14 花の到着
伯爵家の屋敷は予想より遥かに大きく、広かった。
まず、正門から館までが遠い。いかめしい造りの黒い門をくぐると、左右に広大な庭園が広がっていた。これがアルヤの言う「表の庭園」なのだろう。
植木は綺麗に整えられ、季節の花が地面を彩っている。道も今までの悪路とは異なり、すべて平らに整地されていた。
「どうした、庭が気になるか?」
話しかけられてマーシャは振り返る。結局、最後までアルヤと同乗することになってしまっていた。
「ええ、まぁ。本職ですから」
「そうか。あとで案内してやろう」
「あ……ありがとうございます。でも、お時間のある時で大丈夫ですので」
過剰に拒むと逆効果であることを道中で学んだマーシャは、当たり障りのない答えを返す。アルヤは「ほう」と相槌を打った。
「時間は作るものだ。というわけで、明日にでも案内するとしよう」
「どうしてそうなるんです?!」
やっぱり、口ではとても彼に敵いそうにない。額を押さえてマーシャは唸った。
逃走騒ぎを起こした町から伯爵家まではおよそ半日の道のりだったが、なぜかあれから襲撃を受けることはなかった。
もしやあきらめてくれたのか、と希望的観測を口にしたマーシャに、アルヤは「それはない」と断じた。
「あと少しで領主の直轄地に入るからな。あまり大きな騒ぎは起こしたくないんだろう」
「国の追手がそんなこと気にするんですか?」
「国だからこそ、だな。国と領主の力関係はなかなか複雑なんだ。もちろん、表面的には国王が上だが、実務的なことは全て領主が行っている。その力は、時に王を上回ることがある」
要は変に揉め事を起こすと面倒なことになりかねない、ということらしい。よく分からないが、それで襲撃から逃げ切れたのなら、結果的には良かったのかもしれない。
「領主様の屋敷に匿われたら、たとえ国の追手でもなかなか手が出せなくなるからね」
アルヤの隣に馬を並べて、セルジュが笑った。
「まして、きちんとした職業として雇った、という建前があれば尚更だ。今までのような野盗を装った襲撃はまず無理だよ」
「そうなんですか……」
「だからと言って、『妖精の輝き』を引き渡せ、とは言えないわけだ。なあ、アルヤ」
「ああ、その通りだ」
アルヤがセルジュに同意する。
「花予見と違って、『妖精の輝き』の存在を国は認めていない。だから、正面切って引き渡せとは言えないんだ。それでは存在を認めたようなものだからな」
「……いないものを渡せとは言えない、ということですね?」
「そういうことだ。まぁ、だからと言って簡単に引き下がりはしないだろうが……屋敷にいれば、当面は安心と言っていいだろう。もちろん、君にもそのうち護衛は付ける」
「ご、護衛?! 私に?!」
思わずイヴァンに視線を向けてしまったのを、アルヤは目ざとく見咎めたようだった。
「言っておくが、イヴァンは俺の護衛だからな。頼まれても君には付けないぞ」
「分かってますよ。大体、そんなことイヴァンさんが了承するわけないですし」
「そういう問題ではないんだが……まぁ、いい」
「おーいアルヤ、顔が怖いぞー。程々にしとけよ」
「うるさいぞセルジュ。ネス、こいつを黙らせてくれ」
からかうようなセルジュの言葉に、アルヤの機嫌が目に見えて悪くなる。後ろから馬を進めてきたネストールが、「仕方ないなぁ」とセルジュの相手を務め始めた。
「……あの。何か怒ってます?」
「怒ってない。呆れているだけだ」
「はぁ……そうですか」
どう見ても怒っているようにしか見えないが、マーシャはそれ以上深追いはしないことにした。
庭園を抜けてようやく屋敷の入口にたどり着くと、アルヤたちは馬から下りた。豪奢な扉の横には、伯爵家の花であるクンシランの鉢植えが美しく飾られている。
待っていた執事らしき男性が、頭を下げて出迎えた。
「お帰りなさいませ、アルヤ様」
「ああ。父はいるか? 来客の予定は?」
「執務室におられます。今日は、どなたとも会うお約束はされておりません」
「そうか、丁度いいな」
いかにも貴族と執事といったやり取りを見て、アルヤが本当に領主の跡取り息子であることを実感する。なんだか、急に遠い人になったような気がした。
けれど、これが本来の距離だ。こんな事態にならなければ、きっと一生話すことさえなかったはずの人だった。
誕生日を迎え、花言葉に一喜一憂していたのはほんの数日前なのに、遥か昔のことのように思える。
自分の世界は一変した。そして、時計の針は戻らない。前に、進むしかない。
神妙に佇むマーシャを見て、執事が軽く首を傾げた。
「アルヤ様、こちらのお嬢様は?」
「ああ、新しい花守だ。ポロスで見つけて連れてきた。父に引き合わせた後、住み込みで働いてもらう」
「マーシャ・ガルデスといいます。花はボケです。よろしくお願いします」
「……さようでございましたか」
初老の執事は驚いたようだったが、さすがと言うべきか落ち着いている。深くは追求せず、冷静に対応を続けた。
「では、部屋を用意させましょう。奥庭に近い方がよろしいですな」
「ああ、頼む。とりあえず、今から父に会わせて来る」
「畏まりました」
話しながら屋敷の中に入っていくアルヤの斜め後ろを、マーシャは黙って付いて行く。イヴァンは屋敷に入らず厩へ向かったが、セルジュとネストールは一緒に来てくれた。
当たり前だが、おそろしく豪華なお屋敷だ。建物には歴史を感じさせる重厚感があり、美しい壁紙や絵画が飾られて非常にきらびやかである。天井から釣り下がるいくつものシャンデリアを見ても、埃っぽさは微塵もない。
「どうやって掃除するのかな……」
「ん? 何がだい?」
「あっ、いえ! 何でもありません!」
独り言をネストールに聞かれてしまい、マーシャはへらりとごまかし笑いを浮かべた。
浮かぶ疑問が我ながら庶民的すぎる。分かってはいたが、どうにもこの建物に自分は不釣り合いだ。
途中、壁にかけられた大きな絵に目が吸い寄せられた。
金髪の細面で、薄紫色の瞳。繊細な雰囲気の漂う、若い女性の肖像画だ。
マーシャは思わず足を止める。この人は、もしや。
「リィズ様だよ」ネストールが教えてくれた。
「亡き伯爵夫人だ。お綺麗な方だろう?」
「はい……とても」
この方が、エビネの花を持つ伯爵夫人。
どこか、アルヤに似た雰囲気を感じるのは気のせいだろうか。血の繋がりはないはずなのに。
「皮肉な話だよな」セルジュがぽつりと零した。
「もし、アルヤが金髪でなかったら。もし、少しもリィズ様に似てなかったとしたら……」
それ以上は言わず、セルジュは軽く肩をすくめた。
――目的の人は、屋敷の奥の一室にいた。
カリヴィス伯、デュカス・ラドフォード。
このカリヴィス州の領主にして、伯爵の位を与えられている、唯一の人。
「父上。今よろしいですか」
「……アルヤか。入れ」
扉をノックしたアルヤが声を掛けると、気怠そうな返事が聞こえた。
失礼します、とアルヤは扉を開け、マーシャを振り返った。さぁ、と促される。
マーシャはぐっと唇を噛み、胸の前で両手を握りしめた。
とうとう来てしまった。こんなところまで。
騙し討ちのような形で家から連れ出されたのは事実だが、最終的にここに来ることを選んだのは――アルヤの手を取ったのは、自分だ。
力のことはまだ、よく分からない。「妖精の輝き」であるという自覚も、ない。けれど。
――これが、妖精王のお導きならば。
私は、ただ、与えられた役目を果たすのみ。
腹にぐっと力を込め、マーシャは伯爵のもとへと歩みを進める。扉を押さえたアルヤが、ふっと目を細めたのが見えた。
覚悟を決めたつもりでも、緊張で動きがぎこちなくなってしまうくらいは許してほしかった。




