Episode0 〜根の話〜
男は必死に馬を走らせていた。
外出先で聞かされた知らせに色を失い、従者と共に馬に飛び乗ったのは数時間ほど前である。目指す先は、我が家だった。
――奥様が、産気づかれました。非常に危険な状態です。
何故だ。男は思う。予定よりも一ヶ月近く早い。
男の妻は、身体が弱かった。懐妊が分かった時から、出産に耐えられない可能性が高いと医者からは言われている。
それでも、妻は産みたいと言った。普段は控えめで大人しいのに、この時だけは頑として譲らなかった。
――お願いです、あなた。
――産ませてください。せっかくこの身に宿った命なんです。
――この家の跡取りになるかもしれない、大事な子なのよ。分かってくださるでしょう?
愛する妻の懇願に、男は折れた。それからの日々は、できるだけ側にいるように心掛けていた。
身重の妻の負担を減らすため、静かな別宅を屋敷の近くに用意し、医者と産婆も住み込みで雇った。
来たるべき日に備えて万全の体制を敷いた、はずだった。それなのに。
どうしても外せない用ができてしまい、後ろ髪を引かれるような思いで家を出たのは二日前だ。
家を出る時、妻は大きなお腹を抱えてベッドに横たわっていたが、それでも笑顔を浮かべてくれた。いってらっしゃい、あなた、と。手を振って。
何故だ。男は再び自問する。何故、自分が離れている時に。
出産に際して男ができることなどほぼ無いに等しいが、だからこそ。せめて側にいてやりたかったのに。
早く、早く。妻の元へ。
焦って馬に鞭を入れた男の耳に、甲高い悲鳴が聞こえてきた。女性の叫び声だ。
「……何だ?」
一旦馬を止めて辺りを見回すと、向かう先でたむろする集団が見えた。
女性の悲鳴がまた響く。助けて、という声も聞こえる。
「あれは……追い剥ぎですな」従者が目を凝らして言う。
「女……いや、男もいるか。襲われているようです。追い払ってきましょう」
行くぞ、と仲間に声をかけ、従者は馬を走らせる。男は心持ち速度を落としてその後を追った。
急いでいるのに、よりによってこの道で追い剥ぎとは。早く片付けて、先を急ぎたいものである。
男が現場にたどり着くと盗賊の姿は既になく、地面に男女の遺体が転がっていた。
男性は胸をばっさり斬られて仰向けに倒れており、地面には流れ出た血が染み込んでいた。そのすぐ側で、女性が身体を丸めてうつ伏せになっている。こちらは背中を斬られ、事切れていた。
「若いな。夫婦か?」
「おそらくは。……申し訳ありません、少々遅かったようです。間に合いませんでした」
無念を滲ませる従者の声に、男も馬から下りた。自分とさほど変わらない年齢の、若夫婦だろう。
無残な遺体に胸が痛む。夜ならともかく、まだ日の出ている時間帯なのに。不運だったとしか言いようがない。
「近隣の町の者でしょう。町長に連絡して、弔ってもらえるよう手配しておきます。デュカス様はどうぞ先にお戻りを」
「ああ、頼む」
男が再び馬に跨がると、家の方角から蹄の音が響いてきた。
徐々に近づいてくる馬には、側近である騎士が乗っている。その表情は固く、良い知らせでないことは明白だった。
「デュカス様、ここまで来ておられましたか!」
「どうした。まさか……」
嫌な予感が背筋を駆け上がる。
騎士は顔をゆがめ、はい、と告げた。
「つい先程、リィズ様が男の子を出産されました。しかし……お生まれになった子は、息をしておらず」
「……!」
「医者も産婆も、懸命に蘇生を試みましたが……目を開けられることは、ありませんでした」
死産です。
その事実は、男に重くのし掛かった。
「……リィズは? 妻の容態はどうなんだ」
「今は何とか。しかし、お子を亡くされたことでひどく憔悴して錯乱しておられます。意識も混濁しており……医者によると、相当危険な状態だと」
「そうか……分かった。すぐに」
戻ろう、と男が言いかけた時、大きな泣き声が辺りに響き渡った。
ふぎゃあ、ふぎゃあ、と泣くその声は明らかに赤ん坊のものだ。男は面食らい、振り返った。
「何だ、どうした?」
「申し訳ありません、デュカス様」
見れば、従者の一人が弱った表情で、小さな赤子を抱き上げていた。
「この夫婦の子供のようです。母親の下敷きになっていたようで……親が身を呈して守ったのでしょう」
包まれた布は土で汚れていたが、赤子は怪我もなく無事だったらしい。わずかに生えた金の髪が、風にそよいでいる。
親が居なくなったことも知らずに泣く赤ん坊を見て、男は我が子のことを考えずにはいられなかった。
生まれてきた子も、ああして泣くはずだったのだ。自分や妻の腕に抱かれて。元気よく。
――何故だ。
何故、自分の子は逝ってしまったのか。
親を亡くしたこの子は、健やかに生きているのに。何故。どうして。
やりきれない思いで、男は赤ん坊の顔を覗き込んだ。
色白で金色の髪をした赤子は、男の顔を見てふと泣くのを止める。その目は群青に彩られ、不思議な光を湛えていた。
何かを訴えかけるような目を見て、男にふと考えが浮かんだ。
「この子は町の孤児院に預けましょう。デュカス様は早く奥様の元へ……」
「いや」
男は手を伸ばし、従者から赤子を取り上げた。ふにゃふにゃと覚束ない感触が、腕に伝わってくる。
「この子は家に連れて行く」
「は……? し、しかし」
「聞こえなかったのか。連れて帰ると言ったんだ」
主人の頑なな意思に、従者たちも騎士も目を白黒させていたが、それ以上逆らうことはしなかった。
男は無言でマントを脱ぎ、端と端を固く結ぶ。輪になったそれを首にかけると、むずかる赤ん坊を抱きこむようにしてマントに包んだ。急ごしらえだが、屋敷に着くまでくらいなら何とかなるだろう。
「行くぞ。リィズが待っている」
「……はっ、はい!」
戸惑いながらも頷く従者たちを率いて、男は再び馬を走らせた。
家に着くと、男は本宅に戻ることなくまっすぐ別宅へと向かう。赤ん坊は馬の揺れが気に入ったのか、すっかり泣き止んで指をしゃぶっていた。
急ぎ足で別宅に入ると、青ざめた表情の医者が男を出迎えた。
「も、申し訳ございません……手を尽くしたのですが」
「いい、分かっている。それより、妻は?」
「お部屋におられます。……あの、その子は?」
「後で説明する。ともかく、先に妻に会わせてくれ」
医者の案内で、男は赤子を抱いたまま妻の部屋に向かった。
「……リィズ!」
妻はベッドに横たわっていた。顔は土気色で生気がなく、唇は真っ青だ。出血が多かったのだろう、ひどく弱っているのは一目見て分かった。
それでも、男の呼びかけにゆるゆると瞼が開いた。
「あなた……?」
「ああ。私だ。すまなかった、一人にして」
額にかかる前髪をそっと除けてやると、妻は目を細めて微笑んだ。
「いいえ、お仕事ですもの。ねえ、私たちの赤ちゃんはどこかしら……?」
「……リィズ?」
「時間はかかったけれど、ちゃんと生まれたはずなのに……誰も、会わせてくれないの。ねえあなた、赤ちゃんを連れてきてくださいな。きっと、とってもかわいいわ……」
焦点の合わない目で、妻は囁くように言葉を紡ぐ。微笑を浮かべ、夢を見ているような口調で。
男は振り返り、医者と産婆を見た。二人とも、力無く首を横に振る。
死産という事実を、妻は受け止め切れなかったのだ。衝撃のあまり錯乱し、幻を見ることでぎりぎり精神を保っているのだろう。
男はマントをほどき、赤子を抱き直した。
すまないな、亡くなった我が子に詫びる。お前のことも、後でちゃんと抱きしめてやるからな。
「リィズ。……ほら、この子だ」
差し出された赤ん坊に、妻は目を見開いた。
力の抜けた手が、そろそろと持ち上がる。血の気が失われた頬に、ほんのりと朱が戻ってくる。ああ、と声が漏れた。
「私の……私たちの、赤ちゃん?」
「ああ、そうだ。お前が頑張ってくれたから、こうして無事に生まれたんだ」
この罪は、嘘は、すべて自分が背負おう。
だから、どうか、どうか。
「見ろ、男の子だぞ。リィズ、お前は跡取りを産んだんだ」
「ああ、かわいい……私たちの、私の、赤ちゃん……」
「一緒にこの子を育てていこう。だから、早く元気になってくれ」
「かわいい……ああ、あなた、良かった……」
涙を流してかわいい、かわいいと繰り返す妻の手を握り、男は必死に言葉をかける。妻の命を、繋ぎ止めるために。
「元気になったら、また庭に行こう。お前の好きなイチゴを、三人で食べるんだ」
「ええ、ええそうね、あな、た……」
しかし、妻の手からはどんどん力が抜けていく。瞼も、次第に落ちていった。
「リィズ……? リィズ、しっかりしろ!」
「あなた……デュカス、その、子を……どうか」
「リィズ!! 目を開けてくれ、リィズ……!!」
――愛して。私の、分まで。
囁くような言葉を最後に、妻の呼吸は止まった。
最愛の妻を亡くしたデュカス・ラドフォードが、赤子を実の子として公表したのは、その数日後のことである。
事情を知る医者や産婆、従者たちには厳重な口止めがなされた上でのことだった。臨終に立ち会って一部始終を見ていた者たちは、何も反論することなく、主人の望みを受け入れた。
夫人の逝去を悼みつつも、跡取りとなる長男の誕生は、伯爵家を沸かせた。
――そして、後日。
赤子のおくるみに括りつけられていた小袋から、作られたばかりのブルーベルの銀貨が出てきた。あの若い夫婦は、子のお守りを受け取りに行った帰りに、凶行に遭ったらしい。
それを元に花予見の記録を当たったところ、男児にはまず付けられることのない印が記されていたのを、デュカスは見つけることになる。
「……花予見、だと? この子が?」
信じられない思いで、デュカスはすやすやと眠る赤ん坊を凝視した。
花予見といえば女だと決まっている。男、しかも赤子の時点でこの印がつくのは前代未聞だ。おそらく、国にも報告が行っているはず。
デュカスは顔をしかめた。この子を実子として育てていくのは、思ったより難儀そうだ。
両親と共に、盗賊に遭って亡くなったと報告すればひとまずは大丈夫だろう。だが、問題はその先である。男児に花予見の力があると分かれば、間違いなく国は引き渡せと言ってくるだろう。
そうはさせない。この子は、自分と妻の子だ。
あの時、妻に告げた責任はきっちり取る。妻は最期まで、この赤ん坊を実の子だと信じて、亡くなったのだ。
「……心配するな、リィズ」
この子は、自分が立派に育ててみせる。
赤ん坊のすべすべした頬をぎこちなく撫でて、デュカスは亡き妻に誓った。
――やがてアルヤと名付けられたその子が、幼くして花予見の能力を示すようになるまでには、あと数年の歳月が必要だった。
〈了〉
 




