ウォッシュ・アウト
乾燥機の中の洗濯物が回るのを、彼女はじっと見つめていた。
「つまり、なんていうのかな。最終回を見るのが嫌なんです。好きな作品であればあるほど」
「なるほど」と私は口にした。
「つまり、君は、好きな作品に終わりが来るのが嫌というわけだ。その作品を、延々と楽しんでいたいということだな」
いわゆる、〇〇ロスに陥りたくないということか。自分の半身をなくしたような気持ちから逃れたいということだ。
だが、私の得心を、彼女は打ち消した。
「違います。失望したくないんです」
「失望?」
好きな作品に失望? 好きな作品の最終回であれば、寂しさはあるが、最後まで見届けることができたという安堵と喜びが湧き上がってくるものではないか?
世の中には、未完のままに終わった作品が存在する。最終回を目にできなかった人間も、たくさん存在するのだ。そんな中で、最終回を迎えることのできる作品は、それだけで祝福されている。
それなのに、失望?
首を傾げる私に、彼女は少し笑って、また、乾燥機を見つめていた。
「ああいうものみたいに、終わりがわかっているものは好きですよ。何時間でも見ていられます。ただ洗濯物を乾燥しているだけの機械に、何の期待もありませんから」
「だから君は、ここを離れないでいるのか」
「ええ、そうです。乾燥が終わったら、さっさとバッグに洗濯物を詰めてお暇する予定です」
「でも」、と彼女は続けた。
「作品は違うんです。終わりがわからない。だから期待してしまう。だけど、私の期待が高すぎて、満足のいく終わりをする作品は何もなかったんです。あの登場人物はどうなった、とか、あの伏線を回収してない! とか。最終回後の寂しさよりも、ええと、乾燥機でいえば、生乾き? の気持ち悪さが残るんです」
そうして、彼女は期待を消費することにした。
飽食ならぬ飽読、飽観の時代だ。いくつもの作品の“期待させてくれるところ”だけを消費して、最終回は見ないように、読まないようにしたらしい。
「私は最終回に期待していません。でもそれは、受け取る側のワガママだってわかってるんです。最後まで付き合わない不実な読者であり視聴者です。本当のファンとは言えないと思います。ファンだった、と言ったほうが良いでしょう」
「ファン、だった……」
「残酷な言葉ですよね。でも、まだファンだと言うのよりも、よっぽど素直な言葉だと思います。それが、私の誠意です」