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その日はなんともツイていない日だった。
外回りの途中、道でお年寄りがよろけていたから、それを支えようとしたのだ。案外がっちりしたおばあちゃんだったから、支えきれずに二人で転んでしまった。侑が下敷きになった。
「大丈夫ですか?」
侑は自分の痛みは見せないようにおしてばあちゃんに聞いた。
「あいたたた。大丈夫。ごめんなさい。あなたは大丈夫?どこか痛めていない?」
おばあちゃんは腰をさすっている。
「大丈夫です。私もよく転びますし。」
侑はおばあちゃんを安心させるように笑いながら言ったが、このやりとりをしている間も周りの人は誰も助けようとしなかった。それどころか、スマホを構える人すらいた。
なんなの?見せものじゃないんだけど。
イラッとしながらもそれを無視して立ち上がると、侑はおばあちゃんに手を貸した。しきりに謝るおばあちゃんを見送って、侑はなんてことない顔をして駅に向かった。
一歩一歩歩いているうちに、足首がズキズキしだした。意地になってなんとか電車に乗ったけど、なんと人身事故で電車が止まってしまった。思わずため息が漏れる。
人が関わる事故なのに。多くの場合は、命が関わるような事故なのに。
ため息しか出てこない私たちは大切な何かを無くしているんじゃないだろうか。
これはちょっとやばいかも。
足首のズキズキは、少しでも足を動かすとキンとした痛みに変わってきた。
侑は会社に連絡をして病院に向かった。
すぐに冷やせればよかったんだろうけど、病院に着いた時は足首は真っ赤に腫れあがっていた。
レントゲンを取って診察を受けると、ヒビが入ってると言われた。しばらく安静にね、無理はしちゃダメよ、と看護師さんに言われて松葉杖を渡された。
プラネタリウムに行きたい…
会計待ちのロビーで侑はポツリと呟いた。
侑は時々プラネタリウムに行く。昔から星が好きだった。星谷という苗字だからという単純な理由だけど、祖父母の田舎は、星の谷という名の通り、星がとても綺麗な場所なのだ。小さい頃、祖父母の家に遊びに行っては、おじいちゃんと手を繋ぎながら夜のお散歩に行くのが侑の楽しみだった。
夏は虫の声が響く中で星を見上げる。
秋はまん丸いお月様が空に浮かんでいて、ススキが揺れる。
冬はピリッと凍える寒空の下で星が輝きを増す。
春には遊びに行けることはあんまりなかったな。
優しかった祖父母ももう他界していて、田舎に遊びにいく機会もなくなってしまった。一緒に遊んだ従兄弟たちもすでに家庭を持っている。
だから、心が疲れた時、ふとプラネタリウムに行きたくなるのだ。
「おはようございます。」
侑は慣れない松葉杖をつきながら、翌日出勤した。心配してくれる人がほとんどだけど、中にはかわいそうと言いながら楽しさを隠しきれてない人もいる。
侑は自分が派手な部類だとは自覚している。陰口も叩かれてるし、あの爪で引っ掻かれたらこえーよなと言われてるのも知ってる。だから意地になって仕事してる。
そんなのどこ吹く風と普通に接してくれるのは同期の和葉だ。おっとり、のほほんとしている和葉は、実は結構頑固だったりする。
侑がいないと思っていたらしいところで同僚に侑の悪口を持ちかけられていた時も、ゆうちゃんはいい子なんで、と和葉はきっぱり言い切った。
男受けもいいはずのこの子がなんでフリーなのか疑問だけど、もし変な男に引っかかりそうだったら絶対に助けようと侑は決めている。
松葉杖の生活は思った以上に大変だった。
今までひょいと簡単に飛び越えていた電車とホームの隙間も、何度かバランスを崩して落ちそうになった。ちょっとした段差でもって躓くし、普通に歩くよりスペースを取るから、人にもぶつかりやすい。足を引っ掛けるつもりなんて全然ないけど、追い越してきたサラリーマンが勝手に躓いて舌打ちされたこともある。電車で席を譲ってくれるのは意外にもお年寄りの方々だ。多分、座らないとしんどいことを実感してるからだろう。若者は平気でスマホいじるか目を閉じるかしている。
そんな小さなイライラが募っていた時、彼を見かけたのだ。
こんなに暑いのに今にも倒れそうなくらい真っ青な顔をしている。目は焦点が合っていなくて、音の出ない唇がモゾモゾ動いている。
やばい人だ、といつもなら思っただろう。いつも通り、普通の速度で歩いていたら、一目見て通り過ぎただろう。この人のギリギリのSOSを無視して。
そうしなかったのは私自身が疲れていたからだ。やぶれかぶれだと言ってもいい。同病相憐れむ、大いに結構。立ち止まった者同士、分かり合えるものもあるだろう。
侑は隣に座ってしばらく様子を見た。微動だにしない体、時々動く唇。
やばいな。今にもふらっと立ち上がって電車に飛び込みそうな気がする。
侑は何度か息を吸って、吐いて、言葉を飲み込むと、意を決したように話しかけた。
なんで地球の核の話なんかを始めたのかは侑自身も分からなかった。
この立ち止まってしまった人が、それでもなんとか動き出したいと、でもそれが辛いのだと体中で訴えているこの人が、楽になればいいんじゃないかと思ったのだ。地球だって止まることがある。だったらちっぽけな私たちだって、立ち止まってもいいんじゃない?
最初は話も頭に入っていなかったみたいだけど、私もいきなり変な話を始めちゃったし、意外にと言ったら失礼だけど案外まともな人だった。
彰人さんは、人の話をじっくり聞く人だった。自分の中でいろいろ考えるのだろう。だから反応が遅くなる。それがイラっとするという人もいるんだろうなとは感じた。でも、いい加減なことは言わないし、きちんと話を受け止めてくれる人だ。
あまり彼のことは聞かなかった。どこまで突っ込んでいいのか分からなかったし、あまり話たくなさそうだった。でもプラネタリウムで寝て、ご飯を食べた後は顔色がよくなっていた。それを見てほっとしたのだ。別に彼のことを助けてあげようと思ったわけではない。自分が放っておいたら、後で罪悪感を感じそうだったから。自分が誰かに優しくしてもらいたかったから。そんな自分本位の気持ちだった。でも、最後にぎこちなく笑う彼の笑顔を見れてよかったと思ったのも本当だ。
組織が『ダイバーシティ(多様性)』だの『インクルーシブ(包括的。つまりいろんな人種やバックグラウンドの人を採用してますよアピール』だの言っても、結局ただのマーケティングの一種だ。とりあえずエコエコ言ってれば響きがいいのと同じ。
ほんとは異物なんて何一つ認めてないくせに。
いつか自分も普通の枠から外されるかもしれないって、その立場に立つかもしれないって考えられないのだろうか。一生で一度も怪我も病気もせずピンピンころりで死ねる人ばかりじゃないのに。いつか自分の首を絞めることになるのに。
情けは人の為ならずって言ってた昔の人のほうがよっぽどしたたかで現実主義だった気がする。自分を勝ち組だと思ってる人ほどある意味純粋なのかもしれない。自分が転げ落ちるなんて夢にも思ってないんだろうから。
彰人とは連絡先を交換した。心が細やかな人なのだろう、人の痛みに敏感だ。足を気遣うメッセージが届く。今まで接することのなかったタイプだ。侑が付き合うのは俺様っぽい人が多かった。結局甘えん坊みたいな人が多かったけど。今まで苛立っていた気分がなぜか落ち着いた。また会いたいなと思った。