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すっかり腹も膨れてデザート(ドルチェというらしい)の時間になった彰人は、すっかり人心地ついた気分で侑に聞いた。なんで僕に声かけてくれたんですか?と。
もしかしてちょっとは僕のことをいいなと思ってくれててたりして。腹が膨れれば気分も明るくなる。うししと心の中で笑った彰人に侑が言った言葉は衝撃だった。
「あのまま線路に飛び込みそうだったからよ。」
ぶっ!ケホケホ
カッコつけてコーヒーカップを口に運びながら聞いていた彰人は、思わずむせて咳き込んだ。
「そっ!そんなことは…」
笑って誤魔化そうとした彰人だが、その先は続かなかった。
「ないって言える?」
侑は真剣な目でじっと彰人を見た。
そんな。そんなこと考えるはずが。
……ああ、確かにそれも頭によぎった。でも一瞬だ。ほんとにそんなことをしようと思ったわけでは…
彰人は侑の目が見れなかった。この真剣で、真っ直ぐで、大きな瞳に見つめられたら、ちっぽけな嘘も見栄もすべて見透かされてしまいそうだ。
そんなことは…
彰人は声に出さずに呟いた。
…でも、僕の気持ちが分かるってことは…
「侑さんは?もしかして侑さんも?」
彰人は青ざめて顔を上げた。だめだ、ぜったいにだめ。
「私は電車の混みが落ち着くのを待ってただけよ。松葉杖ついて満員電車に乗れるほど朝のラッシュアワーは優しくないからね。ベビーカーの人とか大変そうだし。」
侑はそう言うと水を飲んでため息をついた。
「私も舌打ちされたりとかよくするし。信じらんないでしょ、どんだけ余裕ないのよ。でも世間の基準だと私が悪いんでしょうね、なにせ皆さんにご迷惑をおかけしてるわけだから。…ほんっと、普通から少しでも外れた人間に厳しい社会よね。」
『普通から外れた』という言葉に心臓がどきりとする。彰人はそれを無理矢理無視して聞いた。
「あの、足は?」
侑が松葉杖をついていたことを彰人は思い出した。ほんとうに、僕は、なにを見て。
「ヒールで挫いたのよ。大丈夫、ただの捻挫だから。」
よかった、とほっとすると同時に、じゃあ僕と同じずる休みじゃないじゃないか、という考えが一瞬頭をよぎった。
彰人は慌てて首を振る。そんな、命の恩人みたいなこの人に僕はなんてことを考えて…
それから少し話をして、侑とは駅のホームで別れた。家まで送っていきます、なんてかっこいいことも言えない彰人は、せめて侑の電車を見送ろうと侑の電車を一緒に待った。
「あのっ!その…あのっ!また…また会ってくれますか?」
あんたみたいな暗くてつまんない人はお断り、と言われることを覚悟して言った彰人に、侑は
「いいわよ。」
とあっさりと言った。思わず詰めていた息をほっと吐いた彰人は、連絡先を交換して侑を見送った。
◆
——カタンカタン
昼間の電車は緩い。
のんびりと流れる時間。
乗客の顔も穏やかだ。
朝の殺気立ったラッシュアワーか、夜のゾンビみたいな時間しか電車に乗ってなかったからな。
彰人はまばらにしか乗客が乗っていない電車に座ると、小さく伸びをした。
子供連れのお母さん。
ご老人。
学生のような若い人。
時々スーツ姿の人もいる。
僕はどう見えているのだろう。営業マン?
彰人は侑の松葉杖を思い出した。
効率を重視した社会。そこから外れた者は脇に寄るしかないのだろうか。人の見えないところに隠れないといけないのだろうか。ごめんなさいと謝りながら、小さく縮こまらないといけないのだろうか。
会社という組織から外れた僕は、普通から外されたのだろうか。
大きな波に乗れれば、マジョリティの中に溶け込めば、心地よい生活ができる社会。でもそれは裏を返せば、マイノリティには暮らしにくい場所ということだ。
僕は、どうしたいのだろう。
どう生きたいのだろう。
自分のことを考えるのも久しぶりで、上手く言葉にならない。
でも、今こうして自分のことを考えられるのも、侑さんが声をかけてくれたおかげだ。
彰人は家に着くと、洗面所の鏡で自分を見てびっくりした。
ひっでえ顔…
くっきりついたクマ、伸びて白髪がパラつく髪、スーツはヨレヨレで、シャツの袖口は黒い。
そんな男が、充血した目を見開いてこっちを凝視している。
侑さん、こんな男とよくデートしてくれたな。
…デートだったんだよな?違うか。侑さんは優しいから、僕が変なことをし出さないように付き合ってくれただけだ。勘違いするな。
…違う、そうじゃない。そんなに卑屈になるな。彼女の優しさを、そんな僕のちっぽけなプライドなんかで汚すな。
彰人は勢いよく水で顔を洗うと、パンっと頬を叩いた。
しっかりしろ。
彰人は鏡の自分を睨みつけた。
床に座ってパソコンを開く。彰人は考えては止まりながら、ジャック宛にメールを書く。
あの件なんだけど——