【FTMスーパー銭湯デビュー短編小説】「湯けむりの向こうで僕は」
●第1章:決意と不安
玄関に置かれた段ボール箱から、新品のバスタオルの匂いが漂っていた。周防天音は、そのタオルを手に取り、まだ硬い生地の感触を確かめるように指でなぞった。
「やっぱり、やめとこうかな……」
自分の声に、少し掠れた低音が混じっているのを聞いて、天音は微かに笑みを浮かべた。テストステロンの投与を始めてから一年。確実に、少しずつ、身体は変化していた。
鏡の前に立つと、以前よりも角ばった顎のライン、わずかに太くなった首筋、そして胸部の圧迫着の下に隠された平らな胸。手術はまだ先だが、少なくとも外見は、かなり男性らしくなってきている。
それでも、全身を晒すことへの不安は消えない。
「でも、いつかは行かなきゃいけないんだよな……」
天音は、スマートフォンに表示された「大江戸温泉物語」のウェブサイトを、もう一度確認した。平日の午後2時。客足が最も少ない時間帯だ。
玄関の壁に掛かった小さな仏壇には、父の遺影が微笑んでいた。
「お父さん、見守っていてね」
天音は、バスタオルとシャンプー、そして着替えを防水バッグに詰め込んだ。財布の中の会員カードには、戸籍上の名前ではなく、通称名の「周防天音」が印刷されている。これも、長い時間をかけて勝ち取ったものの一つだ。
スーパー銭湯に向かう電車の中で、天音は耳に差したイヤホンから流れる音楽に意識を集中しようとした。しかし、頭の中では様々な不安がぐるぐると回り続けている。
(バレたらどうしよう……追い出されたら……警察を呼ばれたら……)
それでも、行かなければならない理由があった。
一年前、父が他界する直前、天音は父にカミングアウトをした。長年隠し続けてきた自分の本当の性別について、ついに打ち明けたのだ。
「天音……お前の人生だ。好きなように生きろ。でもな、逃げちゃダメだ。自分から一歩を踏み出せ」
それが父の最期の言葉だった。
それ以来、天音は一つずつ、できることから始めていった。ホルモン治療、名前の変更、職場での理解を得ること。そして今、銭湯。これも、避けては通れない一つのステップだった。
電車が目的地に近づくにつれ、心臓の鼓動が早くなっていくのを感じる。イヤホンから流れる音楽が、まるで遠くで鳴っているように聞こえた。
駅を降りると、初夏の陽気が天音を包み込んだ。空には薄い雲が流れ、時折吹く風が心地よい。
スーパー銭湯の建物が見えてきた時、天音は深く息を吸い込んだ。
「よし……行こう」
自分に言い聞かせるように呟きながら、天音は自動ドアに向かって歩き始めた。
「いらっしゃいませ!」
元気の良い声で出迎えられ、天音は少し緊張を和らげた。フロントに立つ若い女性スタッフは、にこやかな笑顔で会員カードを受け取った。
「周防様ですね。本日は木曜会員割引が適用されます」
何の問題もなく、会計を済ませ、下駄箱に靴を預ける。ここまでは、ごく普通の手続きだ。
しかし、その先にある男湯への入り口を前にして、天音の足は一瞬、止まった。
(大丈夫、問題ない。自然に振る舞えばいい)
天音は、父から教わった呼吸法を思い出した。ゆっくりと息を吸い、ゆっくりと吐く。
更衣室のドアを開けると、湯けむりの匂いが鼻をくすぐった。
中に入ると、数人の男性客が黙々と着替えている。天音は、なるべく端のロッカーを選び、背中を向けて服を脱ぎ始めた。
一枚、また一枚と服を脱ぐたびに、心臓の鼓動は速くなっていく。しかし、誰も天音のことなど気にしている様子はない。
タオルで素早く体を隠しながら、天音は浴場への扉に向かった。
扉を開けた瞬間、湯けむりが立ち込める広い空間が目の前に広がった。大きな湯船、打たせ湯、ジェット風呂……そして、奥にはサウナの扉が見える。
(ここまで来た。もう後戻りはできないぞ)
天音は、小さく深呼吸をして、湯けむりの中へと一歩を踏み出した。
●第2章:湯けむりの中の出会い
最初に向かったのは、一番奥のシャワーブースだった。湯けむりの向こうに人影が見える度に、天音の心臓は大きく跳ねた。しかし、誰もが自分の世界に没頭しているようで、天音に視線を向ける者はいない。
シャワーの温かな水が体を伝う。普段なら気にならない水音が、異様に大きく聞こえる。
「あー、気持ちいい!」
隣のブースから聞こえてきた声に、天音は思わず体を強張らせた。若い男性の声だ。
「今日も仕事終わりですか?」
もう一つの声。年配の男性のようだ。
「はい。今日は早めに上がれたんで」
他愛もない会話が続く。天音は、その日常的な空気に少しずつ肩の力を抜いていった。
シャワーを終えると、天音は勇気を出して大浴場に向かった。湯船には既に数人の客が浸かっている。天音は、なるべく人との距離を保ちながら、湯船の端に腰を下ろした。
お湯の温もりが体を包み込む。緊張していた筋肉が、少しずつほぐれていくのを感じる。
「ふぅ……」
思わず漏れた溜息に、天音自身が驚いた。
「いい湯加減でしょう?」
突然声をかけられ、天音は小さく跳ねそうになった。視線を向けると、白髪交じりの老人が穏やかな笑顔を向けていた。
「あ、はい……」
「私は毎日ここに来てるんですよ。名前は渡辺。よかったら渡辺さんって呼んでください」
老人――渡辺さんは、まるで昔からの知り合いのように話しかけてきた。その自然な態度に、天音は少しずつ警戒を解いていく。
「周防です」
「周防さんは初めて見る顔ですね。今日が初めてですか?」
「はい。友人に勧められて……」
会話が続くうちに、天音は徐々に落ち着きを取り戻していった。渡辺さんは、昔の銭湯の話や、最近の温泉事情など、様々な話題を持ち出してくる。
「昔はね、こんな立派な施設じゃなかったんですよ。でも、人と人とのつながりは、今も昔も変わらない。お風呂っていうのは不思議なもので、ここに来ると皆平等になる。社長も、工場作業員も、年寄りも若者も、みんな一緒」
渡辺さんの言葉に、天音は何か温かいものが胸の中に広がるのを感じた。
「そうですね……」
湯船から上がると、天音は意を決してサウナに向かった。扉を開けると、乾いた熱気が顔を包む。
中には既に数人の男性が座っていた。天音は一番上段の隅に腰を下ろした。
じわじわと汗が噴き出してくる。呼吸が熱い。でも、この熱さは心地よかった。まるで、これまでの不安や緊張が、汗と共に流れ出ていくかのように。
「整いましたか?」
水風呂に向かう途中、再び渡辺さんと出会った。
「はい。でも、まだサウナは苦手かもしれません」
「ハハハ、慣れですよ。私なんか最初は5分も持たなかった。でも今じゃ30分は平気」
水風呂に浸かると、全身に電気が走ったような衝撃が走る。
「はっ!」
思わず声が出た。隣にいた男性たちも、同じように息を呑む音が聞こえる。この瞬間、皆が同じ感覚を共有している。それが、不思議な安心感を与えてくれた。
外気浴スペースは、予想以上に快適だった。木のベンチに横たわり、天井のファンから流れる風を全身に受ける。汗で火照った体が、心地よく冷やされていく。
「気持ちいいですよね」
隣のベンチで寝そべっていた若い男性が話しかけてきた。
「村上と言います。さっきサウナで一緒でしたよね」
「あ、はい。周防です」
村上は、サウナー特有の熱意を持って、様々なサウナの話を始めた。ロウリュウの話、温度と時間の話、水風呂での作法……。その饒舌な様子に、天音は思わず微笑んでしまう。
「周防さんも、これからサウナにハマると思いますよ。この"ととのい"の感覚を知ったら、もう戻れません」
村上の言葉に、天音は静かに頷いた。確かに、今の心身の解放感は、これまで味わったことのないものだった。
時計を見ると、既に2時間が経過していた。天音は、もう一度湯船に浸かってから、上がることにした。
更衣室に戻る時、不思議と最初のような緊張感はなかった。ロッカーの前で服を着替えながら、天音は今日の体験を振り返っていた。
(思ったほど、怖くなかった)
むしろ、予想以上に心地よい体験だった。サウナで限界に挑戦し、水風呂で生まれ変わるような感覚。そして何より、他の客たちとの何気ない会話。
フロントを出る時、天音は思わず振り返った。湯けむりの向こうに、新しい世界が広がっていた。
「また来よう」
心の中で、そうつぶやいた。
●第3章:心揺れる時間
それから一週間後、天音は再び大江戸温泉物語を訪れていた。今度は少し早い時間、昼過ぎだった。
フロントでは前回と同じ女性スタッフが笑顔で出迎えてくれる。もう、最初のような緊張感はない。
更衣室に入ると、いくつかの懐かしい声が聞こえてきた。
「おや、周防さん!」
渡辺さんだった。天音は思わず微笑みを返す。
「こんにちは、渡辺さん」
「また来てくれたんですね。うれしいですよ」
渡辺さんの隣には、前回出会った村上の姿も見えた。
「周防さん! やっぱり来ましたね」
村上も嬉しそうに手を振る。まるで常連客の仲間入りをしたような、そんな温かな気持ちが天音の胸に広がった。
しかし、その日は少し様子が違っていた。浴場に入ると、いつもより多くの客が湯船に浸かっている。学生らしき若者のグループもいた。
(大丈夫、落ち着いて……)
天音は深く息を吸い、いつものように奥のシャワーブースへと向かった。
「へえ、そうなんだ。でも、なんか変だよな」
若者たちの会話が、湯けむりの向こうから聞こえてくる。
「なんていうか、動きが……」
天音の手が止まった。
(もしかして、私のこと?)
心臓が早鐘を打ち始める。シャワーの水音が、やけに耳障りに感じられた。
「周防さん」
突然、渡辺さんの声がした。
「あ、はい」
「今日はサウナ勝負ですよ。この前より、もっと長く入れるようになったでしょう?」
渡辺さんは、まるで天音の不安を察したかのように、自然な声で話しかけてきた。
「ええ、少しずつ……」
その言葉に導かれるように、天音は若者たちの会話から意識を逸らすことができた。
サウナに入ると、今日は特別な催しがあるようだった。「ロウリュウ・イベント」と書かれた札が、サウナ室の外に掲げられている。
「これから始まりますよ」
村上が後ろから声をかけてきた。
「初めてですか? ロウリュウ」
「はい……どんな感じなんですか?」
「サウナストーンに水をかけて、熱波を作るんです。かなり熱くなりますよ。でも、その分気持ちいいんです」
程なくして、サウナマスターが入ってきた。タオルを振り回し、蒸気を対流させる。
「はっ……!」
想像以上の熱気が、全身を包み込む。しかし不思議と、その極限状態の中で、天音は自分の存在がより確かなものに感じられた。
ここでは、誰もが同じ熱さに耐え、同じ汗を流している。性別も、年齢も、立場も関係ない。ただ、今この瞬間を共有する者たちがいるだけだ。
水風呂に飛び込んだ時、天音は小さな悟りのようなものを感じていた。
「すごい……です」
外気浴スペースで横になりながら、天音は村上に感想を伝えた。
「でしょう? これぞサウナの真髄ですよ」
村上は嬉しそうに答える。その横で、渡辺さんも満足げに頷いていた。
しかし、その心地よい時間は、突然の出来事によって中断された。
新しく入ってきた客が、天音のほうをじっと見つめている。その視線に、違和感と探るような何かが含まれているのを、天音は敏感に感じ取った。
(やばい……気づかれた?)
その瞬間、今まで積み重ねてきた安心感が、少しずつ崩れていくような感覚に襲われた。
●第4章:危機と覚悟
「あの……君」
見知らぬ客が、天音に向かって歩み寄ってきた。中年の男性で、どこか管理職のような雰囲気を漂わせている。
天音の心臓が、激しく脈打ち始めた。
「君、もしかして……」
その時だった。
「おや、木村さん! 久しぶりですね」
渡辺さんが、突然立ち上がって男性に話しかけた。
「渡辺さん? ああ、お久しぶりです」
「相変わらず仕事熱心ですね。たまには息抜きも大事ですよ」
渡辺さんは、まるで意図的であるかのように、話題を変えていく。天音には、その会話の裏で渡辺さんが自分を守ろうとしているのが分かった。
村上も、さりげなく天音の前に立ち、視線を遮るような位置に移動している。
「周防さん、もう一回サウナ行きませんか?」
村上の声に促され、天音は立ち上がった。去り際、渡辺さんが小さくウインクをする。
サウナの中で、天音は深いため息をついた。
「大丈夫ですよ」
村上が、静かな声で言った。
「周防さんは周防さんです。それだけで十分です」
その言葉に、天音は思わず目頭が熱くなった。渡辺さんは最初からわかっていたのかもしれない。
水風呂に向かう途中、木村という男性は既にいなくなっていた。代わりに渡辺さんが、いつもの場所で天音を待っていた。
「心配することはありません」
渡辺さんは、さも当然のように言った。
「ここは、皆の居場所なんです。誰もが安心して、自分らしくいられる場所。それがお風呂のいいところですよ」
その言葉に、天音は深く頷いた。目に涙が浮かんでいることに気づいたが、今は隠す必要もないような気がした。
その日、天音は普段より長く浴場に居続けた。サウナと水風呂を何度も往復し、外気浴で長い時間を過ごした。
帰り際、フロントで渡辺さんと村上に別れを告げる時、天音は心の中である決意を固めていた。
●第5章:新しい明日へ
それから一ヶ月が経った。天音は、週に一度のペースで大江戸温泉物語に通うようになっていた。
木々の緑が一段と濃くなり、蝉の声が響き始めた頃のことだ。
「周防さん、今日は早いですね」
フロントの女性スタッフ――今では名前も知っている鈴木さんが、いつもの笑顔で出迎えてくれる。
「ええ。今日は特別な日なんです」
天音は微笑みを返しながら、会員カードを差し出した。
浴場に入ると、いつもの湯けむりが天音を包み込む。もう、この空間は見慣れた風景になっていた。
奥のシャワーブースで体を洗いながら、天音は遠くない過去を思い返していた。
あの日以来、確かに何度か不安な瞬間はあった。しかし、それを上回る温かな時間が、ここにはあった。
サウナでは、様々な人との会話が生まれた。仕事帰りのサラリーマン、休日を楽しむ学生、定年後の生活を満喫する高齢者……。皆、等しく汗を流し、等しく水風呂で震え、等しく外気浴で寛ぐ。
時には深い話になることもあった。渡辺さんは、亡くなった奥さんとの思い出を語ってくれた。村上は、会社での苦労や将来への不安を打ち明けてくれた。
そして天音も、少しずつだが、自分の話をするようになっていた。
トランスジェンダーであることは、まだ明かしていない。それは、いつか必要な時が来たら、話すことかもしれない。でも今は、「周防」という一人の人間として、皆と時間を共有できることが何より大切だった。
「周防さん!」
湯船から上がろうとした時、村上が声をかけてきた。
「今日、特別なロウリュウがあるんです。是非参加してください」
「えっ、そうなんですか?」
「ええ。実は私、サウナマスターの資格を取ったんです」
村上は少し照れくさそうに言った。
「おめでとうございます!」
天音は心からの祝福を込めて言った。
サウナ室には、既に多くの常連客が集まっていた。渡辺さんも、最前列で待機している。
「さあ、始めます」
村上の声が、熱気の中に響く。
タオルが舞い、蒸気が渦を巻く。今までに感じたことのない、深い熱波が体を包み込んでいく。
全身から噴き出る汗。荒くなる呼吸。しかし、不思議と苦しくはない。むしろ、生きている実感が、これまで以上に鮮明に感じられた。
水風呂に飛び込んだ時、天音は小さな衝動に突き動かされていた。
「みなさん」
外気浴スペースで、天音は静かに口を開いた。
「実は、私から皆さんに、お話ししたいことがあります」
渡辺さんと村上が、優しい眼差しで頷く。他の常連客たちも、自然な表情で天音に向き合っている。
「私は……」
言葉が詰まりかけた時、ふと父の言葉を思い出した。
(逃げちゃダメだ。自分から一歩を踏み出せ)
深く息を吸って、天音は続けた。
「私は、トランスジェンダーです」
一瞬の静寂が流れた。
「ありがとう。話してくれて」
最初に声をかけたのは渡辺さんだった。
「正直、気づいていた人も多かったと思います」
村上も、穏やかな声で言った。
「でも、それは周防さんが、信頼して打ち明けてくれるまで、触れてはいけないことだと、皆分かっていたんです」
他の常連客たちも、優しく頷いている。
天音の目から、熱い涙がこぼれ落ちた。
「ここに来るようになって、私は多くのことを学びました」
天音は、絞り出すような声で話し始めた。
「お風呂は、確かに体を洗い清めるための場所です。でも同時に、心も洗われる場所なんだと思います。ここでは、肩書も、過去も、見た目も関係ない。ただ、今ここにいる自分たちがいるだけ」
渡辺さんが、静かに手を差し伸べてきた。
「よく言ってくれました。まさにその通りです」
その手の温もりに、天音は今までため込んでいた様々な感情が、溶けていくのを感じた。
「さあ、もう一回サウナ行きましょう」
村上の声に、皆が賛同の声を上げる。
その日の帰り道、夕暮れの空を見上げながら、天音は心の中でつぶやいた。
(お父さん、私、ちゃんと一歩を踏み出せました)
湯けむりの向こうには、確かな居場所があった。そして、これからもその場所は、天音を、そして誰かを待っている。
空には、夕焼けに染まった雲が、ゆっくりと流れていた。
(終わり)