4 花に嵐
「……というわけで、彼女を我がラドフォード家で雇いたい」
青年――アルヤの言葉に、ガルデス一家はそろって困惑の表情を浮かべた。
モナの宿屋でひとしきりやり取りをした後、ともかく家族に相談させてほしい、とマーシャは粘った。
自分はまだ成人したばかりだし、一家の長である父に何の相談もなく決めることはできない。何より庭師としてはまだ半人前だ。
そう繰り返し伝えると、アルヤはそれもそうだなと頷いたものの、今度は「それなら、俺が直接話そう」と言い出した。どうしたら穏便に断れるかを家族と考えるつもりだったのに、その思惑すら見透かされているようだった。
そもそも、領主の屋敷からこの町までは、馬を使っても何日もかかるはずである。何か用があって、ここまで来たのではないのか。
一縷の望みでそう尋ねても、アルヤは「用はあったが、もう済んだから大丈夫だ」と笑うだけだ。八方塞がりである。
モナも「わざわざ家まで行かなくても、うちの宿屋でお待ちになっては」と精一杯口添えしてくれたが、それには及ばない、今すぐに行こうと彼は譲らない。結局断り切れず、マーシャは家までの道のりをこの見目麗しい青年と並んで歩く羽目になったのである。
道中、同年代の女性から向けられる視線はたいそう痛かった。
ここ、ポロスの町は、そこまで大きな町ではない。ほとんどの子供が同じ学校に通うので、同年代ならばほぼ顔見知りと言っていい。マーシャの花が「ボケ」であることも、それでよくからかわれていたことも、大体の若者が知っている。
――ねえあれ、ボケのマーシャじゃない?
――隣の人、誰? 恋人とかじゃないわよね。
――ええ? まさかぁ。
ひそひそと交わされる声を聞きながら、マーシャはひたすら俯いていた。
違うんです。私だって好きで隣を歩いてるわけじゃないんです。不可抗力なんです……と大声で弁解したい気持ちに駆られる。
どうしてこんなことに。いっそ泣きたい。
歩き慣れた道が、まるで針のむしろになったかのようだった。
いたたまれない思いで家にたどり着き、事情を説明すると、当たり前だが家族は仰天した。娘の花言葉には動揺しなくても、領主の息子の突然の来訪とあれば、さすがに平静ではいられなかったらしい。
貴族の中でも、国に五つしかない州を治める領主の家は別格と言っていい家柄だ。万が一機嫌を損ねようものなら、どうなるか分かったものではない。
ただでさえ小心者の長兄は震え上がり、いつもはマイペースな次兄も顔が青ざめている。どうしてこうなった、と言わんばかりの視線にマーシャはまたしても言い訳したくなったが、アルヤが口を開く方が速かった。
「エビネの花を咲かせるのは、やはり難しいのか?」
脈絡のない問いかけに、落ち着いて答えたのは父だった。
「健康な株を植えて、適切な世話をすれば咲きます」
「初心者でも?」
「適切な手入れができれば。ただ、気を付ける点が多いのは事実です。放っておいて綺麗に咲く花ではありません」
父の説明はごく一般的なものだったが、細かく説明をし始めるときりがないのも事実である。
日照、風、温度、水、虫、病気。花を育てる上で注意することはいくつもあり、口頭ですべてを説明するのは難しいのだ。
実際に、花と向き合いながら覚えていく必要がある。マーシャも兄も、そうして学んできた。
「宿屋の庭に咲いていたエビネは、見事だった」
「宿屋……? ブランシュの宿屋ですか?」
「名前は知らないが、この娘が世話をしていた宿屋の庭だ」
ブランシュというのはモナの名字である。マーシャは父に向かって、小さく頷いた。
「我が家の庭にも、エビネが植えてある」
「そう、なのですか」
「ああ。エビネは、亡き母の花だったからな」
思いがけない言葉に、マーシャは息を飲んだ。
アルヤはわずかに苦笑を浮かべて続ける。
「なんとか根付かせたいと思っているんだが、どうもうまく育たなくてな。最初は花が咲いても、次第に弱っていって、そのうち枯れてしまう。庭の土が合わないのか、と思っていたんだが」
「……確かに、その可能性もあります」
「だが、あの宿屋のエビネを見て、もしかして、と思った」
群青の瞳がマーシャを捉える。強い期待のこもったまなざしだった。
「前任者が年老いて亡くなってから、新しい人間は入れていなかった。けれど、そろそろ次を見つけたいと、俺も父も思っている。……というわけで」
――彼女を、我がラドフォード家で雇いたい。
決然とした申し出だったが、父は固辞した。
「大変光栄なお言葉ですが、娘はまだ未熟です。お役に立てるとは思えません」
「そこを何とか頼めないか。決して悪いようにはしない」
「しかし、腕の良い庭師なら他にも……」
「俺は、彼女の咲かせる花にひとめぼれしたんだ。頼む」
なんと、アルヤはマーシャの父に向って深々と頭を下げた。
どうして、そこまで。マーシャは唖然としてしまう。いくら亡き母の花を咲かせたいと言っても、自分のような小娘に、そこまでの価値があるとは思えない。
あまりの展開に、母も兄たちも口を半開きにしている。
「おやめください。伯爵家のご長男ともあろうお方が、そのように頭を下げられては……」
ひどく慌てた口調で父が制止するが、アルヤは頭を上げようとしない。
「では、マーシャをこちらによこしてくれるか」
「や……しかし、それは」
「了解がもらえるまでは帰れない」
頑なに姿勢を崩さないアルヤに、父はとうとう根負けしたようだった。
「……承知しました。マーシャを、お連れください」
「と、父さん!」
マーシャは思わず声を上げたが、父は悩ましげに首を振るだけだった。父としても、苦渋の答えなのだろう。それは分かる。分かるが。
アルヤはぱっと顔を上げて、父に握手を求めた。
「そうか、感謝する。ジラルド・ガルデス、だったな」
「はい。花はモクレンにございます」
「良い花だ。奥方は?」
「は、はい! わたくしはソノラと申します。花はオキザリスです」
母が弾かれたように頭を下げる。後ろで兄二人もつられたようにお辞儀をした。
アルヤは一家をぐるりと見回すと、手にしていたフード付きのマントを再び羽織った。
「では、今日中にこの町を出立したい。マーシャ、急ぎで悪いが準備してくれ」
「今日中?! そ、それはさすがに早すぎます……!」
本当に、何から何まで急すぎる。今日中と言っても、すでに午後の時間帯だ。日が落ちる前に出るとなると、あと数時間しかない。
庭作業用の道具はもちろん、住み込みということになれば服や身の回りの品も用意しなければならない。しばらくは帰って来られないだろうから、モナをはじめとした友達や、お世話になった人たちにも挨拶くらいしたい。それなのに。
マーシャの訴えに、アルヤは「すまない」とまた頭を下げた。
「急かしていることは分かっている。しかし俺にも事情があって、どうしても今日にはこの町を出なければいけないんだ」
「あっあの、お顔を上げてください」
「いや、これは俺の問題だからな。付き合わせてしまって申し訳ないとは思っているのは本当だ」
律儀なのか生真面目なのか。やたらと顔が良くて強引なくせに、庶民に頭を下げることをためらわないのが不可思議だ。ここまでされると、低姿勢の脅しのようにも思える。
「わ、分かりました! 分かりましたから!」
「ああ、すまないな、助かる」
ともすれば男性さえも魅了しそうな笑顔をこぼすアルヤに、マーシャはがっくりと肩を落とした。