2 花の社
その社は町外れの森の中にあり、不思議な力で守られている。用がない時には、どれほど森を歩いてもたどり着くことはできない。
だが、花の祝福を受けるために決まった道を歩いていけば、やがて美しい泉と大きな樹が見えてくる。それこそが、花予見のいる「花の社」だった。
この国――ベネフロス王国は五つの州で成り立っており、州の中に大小さまざまな町がある。
花の社は町ごとに設けられているが、町の数だけ花予見がいるかと言えばそうではないらしい。「妖精の愛し子」はかなり希少な存在なのだ。
普段どこで暮らしているのかは知らないが、どこかで子供が生まれたり、誰かが十六才になったりするたびに、花予見はその町の社へとやって来るという。
そんな離れ業は、普通なら不可能だ。州は広い。同じ日に子供が何人も生まれることだって十分にあり得る。早馬を飛ばしても、移動するには何日もかかる。
しかし、妖精の力だと言われれば話は別である。
社自体が出現したり消えたりするのだから、人間が一瞬のうちに場所を移動できたとしても、全く不思議ではない。
泉には大きな丸い葉がいくつも浮いており、樹は向こう岸にある。渡るには葉に乗っていくしかなさそうだ。
沈まないかとマーシャは不安になったが、おっかなびっくり足を乗せて体重をかけてみると、葉はびくともしなかった。ほっと息を吐いて、次の葉へと足を進める。
危なげなく泉を渡り切ると、樹は目の前にそびえ立っていた。切り株のような形だが、樹高は二階立ての建物くらいはあるし、幅はマーシャが両手を広げた長さの三倍以上はありそうだ。もちろん枝もあり、葉もこんもりと茂っている。森に大きな樹はいくらでもあるが、これほど存在感のある株は見たことがなかった。
幹には人が通れるほどの穴が開いている。ここから中に入るのだろう。
手に持っていたお守りの銀貨を握りしめ、マーシャは樹の洞の中へと一歩を踏み入れた。
「お……お邪魔します」
いつもの癖でつい挨拶してしまったが、それが引き金となったように洞が明るくなった。
見回すと、幹の内側にいくつものランプが点灯し、柔らかな色の光が空間を満たしている。
中央には、背もたれがある木製の椅子が向かい合う形で置かれていた。椅子の下の地面には何かの文様が描かれている。この空間にあるものはそれだけだった。
そして、こちらを向いている椅子はすでに埋まっていた。
薄いヴェールで顔を覆い、青い花の冠を被った女性が腰かけている。
身に着けているゆったりとした服は真っ白で、金色の刺繍が袖口や裾をきらめかせていた。
「……花予見、さま、ですか?」
「はい。どうぞ、お座りになってください」
明確な答えが返ってきて、マーシャは緊張で体を固くする。
初めて見た。この人が、花予見。
女性の髪は銀色で地面につくほど長く、肌の色は透けるように白い。妖精の愛し子というが、本物の妖精がいたらこんな容姿をしているのではないかと思うほど、儚げな美人だ。気配が神々しすぎて、むしろ人とは思えない。
ぎこちない動きで空いた椅子に腰を下ろしたマーシャに、女性は涼しげな声で話しかけてきた。
「名前と、花を」
「マーシャ・ガルデス。花は、ボケです」
女性は確認するように頷いた。
「よくいらっしゃいました。『ボケ』のマーシャ」
「え、あ、ハイ」
そう呼ぶのが決まりなのかもしれないが、形容詞のように使われると微妙な気分になる。幼少期にからかわれた呼称と同じだ。
だが、おかげで緊張はほぐれた。良かったのか悪かったのかよく分からない。
そんなマーシャの内心など知る由もない女性は、表情を変えることなく話を続けた。
「それでは、花予見を始めます。目を閉じてください」
「目を?」
「ええ。心を静めてもらうためです」
どのように花言葉を知るのかいささか興味はあったが、ここで花予見の言葉に逆らうつもりはない。マーシャは素直に目を閉じた。
辺りは静寂に包まれている。
聞こえるのは木々が風に揺れる音、小鳥のさえずり、ごくわずかな衣擦れの音だけだ。
かすかに漂う甘い香りがふわりと鼻をかすめる。目を閉じている分、他の感覚が鋭敏になっているようだった。
花予見は何をしているのだろう、マーシャはぼんやりと考える。
花言葉を決めるのは妖精だというが、今、この場に妖精がいるだろうか。
ここで、自分を、見ているのだろうか。
「……終わりました。目を、開けてください」
ほんの少しの間であったようにも、一晩眠って目覚めたようにも思える。
女性の声に、マーシャはゆっくりと目を開ける。先ほどと何も変わらない、仄明るい洞の景色が視界に飛び込んできた。
花予見の女性もまた、同じ姿勢のまま椅子に座っている。
だが、気のせいか。こちらをまっすぐに見つめる目に、ほんのわずかな違和感があった。
さっきまでは妖精と見間違えるほどに神秘的で、同じ人間とは思えなかった。視線を合わせても、彫像と向かい合っているような一方通行な感覚があったのだ。
けれど、今は違う。少なくとも、人と対峙している気配がする。
なんだろう。花を見ると気配が変化するのだろうか。それとも、何か変な言葉でも聞こえたのだろうか。
……そうかもしれない。
あまりにおかしな花言葉だと分かって、伝えるのをためらっているのかも。だからあの超然とした気が、揺らいでしまっているのかもしれない。
マーシャは一気に申し訳ない気分になった。
「あ、あの……私、気にしませんので。大丈夫です」
「……はい?」
「いえ、その、言いにくい言葉なのかな、と……思いまして……」
しどろもどろに言うと、花予見は黙ってしまった。
やっぱり。間違いない。これほど気を遣わせてしまうくらい、口にしにくい言葉なのだ。
兄には冗談のつもりで愚かとか鈍いなどと言ったが、そんな程度ではないのかもしれない。憎しみとか苦しみとか、絶望とか――……
「違います」
「ひょっとして死……えっ」
「違います。……申し訳ありませんでした。今から、お伝えします」
どうやら口に出してしまっていたらしい。
マーシャの勝手な想像をきっぱりと否定して、花予見は軽く顎を上げた。
「あなたの花言葉は、三つ」
「み、みっつ……?」
「はい。一つ目は、『ひとめぼれ』」
ひとめぼれ。
それは、一目見ただけで恋に落ちるとか、そういう意味の。
「……へっ?」
「二つ目は、『熱情』」
ねつじょう。
燃え滾るような強い熱意、みたいな、あの。
「え、あ、あの」
「最後は、『魅惑的な恋』。以上です」
みわくてきな、こい。
ただの恋、だけじゃなく。魅惑的な?
「う、嘘ですよね……? 誰かと見間違えてません?」
「ここにはあなたしかいませんから、間違えようがありません」
「あ、あまりにひどい言葉だったから、別の言葉に変えたとか」
「花予見は妖精王のご意思。私が偽ることは不可能です」
「でっでも、こんなの、信じられません!」
自慢ではないが、今まで恋愛らしい恋愛など経験したことがないのだ。淡い初恋くらいはあるにしても、幼い日の憧れのようなものである。
それなのに、ひとめぼれ、熱情、魅惑的な恋などと。自分とはまるっきり無縁の言葉ばかりだ。到底信じられるものではない。
「花言葉をどう解釈するかは、あなた次第です」
「解釈って……でも、これじゃ」
「あなたの花予見は終わりです。どうぞ、お帰りください――妖精王の祝福がありますように」
促されてマーシャはのろのろと立ち上がった。
どうしよう。こんなことになるなんて。
三つも言葉を授かったのに、全部自分にそぐわないものばかりだ。まだ、「愚か」や「鈍い」の方が受け入れられたかもしれない。
家族になんて言えばいいのだろう。そして、これから、どうやって生きていけば。
沈んだ気分で花予見に背を向けると、かすかな呟きがマーシャの耳に届いた。
「……せ……、か……き……」
「え……?」
小声すぎて聞き取れない。何と言ったのだろう。
思わず振り返ったが、女性の姿はもう、どこにもなかった。