16 花は綻ぶ
奥庭は、宿屋の庭の二倍ほどの広さだった。四方を屋敷の壁に囲まれていることもあり、表の庭園に比べると随分こじんまりとして見えた。
屋敷の中の豪華さに比べると、ここは素朴な家庭の庭といった風情である。まるで別世界のようだ。
石畳が敷かれている地面と花壇は一応区切られているが、雑草があちこちに茂っており、境界は曖昧になっている。
ティータイム用に置かれているのだろうテーブルと椅子も、薄く汚れて葉っぱが積もっていた。長らく使われていないのを物語っているかのようだ。
「荒れているだろう?」
「そうですね……でも、思っていたほどではないです」
マーシャは庭をぐるりと見回した。
何年も前から手入れされていないと聞いていたので、もっと雑草が繁茂して収集のつかない状態になっているかと思っていた。が、予想していたほどではない。これなら、さほど時間をかけずに元に戻せそうだ。
しかし、伯爵の花であるタチアオイや、アルヤの花であるブルーベルは、イヴァンの言ったとおりどこにも見当たらない。どちらも比較的育てやすく、庭師が手入れをしていれば毎年咲かせるのは難しくない花である。
ブルーベルは植えっぱなしでも数年は咲く。タチアオイはまだ開花の時期ではないが、茎が結構な高さまで伸びるので、生えていれば今の時点でも分かるはずだ。けれど、この庭にはどちらの気配もない。
「アルヤ様は、時々こちらに?」
「たまにな。散歩と言うか、様子を見るだけだが」
「じゃあ、エビネの話は」
「……根付かないのは本当だ。花守がいなくなってから、咲いているのを見たことはない」
気まずそうに話すアルヤに、マーシャは苦笑した。今更咎める気にもなれないが、彼自身がどうにか根付かせようと奮闘していたというわけではないらしい。自分や父の同情を引くために大袈裟に言ったのだろう。
「領主様とアルヤ様の他に、ここに来られる方はおられるのですか?」
「どうだろうな。時折、召使いの誰かが草むしりくらいはしているかもしれないが……見ての通り、この有様だ。昔はもっと花が咲き乱れていて、綺麗な庭だったんだがな」
アルヤは懐かしむような目で庭を見る。
マーシャは花壇に近づき、しゃがみ込んだ。ヨモギやドクダミが旺盛に生えているところを見ると、確かに専門家――花守の手は入っていないのだろう。
だが、この庭がすっかり打ち捨てられていたかと言えば。答えは否だ。
「……少なくとも、全く手が入っていないわけではありません」
「何?」
「庭全体としては確かに荒れていますが、所々に手入れの跡があります。完全に放棄されていたわけでは、ないと思います」
マーシャは草をかき分け、緑の葉をアルヤに見せた。
「見覚えがありませんか、アルヤ様」
「ん? その葉は……」
「――それは、儚い花だ」
背後から低い声がした。
マーシャは急いで立ち上がり、頭を下げる。
「お許しください。勝手な真似をしました」
「いや、構わん」
声の主は伯爵だった。庭全体を眺めつつ、ゆっくりと歩きながら近づいてくる。
その姿を見て、マーシャの推測は確信に変わった。
「――ひとつ、伺ってよろしいでしょうか」
「なんだ。言ってみろ」
「この庭を手入れされていたのは、領主様ですね?」
伯爵はしばらく黙って二人を見つめ、マーシャの手元に視線を移した。
「手慰み程度だ」
「……父上が? 一人でここを?」
ひどく意外そうにアルヤが言った。伯爵がここを訪れることはあっても、まさか手入れをしているとは思っていなかったようだ。
マーシャは手元の花壇を見る。日が控えめに当たる場所。周囲よりも比較的草が少ないそこには、いくつもの緑の葉が、まるで小さな噴水のように土から飛び出している。
――エビネだ。
花はひとつも咲いていないが、その株は確かにエビネだった。葉は新鮮で瑞々しい。おそらく、最近仕入れて植えた株だろう。
「……花とは、難しいものだ」伯爵がぽつりと言った。
「エビネは毎年株を新しくしても、咲かずに枯れる。新芽がついても、腐って落ちてしまう」
「病に罹っているのです。一度、土ごと入れ替える必要があるかと思います」
伯爵は何も言わなかった。
マーシャは隣の花壇に目をやる。控えめに咲く白い花が、草の間から見えていた。
これと同じものを、マーシャは宿屋の庭で育てていた。今頃、あの花はどうなっているだろう。実を結ぶには少し早いが、元気に育ってくれているだろうか。
「……イチゴも育てておられたのですね」
「妻が好きだった」
いつの間にかマーシャの隣にやってきた伯爵が、ぽつりと零した。
「奥様が……?」
「あれは庭が好きで、花が好きだった。身体が弱く外出も難しかったから、この庭で花を育てるのが唯一の楽しみだったようなものだ」
リィズ・ラドフォード。出産で命を落としたという、伯爵夫人。彼女はここで手ずから花々を育て、愛おしんだらしい。
その時、若き伯爵もきっと、妻の隣にいたのだろう。
「自分の花はもちろん好んで育てていたが、イチゴも気に入っていた。花も実も可憐だからと」
「それで……今も、植えてあるのですね」
「だが、まともに実をつけたことはない。花は咲いても――それで、終わりだ」
淡々とした口調の中に、抑えきれない無念が交じっているようだった。
この庭に来てみて、はっきりと分かった。伯爵は、亡き妻を――リィズ伯爵夫人を、心から愛している。
亡くして十八年経った今も、妻の花であるエビネや、妻が好きだったというイチゴを植え続け、ひそかに育てようとしていたほどに。
ここは……この場所は、伯爵家の思い出と幸福が詰まった、夢のような箱庭だったのだ。
アルヤは伯爵を非難していた。生まれ持った力のために親を殺され、実子として育てられ、花予見の力を利用され続けてきたと。それが彼にとっての真実だ。
では、伯爵の真実は何なのだろう。
彼が本当に欲したものは。失いたくなかったものは――……
「領主様」
ふわりと立ち上がり、マーシャは伯爵と視線を合わせた。視界の端で、アルヤが驚いたように目を丸くしたのがちらりと見えた。
伯爵の濃紺色の瞳が、わずかに揺れる。そのまなざしに、マーシャは深い悲しみを見た。
十八年経った今も、この人は未だ癒えない悲痛の中にいる。
「奥様を、今も愛しておられるのですね」
最愛の妻と、生まれるはずだった子供を同時に亡くしたという事実。
それが、彼の何かを大きく狂わせてしまったのだろう。
アルヤを連れてくるに当たっては、周到な計画が練られていたのだと聞いた。
でも、マーシャは思う。もしかしてそれは、衝動的な行動だったのではないか、と。
愛する家族を亡くし、自暴自棄になりかけた時――妻にどこか似た赤子を見つけて。つい連れて帰ってしまったという可能性も、あるのではないだろうか。彼の持つ能力については、知らないまま。
もちろん、だからと言って許されるわけではないし、その後アルヤの力を利用する方向に舵を切ってしまったのは事実だろうが。
「イチゴは受粉させれば、実が生ります」
「受粉? その作業が必要なのか」
「はい。ここには蜂が来ないと思いますので。人の手入れが必要なんです」
見たところこのイチゴの株は健やかで、丈夫そうだ。時期は少し過ぎているが、今から受粉させても多少は実をつけてくれるかもしれない。
「エビネは鉢植えの方がよろしいかと。土を入れ替えて、健康な株を植えましょう。そうすれば、きっと来年は咲きます」
「……そうか」
「領主様。奥様は、とても喜んでおられたと思います」
随分と不遜なことを言っている自覚はあったが、口からはするすると言葉が出てくる。
伯爵の目が、大きく見開かれた。
「亡くなった後も、自分の花や気に入った花を植え続けてくれている。忘れずにいてくれる――そこまで想ってくださる方と過ごした日々は、きっと幸せだったはずです」
「……だが、短すぎた。儂が、あれの命を縮めた」
「では、領主様は、幸せではなかったのですか」
とんでもない物言いだ。一介の町娘が伯爵に向ける言葉ではない。
しかし伯爵は怒らなかった。場に呑まれてしまったかのように、マーシャを眺めて呆然としている。
「たとえ短くとも、奥様と共に過ごした日々は、領主様にとっても幸福だったのではありませんか」
「……それは」
「深い悲しみは、幸福の裏返しです。思い出してください、在りし日の『幸福な家庭』を」
伯爵が息を呑んだのが分かった。
マーシャは見つめる。ただ、見つめ続ける。タチアオイの花を持つ、威厳に満ちた領主を。
愛する妻と子を亡くし、孤独に苛まれ続けた一人の男性を。
「領主様――カリヴィス伯爵。どうか、思い出してください」
――お願い、咲いて。
咲かせて。花を咲かせて。
「奥様を亡くされたのは悲しいことですが、あなたにはお一人ではありません。まだ、ご家族がおられるでしょう?」
「……家族、だと?」
「ええ。ほら、そちらに」
――妖精王に愛された、立派なご子息が。
マーシャはにっこりと笑う。
視線の先には驚愕の表情を浮かべたアルヤがいた。
伯爵が数回、ゆっくりと瞬きをした。
ああ、開いた唇からため息のような声が漏れる。
「アルヤ」
それは、威厳ある領主としてのものではなく。一人の父親が、息子を呼ぶ声だった。
そうして、たった一言。
「……すまなかった」
こぼれた謝罪の後、長い沈黙が落ちた。
やがて、アルヤが「父上」と呼びかける。
「イチゴは俺も好きです」
「……そうか。知らなかった」
「実ったら、母上の墓前に供えに行きましょう――あなたに、新しく咲いた『花』ですから」
きっと、母上も喜ばれますよ。
息子の穏やかな言葉に、領主がゆっくりと頷く。
憑き物が落ちたような表情だった。




