3 花と出会い
「……で、現実逃避で仕事に打ち込んでるってわけね」
「言わないでよ……分かってるんだから」
鉢植えに固形肥料を押し込んで、マーシャは力無く眉尻を下げた。
波乱の誕生日から数日後、マーシャは幼馴染のモナの家に来ていた。
橙色の明るい髪を肩のあたりで揃えた彼女は、町の宿屋の一人娘である。今日のマーシャの「仕事」は、この宿屋の庭木や鉢植えの手入れだった。
マーシャの父ジラルドは庭師だ。その影響で、兄たちもマーシャも、幼い頃から植物や土に触れて育ってきた。
父の後は長兄のトニオが継ぐ予定ではあるが、マーシャも仕事の一部を手伝っていた。いわば、見習いのような立場だ。
元々花や木は好きだし、父や兄にくっついて庭いじりをしていたおかげで知識も技術もそれなりにある。モナとは年が同じで親しくしていたこともあり、宿屋の庭はもう何年も前からマーシャが担当していた。
モナは少々口調がきついところはあるが、裏表のない性格で情に篤い。マーシャをからかう男子に対しても敢然と立ち向かい、完膚なきまでに言い負かしてしまうので、マーシャの方が逆に「も、もういいよ」と止めに入っていたほどだ。
そんな気丈な彼女も、マーシャから花言葉を聞いた時はさすがに一瞬ぽかんとしていた。無理もない。マーシャが今まで色恋事にどれほど縁がなかったかは、モナが一番よく知っているのだから。
「おじさんやおばさんは何て?」
庭に面した部屋を掃除しながら、モナが窓越しに話しかけてくる。
「父さんは特に何も。母さんはむしろなんか嬉しそうだったけど」
あの日、足取り重く家に戻ったマーシャは、待っていた家族に花言葉を報告した。
父は目を見開いて「そうか……」と言うだけだったし、母はと言えば「あらあ、素敵じゃない」とにこにこ笑っていた。娘の一生が左右されるかもしれないというのに、暢気なことである。
一番の衝撃を受けていた長兄は、「魅惑的な恋……一体どこの誰と……」と頭を抱えていたが、二番目の兄に至っては何やら思案にふけった後「いや、人とは限らないかもしれない」と意味の分からないことを言い出す始末である。
人じゃなければ何だ。まさかモノにひとめぼれをするとでも言うのだろうか。
少しは真剣に考えてよ、とマーシャは嘆いたが、考えたところで分かるわけでもない。結局それから何事もなく、いつもの日常が戻ってきただけだった。
話を聞いて、モナは声を立てて笑い出した。
「あんたの家族って、ほんとどっかズレてて面白いわよね」
「否定はしないけど、振り回されるこっちの身にもなってよ……」
「何言ってるのよ。あんたも立派にその一員じゃない」
「ええ……納得できない……」
うなだれつつも、作業の手は止めなかった。今手入れをしているのは、半日陰に置かれた鉢植えのエビネだ。
エビネの花は病気に弱い。この株は丈夫で今のところ異変はないが、害虫や水やりには気を付けなければならないし、鋏は使うたびに火であぶって消毒しなければいけない。なかなか手のかかる花の一つである。
それでも無事に咲いた薄紫色の花を見ると、マーシャは穏やかな心地になった。やっぱり、花の世話はいい。少なくともこうして無心で作業しているうちは、憂鬱なことも忘れていられる。
続いて日向に置かれた鉢植えに目を移すと、こちらは白い花が咲いていた。「あ、それ!」と部屋の窓からモナが体を乗り出してくる。
「実、ちゃんと生りそう? できたらジャムにしたいんだけど」
「大丈夫だと思うよ。この前受粉もさせたし」
咲いているのはイチゴの花だった。モナから、是非にと頼まれて植えたものだ。
寒い時期にはきちんと土を覆って害虫や寒さ対策をして、水やりも葉にかからないよう注意して行っていた。実が成るように筆で受粉もさせた。おそらく、大丈夫だろう。
「でも、自分の花よりイチゴを植えてくれって。いいの?」
「いいのいいの」モナはあっさりしたものだ。
「綺麗な花なら他にもあるでしょ。どうせなら、おいしい実が生る方がいいじゃない」
モナは「ラナンキュラス」という花を授かっている。花言葉は「晴れやかな魅力」「光輝を放つ」だという。
マーシャなら気後れしそうな言葉だが、実際この友人は華やかな顔立ちでスタイルも良く、客の男性からも頻繁に口説かれている。だが本人は至って現実的で、実用性を重視する性質だった。
商売人の娘らしく、男性の好みを聞かれれば「顔よりも経営センス」と言い切る。その潔さが逆に魅力に映るようで、やはり花言葉通りではあるのだが。
「でもさあ、案外的を射てるかもよ。あんたの兄さん」
「え? どういうこと?」
顔を上げると、モナは窓に片肘を付いて、意味ありげに笑っていた。
「ほら、二番目のお兄さんって確か絵描きよね」
「そうだけど……」
同じように庭いじりをして育ってきても、次兄のヒューイは花や葉っぱや虫を観察をするのが好きな子供だった。次第にそれらを絵に描くようになり、今は本の挿絵などを頼まれて描いている。
「『ひとめぼれ』や『熱情』の対象は人じゃないこともあるわよ。あんたの兄さんが虫を四六時中見てても飽きないみたいに」
「うーん……まあ、確かに」
言われてみれば、次兄のあの観察対象に対する集中力は「熱情」と言えなくもないし、「恋」に近い感覚かもしれない。
「それに、人じゃなくて絵に『ひとめぼれ』することだってあるでしょ。あたしだって、可愛い刺繍の服にひとめぼれして買っちゃったことあるし」
「ああ、なるほど。それなら分かるかも」
でしょ、とモナは片目を瞑ってみせた。
「だから、そんなに気にしなくてもいいのよ。別に、花言葉のために生きてるわけじゃないんだしさ」
「モナ……」
「好きなようにしたらいいんじゃない。後から『ああ、こういうことだったのか』って気づくかもしれないでしょ?」
親友の言葉が、じわりと心に染み込んでくる。
そうだった、花言葉は祝福なのだ。表面上の言葉に縛られて身動きが取れなくなってしまっては、せっかくの祝福も台無しである。
まさか、授かった言葉に添った生き方をしなければ不幸になるというわけでもないだろう。花予見だって言っていたではないか。解釈はあなた次第だ、と。
「そうよね。……ありがとう、モナ」
おかげで随分と気分が楽になった。
マーシャが立ち上がって笑うと、モナは「どういたしまして!」と破顔する。
「ま、やっぱり言葉通りに大恋愛をする可能性だってあるけどね」
「えっ、ちょっと、振り出しに戻さないでよ! せっかくいい感じにまとまったのに!」
「いいじゃない。あたしたちまだ十六でしょ。そういう展開だってあり得るってこと、で――……」
明らかに面白がっていたモナの言葉が、唐突に途切れた。視線はマーシャを通り越して、その背後へと向けられている。
不思議に思って振り向くと、フードを目深に被った男性が庭の入り口に佇んでいた。
もしやお客さんだろうか。モナは今朝、現在宿泊中の客はいないと言っていた。だとしたら、今着いたばかりの新しい客かもしれない。
マーシャが考えを巡らせていると、モナが先に口を開いた。
「あの、お泊りの方ですか? ここは中庭ですので、正面玄関へ……」
「……けた」
「え?」
モナの声かけには構わず、男性はずんずんと庭に入り込んでくる。そのまま、一直線にマーシャのもとへとたどり着いた。
「あのエビネは、君が手入れを?」
「え、エビネ? あ、はい、そうですが」
先ほどまで手入れをしていた鉢植えと男性を交互に見やり、マーシャは答える。
すると男性は「素晴らしい」と呟いて、おもむろにフードを取った。
さらさらと流れる金髪に、深い群青の瞳。
一見女性と見紛うほどに優しげで、端正な顔立ちが、こちらを見下ろしていた。
神話から飛び出してきたような美青年の登場に、マーシャは呆気に取られる。一体誰なのだろう、この人は。
何も言えずに突っ立っていると、青年はずいと詰め寄ってきた。
「君の名前は?」
「……マーシャ・ガルデス、です。花はその……ボケ、です」
若干言いよどんでしまった。初対面の人に花を伝えるのはやはり緊張する。
が、青年は一つ頷いただけで、何も評することはなかった。代わりに、突拍子のないことを言い出す。
「マーシャ。突然だが、我が家の庭の手入れをしてくれないだろうか」
「えっ? に、庭?」
「ああ。雇いたいんだ。君を」
「……えええっ?! む、無理です!!」
マーシャは反射的に首を横に振っていた。
この青年が誰なのかは知らないが、おそらくかなり身分の高い家柄の人だろう。身に着けている服やマントは上質のものだし、物言いも人の上に立つ人間のそれだ。
花が重要視されるこの国において、庭師という仕事はほぼ確実に需要があり、安定した職業の一つだ。皆自分の花を家の庭に咲かせたがるので、人気のある庭師は各所から引っ張りだこだった。お金のある家なら、マーシャのような見習いをわざわざ雇わなくても、有名な庭師をいくらでも雇えるはずである。
しかし、断っても青年は一向に引く気配を見せない。
「無理とは? 何か事情があるのか?」
「事情といいますか、私はその、まだ見習いで」
「見習い……では、師匠がいるのか。その方の許可があれば良いんだな?」
「し、師匠というか父ですが……その、許可とか、そういう問題ではなくてですね?!」
マーシャが必死に抵抗していると、様子を見ていたモナが見かねたように口を挟んでくれた。
「あの、そもそもあなたはどちら様で?」
「……ああ、これは失礼。申し遅れた」
青年は頭を掻き、優雅に一礼した。
「俺はアルヤ・ラドフォード。家の花は、クンシランだ」
マーシャも、そしてモナも言葉を失った。
自己紹介をする時、通常は自分の花を名乗る。しかし、身分の高い家柄の人たちは、代わりに「家の花」を名乗るのが通例だ。この青年がそれなりの身分の人間だろうということは予想の範疇だったので、家の花を名乗ったこと自体はそう驚くことではない。
だが、それが「クンシラン」となると話は別である。
その花を名乗れる家は、この国の中で一つしかない。
「りょ、領主、様……?」
「の、息子だな。一応、跡取りということになっている」
ここ、カリヴィス州を治める領主にして伯爵の称号を持つ、ラドフォード家。
クンシランは、その象徴として妖精王から授けられ、代々家に伝わる花だ。他の人間は授かることができないし、もしも偽って名乗ったりすれば重罪となる。子供でも知っている事実だ。
だとすれば、目の前の青年は、本当に――……
「ひとめぼれしたんだ。エビネをあれほど綺麗に咲かせる、君の腕に」
「ひ、ひと……めっ?!」
「そうだ。だから、ぜひ、うちの屋敷に来てもらいたい――いいだろう?」
美青年――アルヤは天使の如き微笑を浮かべて、手を差し伸べてくる。
ひとめぼれ。ひとめぼれと言ったのか。この人は。
まさか、花言葉は、このことを?
ふと脳内に浮かんだ考えを、マーシャは即座に否定した。いやいやいやいや、無い。有り得ない。
領主の息子の申し出を断ったりしたら、自分だけでなく、家族にも咎が及ぶかもしれない。
しかし、だからと言っておいそれと頷くわけにもいかなかった。伯爵家の家の庭の手入れなんて、いくら何でも荷が重すぎる。
父ならともかく、自分には到底無理だ。ヘマをして大事な花を枯らしてしまったりしたら、それこそ首が飛びそうである。比喩ではなく、そのままの意味で。
無理。絶対無理。けれど、どうやって断れば。
冷汗が一気に噴き出してきて、マーシャはくらくらと眩暈を感じた。




