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◆
「彰人さん、彰人さん。」
肩を遠慮がちに揺さぶられた彰人は、はっと目を開けた。周りはすでに明るくなっている。
「え、あれ?っごめん!」
彰人は飛び起きた。寝落ちしてしまったようだ。
よだれ垂れてないよな…
一応口元に手を持っていくと、手に水分がついた。
垂れてるし!
急いで口元を拭うと、はははと誤魔化し笑いで侑を見た。
侑は優しい顔で笑っている。第一印象は派手な怖い女性だったが、笑っている顔は全然キツくない。…僕は何を見ていたんだろうか。
「寝ちゃうなんてないよね、ごめん。」
彰人は謝った。せっかく侑さんが好きだというプラネタリウムに連れてきてもらったのに…
「いいって、いいって。疲れてたんでしょ。私もときどき寝ちゃうよ。気持ちよくない?」
侑はにこっと笑う。
その笑顔に彰人は見惚れた。
きれいだな。
こんなにきれいなものを見たのは…いつぶりだろう?
侑の顔が赤くなる。どうやら口に出していたらしい。
「っ、お腹空いたでしょ、ランチに行きましょっ」
侑が歩き出す。彰人はそれに続いた。
ランチ、ランチは僕がリードしないと。どこかオシャレな、女性が好きそうな、なんだ、なんだろ。レストラン?…最近まともな物を食べてないからまったく思いつかない。この辺りに何があるのかも分からない。僕は毎日何をやって…
急に立ち止まった彰人に気づいて、侑も止まる。
「どうしたの?具合悪い?」
「っいや!そうじゃないよ。元気!元気!ランチなににしようかなと思って。その…」
何にも知らないとは言えるわけがない。
その様子をじっと見ていた侑は、私行きたいところがあるの!と彰人のスーツの袖を軽く引っ張って歩き出した。
行きは侑が先に歩いていたが、今は二人で並んでゆっくり歩いている。時々侑が段差に躓きそうになる。足早に通り過ぎる人がいる時は脇に寄って立ち止まり、会釈する。会釈を返してくれる人もいるけど、そのまま通り過ぎる人もいる。都市の狭い道はゆっくり歩く人を考慮に入れていない。侑さんは怪我をしているのに…もやもやする気持ちを抱えながら、なんとか侑が歩きやすいように彰人はリードした…と言いたいところだけど、そもそも人と並んで歩くことがない彰人は、上手くやれている自信がなかった。
着いたのはデパートの上層階のシーフードイタリアンの店だった。平日の昼間だからか、ここも女性ばかりだ。
女性ってこんなにいたんだな、僕の周りは男ばっかりだから。彰人は苦笑いをする。
会社はほとんど男だ。女性も少しはいるが、みんな黒いスーツを着て、髪で顔を隠して、パソコンに顔を埋めているか、俯いているかのどちらかだ。
目立たないように。
つけ込まれないように。
ひっそりと黙々と。
ああ、女性は僕なんかよりよっぽど大変なんじゃないだろうか。今更気づくなんて。女だからってくだらない理由で槍玉に上げられていてるのを何度も見たことがある。僕は決してそういうのには入らないけど、黙って見過ごすなんてそれだけで最低だ。
ランチコースのメニューを侑が見ていたから、それに倣ってメニューを手にしたが、彰人は文字が全く頭に入らない。手書きで書かれたランチメニューには、数種類のパスタとピザが書いてある。あと、前菜と、ドルチェ?文字は読めるし意味もわかるのだが、上滑りする。
僕は何が食べたい?…わからない。
食べるってなんだ?…体が止まらないように、何かを口に突っ込むことだ。
メニュー越しに彰人を見ていた侑は、
「私、ナスと厚切りペーコンのトマトパスタにする。」
と言った。
ナス、ナス。ナスはあれだよな?夏に食べる。ナスがなんだって?
「彰人さんナス好き?」
「うん。」
彰人はすんなりと答えた。侑さんが言うのなら好きだと思う。
「じゃあ彰人さんも一緒のにしよ。食後のドリンクはホットコーヒーでいい?」
それにも頷いた彰人を見て、侑がオーダーをする。
僕、ほんとになにもできないな。しよう、しようとは思うのに、頭も体も動かない…どうにか、なんとかしないと。なんとか——
「彰人さん、パスタ来たよ。」
侑の言葉にはっと意識が戻る。
「わあ、もう来たんだ。早いね。」
「前菜ももう食べたわよ。」
「えっ!そっそうだったね!美味しかった。」
味などまったく覚えてないが、慌ててそう言った。
「パスタもきっとおいしいね。あっつ!」
「もー、店員さんが熱いのでお気をつけくださいって言ってたでしょ。ゆっくり食べましょ。」
侑はパスタをふーっふーっと冷ますと、パクッと口に入れた。
彰人は吸い込まれていくパスタを見つめた。
見られていることに気づいた侑は、
「なによ、猫舌なの、悪い?」
とちょっとぶっきらぼうに言った。
「悪くないよ!おいしいかなって思って。」
はははとごまかすと、彰人もパスタを口に入れる。
トマトソースとベーコンの味。分かるのはそれくらいだが、噛んで、飲み込むと、腹がふわっと温かくなるのを感じた。温かい飯を食べるのはいつぶりだろうか。最近はコンビニ弁当ですら温める時間も気力もなく、かっこんでいた。というか、何かを噛んで食べること自体が久しぶりなような気が…
「…おいしい。」
ポロッと言葉がこぼれた。
ああ、おいしい。おいしいってこういう感覚だったんだ。
彰人は夢中でパスタを食べた。侑はそんな彰人を見て微笑んだ。