17 花が咲いたら
明るく降り注ぐ日差しに、マーシャは額の汗を拭った。そろそろ、季節が移り変わろうとしている。庭の緑も、随分と濃くなった。
この庭は風通しがあまり良い方ではない。熱がこもりやすいので、暑さに弱い花たちは辛いだろう。これからはいっそう、水やりをしっかりしなければならない。
庭に植えられていたエビネはやはり病に罹ってしまっていたため、父からもらった株を水苔に植え付けて小苗を育成するつもりでいる。来年はぜひ咲かせたいところだ。
イチゴは少しだけ実ったが、受粉が遅かったためやはり数は少なく、伯爵夫人のお墓に供える分を収穫するのがやっとだった。こちらも来年に期待しよう。株は新しく植え直すことにしている。
アルヤの花ブルーベルは、今は植える季節ではない。もう少し涼しくなったら、球根を手配してもらうことになっている。
それと、伯爵の花であるタチアオイ――「元」の花と言うべきかもしれないが――は、先日種を蒔いた。来年の今頃には、咲いてくれるだろう。
「うん。……来年は、賑やかになりそう」
想像すると楽しくなり、マーシャは一人で笑った。
それにしても、今日の日差しは特に強い。そろそろ少し休憩でもしようか。
水分を取ろうとマーシャが立ち上がった時、音を立てて扉が開いた。
「やぁ、マーシャ。捗っているようだな」
「アルヤ様? 今日はお出かけのはずでは……」
確か、伯爵と共に外出の予定があると言っていた。もう帰ってきたのだろうか。
「さっき戻ったんだ。休憩するなら、一緒にお茶でもどうだ?」
綺麗になったテーブルを指差して言うアルヤに、マーシャはため息をついた。本来なら、遠慮しますと言うべきなのだが。
「……少しだけでしたら」
「まぁ、そう言うな。たまにはゆっくりするといい」
「たまにはって、ほぼ毎日来られてるじゃないですか……」
断ってもどのみち押し切られてしまうのだから、無駄な抵抗というものである。
肩を落とすマーシャに、アルヤはいつもの笑顔を向けた。
「愛しの婚約者殿の顔を見に来て悪いか?」
「ですから! それは作り話でしたよね?!」
やめてください、誰が聞いているか分からないんですよ! と憤るマーシャに、アルヤは声を立てて笑った。
――この庭で、初めて伯爵と話した日。
マーシャは意識こそ失わなかったものの、ひどく疲弊してしまい、アルヤによって早々に部屋へと送り届けられた。そのままベッドに倒れ込み、翌朝までぐっすり眠ってしまった。
そして、翌日はネストールとセルジュがわざわざ部屋までやって来て、伯爵とアルヤが揃って墓地に出かけたと聞かされた。
「ありがとう、マーシャ。君のおかげだよ。辛い思いをさせて本当にすまなかった」
「ああ。オレたちだけじゃ、アルヤを止められなかった」
二人に頭を下げられ、マーシャは慌てた。
「いえ、私は何も……むしろ、領主様に無礼なことを申し上げてすみませんでした」
「いやいや、アルヤから聞いてるよ。伯爵に新たな『花』を咲かせたそうだね」
「『妖精の輝き』……アルヤの言う通りだったんだな。正直、オレは半信半疑だったんだけど」
頭を掻いて「ごめんよ」と謝るセルジュに、マーシャは首を振った。無理もない。当の自分でも信じられなかったくらいである。
「……アルヤが言っていたよ。君の目が金色に輝いた後、伯爵にイチゴの花が咲いたのが見えたと。新しい花言葉も聞こえたそうだ」
「すごいよなぁ。オレたちも見てみたかったぜ」
「き、金色……自分では全然分からないんですけど……」
追い剥ぎに遭った時と異なり、今回は多少記憶に残っているが。あの時伯爵と言葉を交わしたのは、自分であって自分ではないようだった。例えるなら、自分の身体を借りて誰かが喋っているような。
そして、元の感覚に戻った時の強い疲労感。「妖精の輝き」とは、一体何なのだろう。未だによく分からない。アルヤが言うなら「花」は確かに変化したのだろうが。
「……伯爵とアルヤが一緒にリィズ様のお墓に行くなんて、子供の頃以来じゃないかな」
ネストールの表情は柔らかい。そうだな、と相槌を打つセルジュも清々しい顔をしていた。
「あの墓にはリィズ様と、伯爵の『本当の子供』が眠ってるんだってさ」
「本当の子供……死産だったという?」
「ああ。存在を消されてしまった子だな。でも、伯爵はちゃんと名前を付けて母親の隣に葬ったらしいぜ。アルヤも昨日、初めて聞いたらしい」
アルヤが連れて来られたことで、存在を消されてしまった子。伯爵はその子のことをちゃんと覚えていたのだ。
「本当に……最初からアルヤ様を利用するつもりだったんでしょうか」
「……それは、伯爵ご本人しか分からないことだね」
ネストールの言葉に、マーシャは頷く。
アルヤはそう信じているし、伯爵が真実を口にすることは、これからもきっとないのだろう。
でも、それでいいのかもしれない。
伯爵は新たな花を得た。アルヤはそれを受け入れた。今までの行為を許したわけではないにせよ、彼の心は落ち着く場所を見つけたのだろう。でなければ、共に墓参りには行かないはずだ。
「ま、ともかく」セルジュが明るい声で言った。
「これで、マーシャは晴れてこの家の『花守』になれるわけだ。改めて、よろしく頼むな」
「あっ、はい! よろしくお願いします」
「僕らは毎日ここに来るわけではないけれど、何かあったら相談に乗るよ。いつでも頼ってくれていい」
ネストールの優しい言葉に、マーシャは「ありがとうございます」と頭を下げた。
その翌日、マーシャが「花守」として、ラドフォード家に雇われることが正式に決定した。
――それから約一ヶ月が経つ。
アルヤは庭に足しげく通ってくるし、伯爵も時折ふらりと現れるようになった。一緒に来ればいいのに、とマーシャは思うが、まだそこまではいかないらしい。長年のわだかまりというのは難しいものだ。
日陰になっているテーブルでお茶を飲みながら思案していると、アルヤが「ところで」と問いかけてきた。
「そろそろ、屋敷には慣れたか?」
「はい。良い方ばかりです」
何の前触れもなく雇われた新米「花守」を、伯爵家の人々はおおむね好意的に受け止めてくれたようだった。執事やメイドはもちろん、最近は表の庭園の庭師たちとも交流している。
イヴァンもまた、すれ違えば挨拶くらいはしてくれる。無口なのは変わらないが、向けられるまなざしは多少柔らかくなったように思う。
何しろ今残っているのは、アルヤの花予見というお眼鏡にかなった人たちだ。気の合う合わないは別として、基本的に悪い人間はおらず、勤勉で誠実な人が多い。疑わしい芽は早々に摘み取るという伯爵の方針は、それなりの効果はあったらしい。
とは言え、残った人たちもいつ解雇されるか分からず緊張を強いられていたようなので、やはり良いやり方とは言えなかったようだが。
家族には時々無性に会いたくなるが、今は部屋に飾った次兄の絵葉書を見ることで慰められている。父に聞きたいこともあるし、もう少し落ち着いたら手紙でも書こうとマーシャは思っていた。もちろん、親友のモナにも。
マーシャの答えに、アルヤは安堵の表情を見せた。
「そうか。それなら良かった」
「あの、国からの追手は……?」
「今のところは来ていないな。だが、諦めたわけではないだろう。どういう手で来るか……こればかりは俺にも読めない」
「そう、ですか……」
「安心しろ。君を国に渡すつもりは全くない」
きっぱりと言い切って、アルヤは紅茶のカップを置いた。
「俺はあの日、君の力を目の前で見た。父に新たな『花』が咲くのをな。花予見の俺が言うのも何だが、信じられない光景だった」
「……自分でもまだ信じられません。私の目が金色になるって、本当ですか?」
「間違いない。あの追い剥ぎの言う通りだった」
アルヤの言葉は確信に満ちていた。
「あの時の君は、およそ人間には見えなかった。身体が光に包まれて、目が金色に変わっていたからな。後で確認したら、父も同じものを見ていたよ」
「では……私のことは、領主様もご存知なのですか」
「ああ、話しておいた。驚いてはいたが、実際に君の力を目撃した以上、信じないわけにはいかなかったようだな。国に引き渡しを求められても応じないと了承してくれた。もちろん、利用したりもしないと」
――愛し子の力は、人を狂わせる。
伯爵はそう言っていたと、アルヤは語る。
「俺のことがあったから、あの人も自覚しているんだろう。強い力は、人を惑わせるんだ。それを分かっているからこそ、国は君を捕らえようとしている。誰かに悪用される前に」
「悪用……」
「そういう輩は確実にいるんだ。……俺がそうだったようにな」
アルヤは自嘲気味に笑った。
「しかし、だからと言って存在自体を消そうとするのは違う。そうだろう?」
「……!」
「君は確かに『妖精の輝き』を持つが、それが君の全てではない」
庭仕事で汚れたマーシャの手を、アルヤがそっと握りしめた。
「花はボケ。花言葉は『ひとめぼれ』『熱情』『魅惑的な恋』。『妖精の輝き』を持ち、普段からうっすらと光をまとっている――というのが、花予見から見た君の姿だ」
「……普段から? えっ、そうなんですか?」
「ああ。俺はそれで君を見つけたからな。まぁ、通常の光はかなり淡い。見分けるのに時間がかかって、君の友達には怪しまれてしまったようだ」
そういえば、かなり長いことマーシャを見ていた、とモナは言っていた。彼女の直感は正しかったらしい。
「花の名前でからかわれてきたから、自分の価値を低く捉えがちだ。だが、良い友達がいる。両親と二人の兄もいて、皆から大事に思われている。仕事熱心で、働き者で……人に優しい」
「……アルヤ様」
「悪い面より、良い面を見ようとする。大人しそうに見えて、結構行動力がある。あとは……少々思い込みが激しい。それと鈍い」
「えっ、それって要するにボケてるってことですよね……」
褒め殺しされたかと思えばいきなり貶された。どう反応したら良いか分からないマーシャに、アルヤは「まぁ、それはともかく」と続けた。
「俺は下手に花が見える分、つい、それに引きずられてしまうようだ。見えないものの中にも大事なものがあることを……君に会って、思い出した」
――見えない部分をおろそかにするな。
父の言葉が頭をよぎる。ああ、確かにその通りだった。
握られた手に、強い力が込められた。
「国が君を消そうとするなら、俺は全力で君を守る。……もう二度と、君に嘘はつかない」
「アルヤ様」
「だから、ここにいてくれ。ずっと」
最初に聞いた話は嘘だらけだった。傷ついて、苦しんで、それでもなぜかこの人を嫌いにはなれなかった。
正直なところ、ここまで付いて来た理由は自分でもよく分からない。モナが言うように、押しに弱いだけなのかもしれない。
でも、この運命を受け入れたのは自分だ。
授かった花言葉の意味は今もやっぱり分からないけれど、彼の口走った「ひとめぼれ」から全てが始まったことを思えば、あながち間違いでもなかったのかもしれない。だから。
「はい。私はずっと……この庭を、守ります」
だって、ここは幸福の箱庭で。
――私は、この家の花守になったのだから。
「……これでも駄目か。相当だな」
「はい? 何がですか?」
「いや……まぁ、今はそれで良しとしよう」
〈了〉
本編はここで一旦区切りです。読んでくださった方、評価やブクマを付けてくださった方、ありがとうございます。
明日、番外編を2編付け加えて完結としたいと思います。
続編も書く予定です。よろしければ、また読んでいただけると嬉しいです。




