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——ガタンガタン
朝のラッシュアワーの時刻。彰人は会社員と学生でごった返すホームのベンチに座り、どこを見ることもなく、ぼうっと前を向いていた。
次々にやってくる電車は、大量の乗客を吐き出して、同じくらいの数の乗客を詰め込んで、ホームを去っていく。
朝なのにすでに気温が高く、湿気の多い空気。雨はかろうじて降っていないが空はどんよりと曇っていて、いつ雨が降ってもおかしくない。彰人は駅に来るまでにすでに雨に降られている。いきなりスコールのような雨が降り出したのだ。スーツは肩から腕にかけてじっとりと濡れているが、それを拭く気にもなれない。というか、そもそもハンカチなんて持ち歩いていない。
彰人は忙しなく行き来するスーツ姿の人々を眺めて、小さく頭を振った。
会社に行かなければ。
こんなところに座ってる場合じゃない。
次の電車が来たら、乗って、会社に行く。
そう決めてから何本電車を見送っただろうか。
足が動かないし、腰が上がらない。
次の電車こそ。
彰人は力の入らない目でまた去っていく電車を追いかけた。
「ねえ、ちょっと」
松葉杖をついた派手な感じの女性が目の前に立った。
「すみません」
彰人はぼそっと小声で謝ると、隣の席に置いてあった自分のカバンどけた。女性が松葉杖で危なげにバランスをとりながら、なんとか隣の席に座る。女性はブランド物だと思われるカバンからスマホを取り出して、パパッとスクロールしていく。
彰人は何を思うわけでもなく、前を見続けた。
その体勢のまま、二人は電車を何本も見逃した。
次こそは。
次こそは。
彰人は呪文のように心の中で唱えた。
「知ってる?地球の内核は止まったり逆回転したりするのよ。」
スマホから目を離した女性が彰人の方をくるりと向くと、そう言った。
「はい?」
彰人は反射で声を出した。女性は構わずに続けた。
「地球の中心には固体の内核があって、それを液体の外殻が覆ってるの。で、その上にマントルと地殻が被さってるのよ。」
「………」
この人は僕に話しかけているのだろうか?知り合いか?僕の知り合いにこんな派手な人はいないはずだけど…そもそも女性の知り合いなんていないし。
「いい?地球はジュレ入りの飴みたいないものなの。ジュレが液体の外殻で、外側の硬い飴が地殻。マントルはジュレと飴の間の柔らかめのところね。で、固体の内核は当たり入りの飴ってところかしら。ほら、駄菓子屋であったじゃない。食べて硬いラムネみたいなのが入ってたら当たり。イメージできる?」
「はあ…」
彰人はとりあえず相槌を打ってみた。
そもそもこの人は僕に話しかけているのだろうか?僕の横に誰か知り合いがいるのだろうか?
「地球は自転してるじゃない。それとは別に、内核は内核で真ん中をクルクル回ってるの。地球の自転とは違う速度でね。で、その回転は止まったり、反対方向になったりするのよ。面白くない?地球が常に同じ方向に動いてるのに、内核はいきなり止まったり逆回転したりするのよ。」
「はあ…」
なんかの宗教の勧誘か?僕はカモられやすいのかな。今なら壺でも水晶でも買っちゃいそうだけど…
頭はかろうじて回っているらしいが、彰人の表情は、全く動かない。それを見て女性は焦れたらしい。
「だから!地球の内殻ですら休んだり反抗したりするんだから、人間だってしてもいいんじゃないって話!」
「はあ」
地球から人間に話が変わったらしい。これがあれか?女性の話についていくのは大変だとよく同僚がぼやいているやつだろうか。
「…私は会社休むわよ。」
女性は理解の遅い彰人をきっと睨むと、どこかに電話をかけた。
「おはようございます、星谷です。今日は会社を休みます。はい、失礼します。」
ぶち
電話が切れた音が聞こえた気がした。いや、そんなことないはずだ。だって固定電話じゃないんだから。受話器をガチャンと置いているわけではない。なのに…
彰人は目を限界まで開いた。
衝撃だった。
こんなにあっさりと会社を休むなんて。
女性は彰人をじっと見つめた。
「あなたはどうするの?」
僕?僕か?僕は…
僕は会社に行かなければ…早く、行かないと。遅刻になってしまう。…でも…
目の前で堂々と会社休む宣言をした女性を彰人は見つめた。
そんなことが…できるなんてこと…
彰人は震える手でスマホをカバンから取り出した。さっきからスマホは震えっぱなしだった。僕に電話をしてくるなんて会社くらいだ。
スクリーンには『会社』の文字がデカデカと表示されている。きっと履歴はすべて埋まっているだろう。
バイブが収まったタイミングで、彰人は自ら電話をかけた。
「もしもし、おっお疲れ様です、久保です。きっ今日はっ——」
ごく
唾を飲み込んだ。口の中がカラカラだ。
「やっ、休みます!すみません!」
電話口で怒鳴ってる声が聞こえるが、彰人はそれを見ないように目をつぶって電話を切った。
湧き上がったのは安堵と恐怖だった。
心がふわっと軽くなった。それから、真っ黒い後悔が大きな波になって押し寄せた。
「明日、どうしよう…」
彰人は俯いて小さく呟いた。
どうしよう。どうしよう。会社を休んだことなんてない。どんなに体調が悪くても、たとえ親が死んでも来いと言われている。
どうしよう。どうしよう。
彰人は頭を抱えて体を上下に揺らした。
どうしよう。どうし——
「で、ズル休みする予定の反抗期の私たちは何をしましょうか?」
彰人はぱっと頭を上げた。隣に女性がいたことはすっかり忘れていた。
彰人が女性を見ると、女性はいたずらっ子みたいに笑った。
「な、なにを…?」
何をする?
何かをするのか?
何って、何?
なにも思い浮かばない。会社を休む重罪人の僕がしていいことなんてなにもない。
ひっきりなしにアナウンスが流れるホームで、2人の間に沈黙が落ちた。
なにを?する?
今なにをするか以前に、今までどう生きてきたかさえもわからない。
ただ朝起きて、ラッシュアワーに揉まれて、会社に行って、終電ギリギリまで働いて、家に帰って気絶するように眠る。それが僕の毎日だ。
それ以外になにがあるというのだ。休日なんてものは存在しない。
ましてや女性と出かけられるところなんて分からない。
「…嫌ならいいわよ。」
女性がそっぽを向いて言った。
「嫌じゃないです!」
ぱっと出てきた言葉に一番びっくりしたのは彰人自身だった。
目を開いて固まった彰人をじっと見つめた女性は、
「うーん、じゃあプラネタリウムね。」
と言いながらよっこらせと立ち上がった。
「あっ!」
手伝います、と言いかけた彰人だが、女性の体に軽々しく触れたら捕まるかもしれない、とオロオロしている間に女性は1人で立っていた。
「すみません…」
俯いてボソッと言った彰人に、行くわよと声を掛けて女性はさっさと歩き出してしまった。