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愛されない令嬢は狼に癒されたい

作者: 有栖悠姫


諸々修正、後書き追加しました。



クローディア・ベルクの人生はベルク公爵家の長女に生まれた時点で決まっていた。王太子妃、ひいては未来の王妃になる、という人生だ。


ベルク家の娘と王太子と婚約させる話はクローディアが生まれる前から決まっていて、長女として生を受けた瞬間から王太子の婚約者となった。王家も国内有数の権力を持つベルク家との縁を欲していて、物心がついた頃から王太子の婚約者として相応しい、未来の国母として恥じることのない女性になるよう、厳しい教育を課されることになった。


家庭教師は厳しい人で、クローディアが少しでも間違えると厳しく叱責し、時には折檻も辞さなかった。何故この程度の問題が出来ないのか、何故覚えられないのか、この程度王家に嫁ぐ者は出来て当然だ…。毎日毎日そんな言葉を投げかけられていた。


日に日に増える腕の痣、やつれる頬にクローディアの専属メイドのマイは痛ましい表情を見せ厳しすぎる家庭教師を非難した。


「こんなの、ただの暴力ではないですか!旦那様に話して、別の者に代えてもらうべきです!」


「…言っても無駄だと思うわ。お父様達は先生を失望させ、手を上げさせる私が悪いと言うだろうから」


両親もとても厳格な人達だ。ベルク家に生まれたからには、その名を背負うに相応しい振る舞いをしろ、完璧でなければいけない、自分達の期待に応えなければならない、必ず王妃となり、ベルク家と王家を繋ぐ役割を果たせ。


果たせないのなら、お前を作った意味はない。


両親はクローディアを王家に嫁がせると決めた後、跡取りとしてもう1人子供を作った。クローディアの2つ下の妹だ。幼い頃から病弱だった妹のリリアを両親はいつも気にかけて、欲しいものはなんでも与えていた。


クローディアは欲しいものを聞かれたことはないし、もし口にしようものなら成果を出していない身で何かを望もうなんて烏滸がましいと叱責を受けたはすだ。


両親がリリアを気にかけるのは、母譲りのプラチナブロンドにエメラルドの瞳、天真爛漫で病弱なことを感じさせないくらい明るい性格だからだろう。対してクローディアは母に厳しく接していたと言う亡き祖母にそっくりなブルネットにヘーゼルの瞳、常に人の顔色を窺ってビクビクして俯いているような、陰気な性格。どちらを可愛がるかは一目瞭然。母は必要以上にクローディアに厳しく、父もまた苛烈な教育を課した祖母を苦手としていて、似ているクローディアにはどこか冷たかった。


妹と両親の笑い声を聞きながら1人机に向かい、黙々と課題をこなす日々。辛くないと言えば嘘になるが、自分が頑張って両親の期待に応え続ければいつかは笑いかけてくれる、妹と同じように愛してくれる、と信じていた。それだけを糧に耐えて来たのだ。


張り詰めていた糸がぷっつり切れたのは13歳の時。その日は婚約者である王太子ラルクが月に1回の顔合わせで公爵家に赴いていた。


彼は金髪碧眼の目も醒めるような美形でクローディアは初めて会った時、なんて美しいのだろうと見惚れていた。が、ラルクはそうではなかった。彼は緊張のあまり常にオドオドして、目も碌に合わせられないクローディアを疎ましいと言わないまでも、快く思ってないようだ。義務の顔合わせも、つまらなそうな顔をして一言二言話して終わればさっさと帰っていた。


クローディアはそれに関して不満はなかった。彼の期待に沿えない自分が悪い、もっと頑張れば両親とラルクも自分をいつか認めてくれる、と健気に信じきっていたのだ。


だけどこの日は先触れもなくラルクが訪れたのだ。邸に戻ったクローディアがマイと共に大急ぎで庭の四阿に向かっていた時。


「リリア嬢は明るくて、話していて楽しいよ…クローディア嬢に君の明るさの一割でもあれば良いのに」


「そんなことを仰らないでください、お姉様は笑うのがあまり得意ではないのです」


「だとしても、いつまで経ってもビクビクしてて見ていてイライラするんだ。あんな子と結婚して人生を共に歩むなんて気が滅入る。どうせならリリア嬢みたいな子と結婚したいよ」


ガツン、と頭を鈍器で殴られた気分だった。ラルクに好かれてないことは分かってた。けど、こんなにも嫌悪を露わにするほど嫌われているなんて。足元が崩れ落ちていくような、絶望感に襲われた。


(殿下もリリアが良いの…誰も私のことを必要としないの…)


そこから先の記憶は朧げだ。フラフラと現れたクローディアの顔色が悪いことに気づいたのはマイだけ。クローディアが偶然話を聞いているとは思いもしないラルクは、折角だからリリアもどうだと誘った。リリアはエメラルドの瞳を輝かせながら、「お姉様は私がご一緒しても迷惑ではないのですか」とお伺いを立てて来た。


ここで断る気力は、クローディアには残されていなかったのだ。食べたお菓子の味も紅茶の味もよく覚えていない。






ラルクとリリアを交えたお茶の時間が終わって暫く経った頃、廊下を歩いていて父の執務室に通りかかった時、中から話し声が聞こえた。


「…リリア様は…」


突然耳に入った…昼間ラルクと楽しそうに歓談していた妹の名前。クローディアは導かれるように扉に近づき、聞き耳を立てる。こんな姿、誰かに見られたら大変なことになるのに。それでも今のクローディアは、何の話をしているのか知りたいという欲求に突き動かされていた。


「リリア様はとても優秀です、いや天才と言っても良いかもしれません。一度教えたことはすぐに吸収して、決して忘れない。クローディア様に教えている箇所も難なく理解してます」


やけに切々とした家庭教師の声。リリアの家庭教師はクローディアに付けられている人とは別で、怒ったりすることもない穏やかな人だとメイド達が話していた。両親がリリアに折檻するような苛烈な家庭教師を付けるわけがないのだ。


「…クローディアはいつまで経っても出来が悪い。いっそ婚約者の交代を進言した方がいいかもしれんな。メイドの話によると殿下はリリアのことを気に入っているようだ。クローディアに部屋から出ないよう命じて、リリアと殿下の交流の時間を作った甲斐があったというものだ」


(やはりあの2人は何度も会っているのね…)


やけに親密な様子に違和感を覚えていたが、最悪な予想が当たってしまった。婚約者を差し置いて、その妹と婚約者を交流させるのは親としても人としてもまともではない。


「ですが、リリア様はお体があまり強くはありません。厳しい王太子妃教育は負担が大きいのでは」


「確かに、リリアにあんな厳しいものを受けさせるわけにはいかない。倒れてしまったら大変だ」


(私は倒れても構わないと言うの…)


「クローディア様に付けてるブルーグ夫人ははかなり苛烈だと聞きます。リリア様は彼女と相性は悪いでしょう」


「ああ、知っているよ。時折折檻もしてると報告に上がっている」


クローディアの心臓が、ドクンと嫌な音を立てた。マイが報告したのか、それとも別の誰かなのかは不明だが父はクローディアが折檻を受けてることを把握していた。その上で放置していた事実がクローディアの心に重くのしかかる。


「こちらの方から、出来が悪いのなら厳しくしてくれと頼んだのだ。アレは子供の頃から要領も頭の回転も悪い。厳しくしたほうがアレの為だと思ったのだが…いつまで経っても愚鈍なままだ。アレは失敗作かもしれん、リリアの体調が良くなれば…」


それ以上聞くことが出来ず、クローディアはその場を走り去った。




自室に戻ったクローディアはベッドに倒れ込んだ。さっきの父とリリアの家庭教師の言葉が脳内を反芻する。


(…リリアは私より優秀なのね…私が寝る間も惜しんで必死で覚えないといけないことも、すぐに…)


実は、リリアがクローディアより出来がいいと言うのは察していた。リリア付きのメイドが自慢気に話しているのを聞いたからだ。


「流石リリア様ね、私達メイドにも優しく接してくれる上に優秀なんて」


「クローディア様とは大違いね。勉強以外取り柄がないのにそれすらリリア様に劣るなんて哀れよね」


「あの方、何考えてるか分からないしいつも暗い顔してるから苦手なのよね」


「奥様達もリリア様のお身体が強ければ、直ぐにでも婚約者を交代したいとおっしゃってるらしいわ」


「それもそうよね、どうせなら可愛がってる方を嫁がせたいに決まってるもの」


楽しそうに話すメイド達の話を、クローディアは唇を噛み締めながら聞いていた。誰かが通る廊下で堂々と無駄話をするのは、普通ならばあり得ない。しかも雇い主の娘を悪様に言うなんて、見つかれば解雇される場合もある。


が、この家でクローディアの悪口を言ったところで誰も咎めない。仮にクローディアがこのメイド達を罰して欲しいと望んだところで、無視されて終わりだ。リリアだったら即クビにして、別の職場で働けないよう紹介状を書かないくらいのことはするだろうに。クローディアなら、何もしない。


この時はメイドが話してるだけだから、まだ耐えられた。けど今回は父の口からハッキリと聞いた。失敗作だと、リリアの方をラルクの婚約者にしたい、と。


クローディアが婚約者の座にいるのはリリアの身体が弱いから、ただそれだけ。


(いずれリリアの身体が丈夫になったら?私は用済みだと捨てられるの?)


公爵家のために生きろと、それがクローディアの存在価値だと言われ続けたからどんなに厳しくされても、泣きたくても耐えて来たのに。


結局、全部無駄だったのか。どれだけ努力しても両親もラルクも自分を見ては、愛してはくれない。誰からも愛されるリリアに全部奪われてしまうのか。


(何で何で何で)


頭の中が真っ黒に塗りつぶされていく。ゆっくりと呼吸が乱れて、息が上手く吸えない。苦しい、どうしよう。誰か呼ぼうか、でも声が。


その時、ドアをノックする音を辛うじて拾えた。


「失礼いたします、お嬢様紅茶を…っ!お嬢様!どうされました!」


部屋に入って来たマイがベッドの上で胸を押さえて、苦しんでるクローディアに気づき慌ててベッドの上に乗る。


「わ、わたし、なんのためにいるの」


「喋らないで!兎に角、ゆっくり深呼吸しましょう、吸って…吐いて…吐いて…そう、お上手です」


チカチカと点滅する意識の中、唯一聞き取れるマイの声に従い吸って、吐いてを繰り返す。


「はぁ…はぁ…」


グラグラと視界が揺れ、胸の痛みが身体を蝕み始める。頭の中ではさっき聞いた父の言葉、昼間に聞いたラルクの言葉がクローディアの意思と関係なく反響していた。


(わたし、なんて…)


「お嬢様!…誰か!お医者様を!」


視界も心の中も、意識すら真っ黒に塗りつぶされだんだんと意識が遠のいて行く。マイの声を最後に、クローディアの意識はプッツリと途絶えた。





血相を変えたマイがノックもせず公爵の執務室に飛び込んだ際、いつもならすぐさま怒鳴り付ける公爵が呆気に取られ固まっていた。だが、マイからクローディアが気を失った時の様子を聞いても、「大袈裟だ」「寝かせて置けば良い」と何処までも冷たい言葉しか口にしない公爵にマイが立場も忘れ怒り狂いそうになった時、先代公爵が存命の時から仕えている家令がマイに加勢した。


「クローディアお嬢様に万が一何かあったら、王家に何と説明なさるおつもりで?ここは医者を呼んで口止めした方が得策です」


この家令もクローディアに冷淡だった。今もクローディアを心配したわけではなく、家庭教師の虐待にも勝る苛烈な授業を公爵が黙認し、それが遠因となりクローディアが倒れた事実が外に漏れないように内々に処理したいだけだ。だが、家令が口添えしなければクローディアはあのまま部屋に押し込められて、最悪な事態になってた可能性もあった。今だけはこの老獪な男に感謝しなければいけない。







その後呼ばれた医者により、クローディアは過度のストレスにより心身ともに弱っており休養が必要だと診断された。


そして公爵は医者の診断を聞くなり、クローディアを療養の名目で公爵領の本邸、その離れにある別邸に送ることを決定した。それをクローディアが聞かされたのは医者が帰り、目が覚めた後でクローディアの意思は一切考慮されなかった。


「あの程度で倒れるなど情けない。やはりお前はいつまで経っても役立たずだったな」


「貴女が倒れたせいで屋敷中騒がしくって仕方ないわ。リリアの体調に障ったらどうしてくれるの。全く、これで少しは過ごしやすくなるわね」


「公爵家のこともラルク殿下のこともお姉様が戻るまで私にお任せください!だからお姉様はゆっくりお休みになってくださいね」


必要最低限の荷物をまとめ、自らクローディアに付いていくと志願したマイを伴い玄関を出ようとした時。両親からクローディアを気遣う言葉は遂には聞けず、表面上は気遣ってるように振る舞ってるリリアの勝ち誇った顔をクローディアは虚ろな目で見返しながら、公爵邸を後にした。




公爵家が所有する中で一番質の悪い馬車に乗り、ガタガタ揺れる車内で隣に座ったマイが話しかける。


「あんなところにいたらお嬢様の心がいつか死んでしまいます。旦那様達はお嬢様を追い出したと思ってるでしょうけど、違いますよ。お嬢様の方から見切りを付けたんです。そう思うようにしましょう」


暗い顔をするクローディアを元気づけようとしてくれているが、その表情が晴れることはない。


「難しいわね、私が追い出されたのも見限られたのも事実だから」


クローディアは自分の行く末が全く見えない。療養という名目だが、期間は決まってない。その間の王太子妃教育やラルクのことを話し合う暇も与えられなかった。もうお前には関係ない、と言わんばかりに。


「…お父様は私に呆れ返っていたわ。王太子妃教育に耐えられず、自己管理も満足に出来ずに体調を崩すような娘はふさわしくないと婚約解消を申し出るかもしれないわね」


あの父のことだ、この状況を最大限に利用しリリアを新しい婚約者にと後押しするはずだ。ネックはリリアの体調だが、幼い頃より丈夫になったし今は時折熱を出す程度。つまりさっきの母のように神経質になる必要はあまり無いのだ。両親は病弱なことは関係なく、リリアだけを愛している。


「寧ろ解消された方が良いですよ、不敬を承知で申し上げますが王太子殿下はお嬢様をずっと蔑ろにしてました」


「それは私があの方の期待に沿えないから」


「いやいや、あの方顔を合わせる度に不機嫌そうにして碌に話もしませんでしたよ。あれで仲良くしろは無理です。お嬢様が頑張って話しかけても適当にあしらうだけで、歩み寄ろうという気もありませんでしたよ」


マイはラルクに対する鬱憤が溜まっていたのか、とても饒舌だ。不敬罪だと断じられそうなことばかり言うので、クローディアはヒヤヒヤする。


「私のことが最初から気に入らなかったのね、仕方ないわ。私は陰気で話すのも苦手だし」


「気に入らないから冷たくするって幼い子供のすることですよ。王族という立場を忘れ自分の感情のままに振る舞い、しかもお嬢様を貶めリリア様の方が良いと口にするなんて…有り得ませんね。誰も彼もお嬢様を何だと思って…」


目が据わり出したマイをクローディアは宥めにかかる。このままではラルクだけでなく両親にまでマイの怒りの矛先が向かいそうだったからだ。車輪の音でうるさいが、御者に話の内容が聞こえていない保証はない。万が一父の耳に入れば、マイはクローディアの前からいなくなってしまう。そんなことになったら、今度こそクローディアの心は壊れるだろう。


クローディア自身より、クローディアの扱いについて怒りを露わにしてくれるのはマイで、何もかも失ったクローディアに寄り添ってくれるのもマイだけだ。この先の未来は何も見えないが、マイがいれば最悪なことにはならないと、そう前向きに考えることが出来た。









********************



「お嬢様、顔色が良くなりましたね」


「そうかしら」


「それにふっくらとされました。あ、太ったというわけじゃありませんよ、今までが痩せすぎだったんです」


公爵邸の離れに来て数ヶ月、クローディアは毎日寝る間も惜しんで取り組んでいた王太子妃教育の勉強を止め、学園入学に備えた勉強を始めていた。そして息抜きに読書をしたりお茶をしたりとゆったりと過ごしている。時間に追われることも、プレッシャーからも無縁な生活は心身ともに傷ついたクローディアをゆっくりと癒していた。


マイが言うように痩せていたのはストレスがかかりすぎて常に胃痛に悩まされ、食欲も落ちていたため碌に食べられなかったからだ。減らして欲しい、と給仕をするメイドに伝えると次の日から量も品数も少ない質素なものに変えられた。ここまでとは言ってないのに、と思わず溜息をついたが一々言うのも面倒で、やはり食欲も湧かなかったのでそのまま放置していた。


ここに来てからはストレスのない環境のおかげで空腹を感じるようになり、料理人の作った料理を少しずつだがたくさん食べられるようになっていった。料理人のランは口数は少ないながらも、毎日ありがとうと伝えると嬉しそうに顔を綻ばせてくれる。彼女とは良い関係を築けていると思う。


父からは「恥を晒さないために街には出るな」と厳命されてるため、買い物などには行けないが代わりに公爵邸の反対方向に位置するレグの森にはよく行っている。幼い頃、家庭教師が付けられるまではこの森に使用人を伴ってよく遊びに行っていたのだ。図鑑で見た薬草や植物、キノコを見つけるのが楽しくて好きだった。


子供の頃の夢は植物学者や薬師だったことを、今になって思い出す。今からでも遅くないのでは、と最近思い始めていた。


(どうせ婚約は解消されるでしょうし、お父様のことよ。役立たずの私は放逐されるかもしれないわね)


リリアが嫁ぐのならば、クローディアを跡取りに据えるのが定石だ。しかし父のことだ。見捨てた娘より親戚筋から誰かを養子に取ることくらいするかもしれない。来たるべき日に備えて準備をするに越したことはない。資格を持っていれば、家を追い出されても食いっぱぐれることはないだろう。


今日も帽子をかぶって顔を隠し、森の中へと歩みを進める。この森はウサギ等の小動物しかいない為、子供達が遊び場としているのをたまに見かける。クローディアもそんな子供達を見ると、何の重責もかかっていなかった幼い頃の自分を思い出し、感傷的になってしまう。が、そんな気持ちも森の奥へと進むうちに薄れていく。やはり自然は良い。鬱々とした気持ちが消え失せていく気がする。晴れやかな気持ちで鼻歌を歌いながら歩いていると、木の陰に何か見えた。


(何…)


恐る恐る近づくと毛のようなものが見える。犬?何処かの飼い犬が道に迷ったか、飼い主と逸れたかと当たりをつけながら、警戒しつつ距離を縮めていく。


(えっ!)


木の幹に身体を丸めるように横たわっているのは灰色の獣。目を閉じているが辛うじて息はしている。美しい毛並みをしているが背中には剣で切り付けられたのか血の滲んだ大きな傷が刻まれていた。クローディアは慌てて獣に駆け寄るとしゃがみ込む。


「犬?にしては大きいし…狼?でもこの森には居ないって」


何故この場所に大きな獣…推定狼が居て傷を負っているのか。そんなことを考えながら狼の様子を観察する。傷が深く痛みに耐えているのか、ハァ、ハァと苦しそうに息をしている。


(誰がやったか知らないけど何て酷いことを…このまま放っておいたら傷口から菌が入って…)


死んでしまうのでは。するとクローディアは自分の背より少し大きい狼を背負った。


「おっも…」


クローディアはふらつきながらも、ノロノロと森の出口へと向かう。狼を背負っているのを誰かに見られたら騒ぎになるだろうが、森から公爵邸までの道のりは短い。見られる心配はないと思いたい。


何でこんなことをしたのかクローディアにもよく分からない。あのままクローディアが見て見ぬ振りをしたら、運良く誰かが通りかからない限り狼の命は潰えていただろう。


何となく、そんな姿が家族から見捨てられたクローディアに重なった気がしたのだ。だから助けた。思えばいつもいつも他人の顔色を窺って、周囲の望む通りの行動をしてきた。自分の意思で何かを決め行動したのは久しぶりだな、と息を乱しながらクローディアは思った。







「お嬢様!その背中の…犬?狼?どうしたんです!」


「森で見つけたの、可哀想に誰かに切られたみたいで。お医者様を呼んでくれる?」


突然狼を背負って帰ってきたクローディアに目を白黒させつつ「分かりました!」と急いで離れを出て行った。本邸に居る管理人兼領主代行のゴードンに知らせれば付き合いのある医者を呼んでくれるだろう。


クローディアは空いてる部屋に狼をそっと下ろし、水と清潔なタオルを用意しに行った。水で傷口を洗い異物やバイ菌を取り除き、次にタオルで傷口を圧迫するもタオルがすぐに赤く染まる。出血が止まらない、クローディアは汗をかきながら医者が来るまで必死で止血を試みた。







「傷は深いようですが、命に別状はありませんな。まあ刃物に毒が塗られてたようですが解毒剤は飲ませましたし、この狼は治癒力が高いようなので安静にしていれば問題ないでしょう」


ゴードンが呼んだ医者はテキパキと手当てをしてくれた。


「え、毒?」


「はい、傷の治りを遅くして出血が止まらなくなるやつです。放っておけば出血多量で命を落としていたことでしょう。全く、何処の誰か知りませんが酷い事をする」


動物をこよなく愛するという口髭を蓄えた獣医は狼を傷つけた者に怒りを露わにする。クローディアも同じ気持ちで何者かに対する憤りが湧いてきた。


「暫くはこちらで面倒を見ていただいた方が良いでしょうね。野生の獣なので、怪我が治ったらふらっと出て行くと思いますよ…忠告しておきますが情は移さない事です。辛くなるのは貴方ですよクローディア嬢」


「…分かってます」


獣医から釘を刺される。クローディアはこの弱っていた狼に対して既に愛着が湧き始めており、それを見透かされていた。


野生の獣は野生へと帰る。それが当たり前のことで自然の摂理。理解しているけど、狼がいずれいなくなってしまうのは悲しい。


狼は腹に包帯を巻かれて、クローディアの部屋でスヤスヤと眠っている。毒が抜けて苦しさが少し消えたのか、心なしか穏やかな顔だ。その頭を起こさない程度に撫でる。


(柔らかい)


動物と触れ合ったことがないクローディアは初めての感触に驚きつつも、その毛並みを堪能していた。そんなクローディアをマイは心配そうな面持ちで見ている。


「あの、先生。狼って肉食ですよね。目が覚めたら人を襲うなんてこと…」


「ああ、その事なら心配いりませんよ、なんせ彼は」


「彼?」


「あ、いえ、何でもないです。この狼は比較的温厚な性格なんですよ、それに意識が朦朧としていたとはいえ助けられたことは朧げに覚えてます。襲う心配はありませんよ」


獣医はそのまま逃げるように帰ってしまった。マイは咄嗟に声をかけるも彼は足を止めるそぶりすら見せなかった。


「何だったんですかねー」


「さあ…」


釈然としないクローディアだったが、狼を撫でていくうちに瑣末なことはどうでも良くなり、獣医の言葉に引っ掛かりを覚えたことはやがて忘れてしまった。








狼が目を覚ましたのは数日後のこと。むっくりと起き上がった狼は本に意識を向けているクローディアに近づいていく。クローディアは足元に当たるフワフワとした感触に気づき、視線を下に向ける。


「…ん?…!目が覚めたのね!」


クローディアは本を机に置き、椅子から立つと跪いた。狼のずっと閉じていて見ることの叶わなかった瞳の色は輝くような金色。銀の毛並みと相まって、神秘的なオーラを放っている。野生の獣とは思えないほどだ。


クローディアがそっと狼の身体を触るそぶりを見せる。すると狼は嫌がらず、寧ろ頬を手に擦り付けてきたのだ。


「…貴方狼…よね。お医者様も言っていたし」


人を警戒しておらず、人懐っこさすら感じる。もしかして大きい犬なのではないかという疑いを抱く。


狼はスリスリと頬擦りすると、今度はざらついた舌で手のひらを舐め出す。


「ちょっと、くすぐったいわ!」


そうは言いつつも満更でもなかったクローディアは暫くの間好きにさせた。そして代わりだと言わんばかりにモフモフとした毛並みを堪能していった。狼も気持ちが良いのかクーンクーンと甘えたような声を出す。狼ってこんな鳴き方だったか?


「本当に犬じゃないのよね?」


独り言だが狼はコクンと頷いた。これはクローディアの言葉に対する返事なのか。そもそも人の言葉が分かるのか。


「動物って賢いっていうものね」


そういうことにしておこう、とクローディアは目の前のモフモフに顔を近づけるとペロリと鼻と口を舐められた。






それから狼は何処に行くにもクローディアにベッタリだった。食事の時は一緒にランの用意してくれたご飯を食べ、勉強中や読書中は足元でじっとしている。クローディアの就寝中、ベッドの側で眠るその姿はまるで番犬さながら。時折クローディアが隣に来るように言うと、躊躇うそぶりを見せながらもベッドに上がり隣で寝てくれるのだ。寝ている時もフワフワとした狼を抱きしめながら眠ると、不思議と安眠出来た。狼を抱いている時は絶対公爵家に居た時の悪夢は見なかった。


狼の知らないうちにクローディアが何処かに行くと、尻尾をブンブン振りながら探し回るのだ。それが可愛くてつい、わざと隠れるような真似をしてしまいそうになるのをグッと堪えた。


「もうこれ何処からどう見ても大型犬ですよね、狼って嘘ですよね」


「狼よ。お医者様がそう言ったのだから」


「いやでも…それにしてもすっかり元気になりましたね。森へ帰る日もちか…あっ」


しまったとマイが口を噤んだ。クローディアの顔色が見るからに悪くなったからたからだ。


「そうよね、そろそろこの子も自分の帰るべき場所に帰るのよね。分かってるわ大丈夫」


「大丈夫な顔じゃないですお嬢様。狼来てから特にイキイキとしてましたからね。いっそここで飼えないですか?この子。ゴードンさんに頼み込めば」


「無理よ。この子には帰る場所があるはずで、ここに縛りつける真似は出来ないわ。私はずっとここに居られるわけではないし、そもそもそんな勝手はお父様が決して許さないわ」


下手に無理を通したら、見せしめに狼を殺されかねない。あの父はクローディアの少しの我儘すら許さないはずだ。


今だけで良い。今だけ常に寄り添ってくれる、マイ以外の友人が居てくれればそれだけで十分だ。


クローディアが狼は人間の言葉が分かるのでは?と推測した頃からポツリポツリと自分の事を話すようになった。マイにすらきちんと話したことのないことを、この美しい狼にはスラスラと話すことが出来た。


両親と家庭教師が厳しいこと。両親から愛されてる妹が自分より勉強が出来ること。婚約者と妹の関係に、ここに来た経緯。


狼は金色の瞳でじっとクローディアを見つめる。話をしてるクローディアの手の甲を舐めたり頬擦りをした。


「慰めてくれてるのかしら。私この先どうなるか分からないけど、無理しない程度に頑張るわ」


両親から捨てられて、ラルクから婚約を解消されたとして。その時はいっそ、国を出てしまうのも良いかもしれない。


「なんて言っても、令嬢として何不自由なく育った私がそう簡単に他国で暮らせるわけもないけどね」


口にする分には何も問題はないだろうと、胸に秘めていた願望を狼には話していった。






その日の夜、不思議な夢を見た。狼がクローディアに話しかける夢。


「助けてくれて本当に感謝する。君が居なかったらどうなっていたか」


やけに凛々しく、心地いい低音が鼓膜を震わす。声だけならかなり若い。


「そんな、当然のことをしたまでですわ。それにしても、どうしてあんな怪我を?」


どうせ夢だから、とクローディアは狼が流暢に人の言葉を話してることには触れず、かねてから疑問に思ってことを口にした。


「俺は仕事でこの国に内密に来ていたんだが、何処からかそれが漏れてしまってな。馬車に乗ってる時に襲われた。幸い賊は全員始末したんだが、毒が塗られてた剣で斬られてしまいかなりの体力を消耗した。そのせいで人の姿を保てなくなったんだ」


「ということは貴方は…」


「獣人だ」


「私初めてお会いしました…。獣人の方は耳と尻尾が生えてる以外見た目は人間と変わらないと聞きましたが、貴方は狼そのものになれるのですか?何処の国のご出身で?」


獣の耳と尻尾を持ち、人間を遥かに凌駕する身体能力を持つ。それが獣人。かつて尊ばれたその血脈は時を重ねるにつれ、徐々にその数を減らしていった。初めて会う獣人にクローディアは淑女としての振る舞いも忘れ矢継ぎ早に質問を重ねた。


「悪いがそれについては言えない。俺の素性について、今君に明かすわけにはいかないんだ」


何やら入り組んだ事情があるようで、それ以上の追及は避けた。彼は何処かの獣人で、目的を持ってこの国に来た。それだけ分かれば良い。


「簡単に言うと、俺は兄とその母親から死ぬほど嫌われている。俺の母親は兄の母親より身分が低く、頭の出来は俺の方が優っていた。その上獣人の血が濃く、こうして狼の姿にもなれるせいで父から目をかけられていてね。父の跡を継ぎたい兄達に子供の頃から何度殺されかけたか。今回の件も俺を亡き者にし、その責任をこの国に押し付けようとしていたんだろう。そんな真似をしたら、両国の関係がどうなるかという簡単なことすら分からないんだ、兄は」


関係悪化、最悪なのはそのまま戦争になること。弟を殺すためだけに両国の関係にひびを入れようとする。浅はかを通り越して何と愚かなんだろう。


「俺は人より身体が丈夫で傷の治りも早い。一緒にいた部下に俺が突然体調不良で倒れた、と先方には誤魔化して欲しいと伝えた。数日ほど森に潜伏すれば元に戻ると思ったが…兄めかなり強力な毒を使ったな。相当俺のことが邪魔なようだ」


何とも物騒な話だ。母親が違うとは言え血の繋がった弟を、毒を使ったところからしても本気で殺すつもりだったとは。家族だからと言って理解し愛し合えるわけでない、と身を以て知ってるクローディアは彼の話に静かに耳を傾ける。


「…貴方がここに来てから一週間が過ぎましたよ」


「ああ、これ以上誤魔化すのは無理だ。だから今すぐにでもここを発つ」


だから彼は夢に出てきてくれたのか。もう会えないから。


「そうなのですね、寂しいですが仕方ありません。お元気で、貴方様の行く末を祈っております」


「まるで今生の別れだな」


「…?だってそうでしょう」


狼は大きく息を吐いた。何故だろう、呆れられている気がするのは。


「俺はこれっきりにするつもりはない。クローディア、兄の事や色んなしがらみを片付けたら君を迎えに来ても良いか?」


思いもしない言葉にクローディアの頭の中は真っ白になる。


「君もさっき言っていただろう。いっそ他国に行きたい、と。君を蔑ろにする家族や不誠実な婚約者のことは捨てて仕舞えばいい。君だけが我慢を強いられるなんて馬鹿げてる。こう見えても俺は結構な資産持ちでね、君に不自由な生活はさせないつもりだよ」


「そんな、急に」


「出来れば君の意思を尊重したいが、今頷いて欲しい。君を迎えに行くと言う使命があれば、この先どんな困難も乗り越えられる気がするんだ」


真剣な琥珀の瞳がクローディアを真っ直ぐに射抜く。


(彼は私を必要としてくれるのね、誰からも愛されなかった私を)


何も持たない身だが、彼が必要とするのならとクローディアは鷹揚に頷いた。彼の琥珀の瞳がパァーッと輝き尻尾もブンブンと大きく振っている。可愛い、抱き締めたい。


(ん?待って…彼は恐らく若い男性…私ったら知らなかったとはいえ、なんてはしたない真似をっ…!)


今更ながら自分のしでかしたことが、途轍もない羞恥を伴って襲いかかる。顔は絶対真っ赤だろう。


「どうした急に…ああ、一緒に寝た時のことを思い出してるのか。赤くなって可愛いな」


「なっ!そもそもあなたが黙っていたから」


「仕方ないだろう、あの姿じゃ喋れないし、狼の俺を気に入っていた君を前に断ることも出来なかったんだ」


「だとしても!」


「待ってくれ、言いたいことはたくさんあるだろうが本当に時間がないんだ…名残惜しいが暫くさよならだ、クローディア。必ず迎えに行く」


スーッと狼の姿が薄れていく。咄嗟にクローディアは抱き付いた。


「ま、待って、せめて名前を」


「名前?…ハル、今名乗れるのはそれだけだ。迎えに行く時本当の姿で本当の名前を名乗るよ。しかし、クローディアは狼の俺はお気に召したらしいが人間の俺はどうだろう、君のお眼鏡に適うと良いが…」


しゅん、と形の良い耳が垂れ下がる。本当に悩んでいるらしい。クーン、と悲しそうな声とセットでクローディアに頬擦りする。


「あなたならどんな姿でも構いませんわ」


彼は嬉しそうに目を細め、今度こそ消えてしまった。




目が覚めたら隣に狼は居なかった。夢の通り帰ったらしい。


目元に触ったら、ほんの少しだけ濡れていた。けど、それ以上は泣かない。彼にまた会う日までにもっと強くなっていたいと願ったから。







狼が去って数ヶ月後、父から手紙が届く。封を開いて読むと、陛下に婚約者をリリアに代えるべきと進言したが却下されたと。だからクローディアはまだラルクの婚約者で王太子妃としての仕事が溜まってるから早急に戻れ、いつまでも遊んでる暇はない、家庭教師は虐待が明るみに出たから新しい家庭教師が来ることになった、などなどさらりと重要な情報が書かれていた。


(お父様達は夫人に全部なすり付けたのね。自分達に飛び火する前に手を打った。新しい人は夫人よりマシだろうけど…)


婚約継続は予想外だった。


(リリアは確かに頭は良いけど、人の心を慮ることが出来ない…普段は猫を被ってるけど、時折ご令嬢と諍いを起こしてると聞いているもの)


当然父を敵に回したくないため、全員口を噤む。陛下もそこを懸念して提案を却下したのかもしれない。読めば読むほど気が重くなる手紙だった、けれど。


(もう、あの人達に期待しない。都合の良い存在であることも止める)


いつか彼、ハルが来てくれるその日まで。クローディアは自分らしく生きると決心していた。





************





クローディアは公爵邸に戻ってから、自ら離れに移ることを希望し家族とも、婚約者とも距離を取り続けたまま16になり貴族学園に入学し、そしてデビュタントと目まぐるしく過ぎていった。


ラルクは相変わらずクローディアを嫌ってはいるが、婚約者という立場上デビュタントの相手役など必要最低限の役目は果たしてくれる。だが、本当にそれだけで学園では会話もしないどころか目も合わせない。クローディアは王太子から冷遇されていると周囲から遠巻きにされ、時折嫌がらせもされたが証拠をその都度集め、犯人の令嬢に突きつけていた。そのせいか令嬢達はクローディアを恐れるようになる。昔のビクビクしているクローディアはもう居なかった。



18になり妹のリリアが入学すると、悪い意味でクローディアに注目が集まることになる。何せ姉の婚約者と仲睦まじく過ごしているのだから。


だがクローディアが静観を貫いていること、入学試験をぶっちぎりのトップで突破した天才ということで周囲は表立って何も言えずに居た。


学園の卒業が近づいていたある日、ラルクが衆人環視の中婚約破棄しようと企んでいる、と偶然知り手を回した。陛下に謁見し婚約破棄に関する書類の準備、クローディアに王家の影を付けてくれるように懇切丁寧にお願いするとあっさり了承された。


陛下は自分のことしか考えない、視野の狭いラルクには見切りをつけ母親が同じ第二王子を後継者にしようと秘密裏に話を進めていたようだ。陛下には形式的に謝罪をされたが、何とも思わなかった。








「クローディア・ベルク。嫉妬から妹を虐げるような最低な人間と人生を歩むことは出来ない、婚約を破棄する」


「酷いですお姉様、私はずっとお姉様と仲良くなりたかったのに…」


王城での催しで予想通りの茶番劇が始まった時はクローディアは歓喜した。これで全部終わる、と。


さめざめと泣いている妹を冷めた目で見ながら、クローディアは淡々と告げる。


「婚約破棄は承りますわ、ですがリリアを虐げたというのは事実無根です」


「なんて女だ、往生際が悪い!こっちには証拠が揃っているんだぞ」


青い瞳に深い怒りを宿したラルクは側に控えていた侯爵子息から書類を受け取る。その彼もクローディアを憎々しげに睨んでいた。リリアの取り巻きだろう。


ラルクはクローディアがリリアにどれほど非道な行為をしたかを羅列した文章を読み上げていく。どれもこれも全く身に覚えがないし、そもそも邸でリリアの私物を壊したとか離れに引き篭もってるクローディアにできるわけがない。リリアの部屋にクローディアが入ろうとすれば使用人の誰かが止めるのだから。


そしてご丁寧にリリアをクローディアが殴ったところを見たという証言者まで名乗り出ているらしい。まあ、凄いと用意周到さに感心すらしてしまった。クローディアも捏造なのか本当にあったのか分からなくなってくる。まあ紛う事なき捏造だが。


クローディアは心の中で笑う。このまま彼らが喋れば喋るほど自分の首を絞めることになるのだから。


「先ほども申しましたが、全て事実無根ですわ、と口で説明したところでご理解いただけませんよね…お願いします」


クローディアの声を合図にゾロゾロと黒いローブの人間が出てくる。そして無機質な声で正義の味方気取りの自分に酔っているラルク達にも分かるように説明をしてくれた。


クローディアには王家の影が付いていて、リリアを虐げたことはおろか、2人きりで会うこともなかった。ラルクの列挙したクローディアの罪は全て捏造である、と断じたのだ。


その瞬間、形勢は逆転した。ラルクとリリアは周囲から冤罪でクローディアを断罪しようとした卑劣な人間だと非難の眼差しを向けられた。たった今完全にラルクに見切りをつけた玉座に座る国王陛下は失望した目で実の息子を見下ろすと、ラルクの立太子を取り消し弟であるレアル第二王子を新たに立太子すると宣言した。王位継承権を剥奪されるわけではないが、こんな騒ぎを起こした彼につきたいと思う貴族がどれだけいるか。


ラルクは今になってクローディアに縋るような目を向けてくるが完全に無視をした。そして陛下に睨まれるまま、既にクローディアが記入していた婚約破棄に関する書類に署名させられたのだ。


一方顔面蒼白でプルプルと震えてるリリアも一応王太子の婚約者であるクローディアを虚偽の証言で貶めようとした。証人まで用意する悪質さが重く受け止められ、10年間修道院に送られることが決まった。そこで性根を叩き直して来い、とのことだ。


リリアはクローディアを取るに足らない存在だと馬鹿にしてたからこそ、こんな杜撰な計画を立てたのだ。リリアの知る、いつもビクビクして自信のないクローディアなら簡単に嵌められると油断した結果全て失うことになった。天才と言っても、人としては愚かだった。



両親もリリアに対する監督不行き届き、そしてクローディアに対する虐待の疑いで騎士に引き摺られて行った。彼らがどうなるか。当主の座を下され隠居するよう命じられるかもしれない。両親は最後までクローディアを醜い形相で罵り続けていた。


クローディアはやっと肩の荷が下りた、と晴れ晴れとした顔になった。喧騒から離れようとバルコニーに出る。


(これからどうしようかしら、もうすぐ卒業だから学園には通うとしてその後は…公爵家を継ぐことになるのかしら。でも…)


クローディアとしては無責任と言われようと、誰か親戚の者に託せば良いと思っていた。父方の親戚に何人か優秀な人間がいると聞くし、帰ったら連絡を取ってみようか、と思案していると。


「…なかなか面白い見せ物だったよ、クローディア・ベルク嬢」


聞き覚えのある声が背後から聞こえる。


「俺が何かする必要なかったな、君は君自身の手で家族と婚約者に見切りをつけたんだ」


クローディアはゆっくりと横を向く。そこには、クローディアより遥かに背の高い切れ長の琥珀色の瞳に月に照らされ輝く白銀の髪を持つ、この世のものとは思えないほど美しい男性が柔和な笑みを浮かべながらクローディアを見下ろしていた。


「…ハル、様」


「懐かしい呼び名だ、俺はエーデルハルト・ファン・ガラクと言う」


その名は隣国ガラク王国の元第二王子の名前だ。数年前王太子が謀反を企てていたことが判明、第二王子自ら異母兄を捕らえたという話は有名だ。その後王太子とその母は王族から籍を抜かれた上で辺境の塔に一生涯幽閉されることが決まった。それに伴い側妃を母に持つ第二王子が次期国王として正式に指名された、と。


「ガラクの王族だったのですね」


彼の国の王族は全員獣人だと聞き及んでいた。


「あの時の俺の立場は微妙だったからな、素性を明かして万が一にも君に危害が及ぶのを防ぎたかったんだ。…約束通り迎えに来た。ガラクに来て俺の妃になってくれないか」


5年前から忘れることの出来ない瞳が再びクローディアを射抜く。違うことと言えば、クローディア見つめる瞳に確かな熱を孕んでいること。クローディアの胸が高鳴り、顔に熱が集まる。


「私は先ほど婚約破棄された傷物で、それに生家の公爵家も今後どうなるか分からない状態です。エーデルハルト殿下に相応しいとは」


「そんな瑣末なことを俺が気にするとでも?俺はクローディアを妃に迎えるために兄上に()退()()いただき、煩いハイエナ共も黙らせてきた。そんな俺に君は何もくれないのか」


酷い人だ、と囁きながらクローディアの髪を一房手に取り口付ける。悲鳴を上げなかったことを褒めて欲しい。


(第一王子の謀反も彼が裏で手を引いていたのかもしれないわ。弟へのコンプレックスを拗らせていたという異母兄を操るのは容易いでしょう)


クローディアは至近距離で暴力的な美を浴びながら、そんなことを考える。


(この方はあの時言った通り、私を迎えに行くために…)


兄を排除し、一国の王にまでなろうとしている。そこまでのことを成し遂げた相手を拒絶することはクローディアには出来ない。


元々ハルが迎えに来た時、何の憂いもなく共に行けるように婚約破棄を目指していた。その目的が達成された今、断る理由はない。


彼の姿を見たのは初めてだが、狼姿の彼と話していた時からエーデルハルトはクローディアの心に棲みついて離れなかった。


「5年前と同じく、私自身には後ろ盾も何もありません。こんな私でよろしければ結婚の話、お受けいたします」


「俺にはクローディアが居てくれれば他に何もいらない。身一つで、いやあの仲のよかったメイドも連れて来ると良い」


「マイも一緒に!ありがとうございますエーデルハルト殿下」


「君にはハル、と呼んで欲しい。最愛の伴侶であり番のクローディアには」


獣人にとって唯一無二の存在、番。巡り会えずに一生を終えることも少なくないという。


「私が、そうなのですか」


「朦朧とした意識の中でも分かった。まあ番に関係なく、捨て置いてもいい狼を必死に助けようとするその優しさに惚れたんだがな」


エーデルハルトは愛おしそうな眼差しをクローディアに向けながら、そっと絹のような滑らかで白い肌に触れる。男らしいゴツゴツとした指の感触に身体に緊張が走るも、すぐに解けた。クローディアも彼の目を見つめながら、「…私もお慕いしています」と消え入りそうな声で呟いた。その瞬間。


骨が軋むほどの力で抱き締められ、驚く暇も与えられず唇を奪われる。あまりの激しさにクローディアは踠くも、その心地良さに段々と身体の力が抜けていき、いつの間にか彼を身を任せていた。


やっと解放されたクローディアは潤んだ目でエーデルハルトに抗議した。


「なっ、何するのですか!」


「人間の姿でクローディアを抱き締めたかった、それだけだったんだが…慕ってるなんて言われて我慢出来るわけないだろう?」


いけしゃあしゃあと答えた上に「可愛かった」という甘い囁きと共に頬に口付けられ、クローディアは更に真っ赤になった。


クローディアはエーデルハルトに振り回されながら、いや実はクローディアの方が振り回しながら末長く幸せに暮らしていく。




…実はエーデルハルトは自身の配下を学園に紛れ込ませていた。クローディアを見守らせ時に害を為そうをする者を排除し、ラルクがクローディアを嵌めて婚約破棄をするよう唆し、その情報をクローディアに流していたことが分かるのは、結婚してから数年後のこと。





補足


獣医の態度について

この獣医は動物好きが高じて獣人も好き。専門的知識が豊富なので診察した段階で狼が獣人だと気づいてます。

ですが完全に獣化出来る=高貴かつ希少な存在ということになり、しかも明らかに第三者に付けられた傷があったことから「面倒ごとに巻き込まれたくない」とさっさと逃げました。

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