らは完全に自立した存在であり、生産の必要はないはずだった。
では、なぜ「都市」があり、「商業」があり、「仕事」があり、「通勤」があるのか?
統制された最適化社会のはずなのに、そこには非効率で個人的な要素が満ちている――
彼らは、何をしている? なぜ、こんなにも多くの人々が存在している?
ジョアンの中で、驚くほど原初的な問いが湧き上がる。
この都市はおかしい。
論理と感覚の齟齬が、言いようのない不安となって胸を締め付ける。
まるで、完璧な風景の背後に、見てはならない何かが潜んでいるかのように――
ジョアンは、胸の奥で目を覚まし始めた不安の正体に、まだ名前を与えることができなかった。
◇◇◇
「……彼らの暮らしには、齟齬があるのよ」
宿舎へ戻る道すがら、ジョアンがぽつりと呟いた。
「感情の振る舞いも、社会の振る舞いも、見た目には確かに自然。でもね、よく見ると目的が欠けているの。あの笑顔も、働く理由も、誰も言葉にできない」
サミラは歩調を緩め、周囲に注意を払いながら応じた。
「それ、わかる。あの市場、売っているものは確かに食材だったけど、保存性や品種の偏りが不自然だった。文化的記号として存在してるけど、生活必需品の供給体系には見えない。あれは……展示のようなものよ」
ジョアンは頷いた。「演じている――でも、それを自覚していない。それが気味悪いのよ」
二人は翌日、研究施設に向かう前に、いくつかの場所を「観察対象」として選び、再訪した。
商業区域、教育施設、情報センター――そして、都市の郊外の共同菜園。
まず訪れたのは、情報センター。インフォメーション端末には都市史が記録されていたが、特筆すべきは「都市の起源」が一切語られていないことだった。
「建設開始年が書かれていないの……代わりに『記録開始日』っていう表記になってる」
ジョアンの声に、サミラは眉をひそめた。「それ、記憶データの開始点ということかもしれない」
次に立ち寄った学校では、教師と思しき人物が生徒に「演劇」の指導をしていた。だが、その内容はどれも日常生活の再現だった。
「買い物のやり取り、親子の会話、通勤、通学……」
まるで文化的ルーチンをトレースする訓練のようだった。
極めつけは、共同菜園だった。立派な区画と作物が育っていたが、栽培工程に一切の土壌管理が存在しなかった。根の生え方や排水の構造すら、どこか模造のように思えた。
「生産というより、舞台装置のように見えた」
サミラの声には確信が滲んでいた。
「この都市は、生活の痕跡を記録し、再生する機構にすぎない。そこに生産性や必要性はないのよ」
宿舎に戻る道すがら、ジョアンは目を細めて呟いた。
「じゃあ彼らは、いったい何のために、これを続けているの?」
サミラは、少し間を置いてから言った。
「保存よ。これは、かつて存在した人類文化をそのまま演じることで、記録し続けているの。おそらく、それが彼らに与えられた存在意義」
その言葉に、ジョアンはぞっとした。
生きるという行為が、意味ではなく、使命として課された演技だとしたら。
その中に埋もれていく感情、個性、意思……それでも、彼らは確かに笑い、言葉を交わし、誰かを想っているように見えた。
「彼らは知らないのね、自分たちが記憶だということを」
それでも――彼らの声や仕草に、ジョアンはどこか懐かしさを覚えていた。
それは過去への郷愁ではなく、人間という存在そのものへの、静かな哀惜だった。
窓の向こう、暮れかけた空の下、子どもたちが公園で遊んでいる。
その笑い声はあまりに無垢で、あまりに人間的だった。
ここまで読んでくださり、本当にありがとうございます。
今回は、「ネメシス」という場所の中にある、表面とは違う何か――その兆しに、ジョアンやサミラたちが気づきはじめるエピソードでした。
外から見れば完璧で、整っていて、心地よささえ感じられる都市。そこに暮らす人々もまた、ごく自然に、穏やかに生きているように見えます。けれど、その“自然さ”こそが逆に、ジョアンには不気味に映ったのです。
なぜなら、それはあまりに“目的”を感じさせなかったから。
サミラの視点も加わり、観察が深まるにつれ、「彼らは何かを演じているのではないか?」という疑問が浮かび上がります。そして、最終的に浮かび上がったのは、“記憶としての生活”という仮説でした。
それは、生きるということが、誰かの記録を再現する義務になってしまった社会なのかもしれない――そんな、切ない現実です。
書きながら私自身も、「文化」「快適さ」「人間らしさ」とは一体何なのかを問い直していました。
見かけの豊かさや安定が、必ずしも“生きている”ことと同じとは限らない。そう思ってくださった方がいたら、とても嬉しいです。
次の物語では、ついに「カザレオン」との通信に踏み出します。
ジョアンたちが感じた違和感の先に、どんな真実が待っているのか――それを一緒に見届けていただけたら幸いです。