13 花と決意
皆が出て行った後、マーシャはひとしきり泣いてそのまま眠ってしまった。次に目覚めた時には、すでに夕日が差し込んでいた。
子供みたいな癇癪を起こしてしまったな、と今になって反省する。アルヤたちのやり方には同意できないが、彼の境遇に同情する気持ちはある。
両親を殺され、伯爵家に連れて来られた挙げ句その力を利用され続け、自分の力が原因でどんどん人が居なくなっていく。それがどれほど辛いことか。
非の打ち所のない人間などいない。誰にでも長所があれば短所もある。
悪いところばかりをあげつらって人を遠ざけていけば、孤独に苦しむことになるだろう。伯爵のしていることは、いずれ自らを不幸にする道だ。
「……でも、だからって殺すのは駄目よね」
マーシャは自分の独り言に頷いた。綺麗事かもしれないが、殺人を正当化することはしたくない。どんな理由があろうとも。
ベッドから下りて備え付けの鏡を見ると、目の下がひどく腫れている。
あれだけ泣けば仕方ないかもしれないが、とても人目に晒せる顔ではなかった。ともかく、顔を洗いたい。
洗面所は部屋の外にある。マーシャはタオルを掴んでそっと扉を開けた。
「……おい」
「ひぃっ! ……っい、イヴァンさん?!」
扉の脇に座り込んでいたのはイヴァンだった。鋭い目つきで見上げられ、思わず身体が竦む。どうしてこんなところにいるのだろう。
「あの……見張ってなくてももう逃げませんよ、私」
「前科がある」
「うっ……そ、その節はご迷惑を」
「その話はやめろと言っただろう」
きつく睨まれてしまい、マーシャはまた「ごめんなさい……」と謝った。
「……顔を洗いたいんですけど」
「好きにしろ」
顎で洗面所を示され、マーシャはそそくさと部屋を出た。背中に視線を感じながら顔を洗う。会話が成立するようになったのは喜ばしいが、これほど見張られているとまるで囚人にでもなった気分だ。
居心地の悪い思いをしながら顔を拭って戻ってくると、イヴァンがぽつりと零した。
「……祖父は、別に伯爵を恨んじゃいなかった」
「えっ? お祖父さん……?」
先程の話を思い出す。アルヤの花予見によって伯爵家を追い出されたという、イヴァンの祖父。先代の花守のことか。
「もういい年だったからな。むしろ、今まで働かせてもらえたことに感謝していた。それから半年くらいで亡くなったが、死因は老衰だ。解雇されたことは関係ない」
「そうなんですか……」
「だが、アルヤ様にそう言っても、伝わらなかった」
――そんなわけがないだろう!
アルヤの叫び声が聞こえた気がした。確かに、彼ならそう言って否定しそうだ。
イヴァンの口数が少ないせいもあるだろうが、アルヤもまた自らの思考に囚われていたのだろう。伯爵が花予見を絶対の基準にしてしまったのと同じように。
「イヴァンさんは……私を逃しては、くれませんよね」
「言っただろう。次はない、と。……それに」
「それに?」
イヴァンは少し目を細めてマーシャを見た。
「祖父が死んで、あの庭も死んだ。エビネもそうだが、伯爵の花も……アルヤ様の花も、咲かなくなった」
「アルヤ様の、花……」
伯爵の花はタチアオイだと聞いたが、彼自身の花はそういえばまだ聞いていない。
「……何の花か聞くことは、失礼には当たりませんか?」
「聞くのはお前の勝手だ。言うか言わないかはアルヤ様が決める」
つまり、聞いてもいい、ということだ。
持っていたタオルを握りしめて、マーシャは頷いた。
「ありがとう、イヴァンさん」
夜になって部屋を訪れると、アルヤは少し驚いた顔を見せたが、何も言わず招き入れてくれた。
「……ネストール様とセルジュ様は?」
「今は別室にいる。呼んだ方がいいか?」
機嫌を伺うような物言いに、マーシャは「いえ」と首を振る。
「アルヤ様とお話がしたいので」
「……分かった。聞こう」
勧められた椅子に腰掛けると、マーシャはおもむろに切り出した。
「あの。アルヤ様の『花』を聞いてもいいですか?」
唐突な質問に、アルヤは面食らった顔になった。
「花? 俺個人としての、か?」
「はい。伯爵家の花がクンシランなのは伺いましたが、アルヤ様にも『花』がありますよね」
アルヤはしばし黙ったが、やがて上着のポケットに手を突っ込み、一枚の銀貨を取り出した。
「……これは」
「俺の『花』だ。ブルーベル、という」
「ブルーベル……」
見せられた銀貨には、釣鐘のような形の花が連なって咲く様子が彫られている。確かに、ブルーベルだった。集団で咲くと青い絨毯のようになる、幻想的な花だ。
「この銀貨は、伯爵が?」
「いや、違う」
銀貨を指でつまみ、アルヤは苦笑した。
「俺は、連れて来られた時には既に花予見を終えていた。だからこれは、本当の親が拵えたものだ」
「本当の親……では、形見のようなものですね」
「そういうことになるな。……因みに、花言葉は受け取っていない」
花予見を受ければ、アルヤの能力は国に知られてしまう。伯爵はそれを恐れて記録を書き換えた。十六才の花予見を、実際には受けていないのに受けたことにしてしまったのだという。
「花予見の記録は通常、領主を通してから国に報告される。『花予見』や、君のような『妖精の輝き』を見つけた場合を除いて、国に直接連絡が行くことはない。領主なら、書き換えるのは難しくないだろうな」
「それで、記録の改ざんを……」
「国も特に怪しまなかったようだ。だが……この先もそうだとは、限らない」
アルヤは銀貨をポケットにしまった。
「君を連れて逃げている奴がいることは、国も把握しているだろう。それが俺――伯爵家の長男だということもな。こちらとしては屋敷で雇うつもりで連れてきたとあくまで開き直るつもりだが、怪しまれるのは多分、避けられない」
「……そんな!」
国から目をつけられたら、アルヤ自身にも危険が及ぶ。彼がそれを分かっていなかったはずがない。そこまでして、「妖精の輝き」を捕まえたかったのだろうか。目的を果たせる保証もないのに。
アルヤは肩をすくめて笑った。
「――君のさっきの言葉は、正直、堪えた」
「え……す、すみません」
「謝らなくていい。確かに、俺のやり方は強引すぎた。ネスに叱られたよ」
「ネストール様に?」
「もちろんセルジュにもだ。女の子をあんなに泣かすとは何事だ、と散々罵られた」
力の抜けた笑顔を浮かべるアルヤを、マーシャは不思議な気分で見つめていた。
何だろう。神々しい作り笑顔や、何か企んでいるような不遜な笑顔は何度も見てきたが、今の彼が、一番素に近いように思う。
出会って何日か経つが、今、初めて一人の人間として彼に向き合っている。そんな気がした。
「君がどうしてもと言うなら、家に帰してやることはできなくもない。だが、国の追手は必ずかかる。無事に戻れたところで、いつかは捕まって連れていかれてしまうだろう」
「……はい。分かります」
自分が「妖精の輝き」などという力を所持しているという話に、未だ疑いはある。けれど、襲撃されているのは紛れもない事実だ。
国に連れて行かれた先に何が待っているかは分からないが、もう、今までの日常は帰ってこないのだろう。
頷いたマーシャを見て、アルヤは落ち着いた口調で言った。
「だから、できれば、俺はこのまま君を連れて行きたい」
「えっ?」
「花を変えることに賛成しないなら、それでもいい。ただの花守として、家に来てくれないか」
ただの、花守。
町から連れ出す口実として使っただけの話を、彼は真実にしようとしているのか。
戸惑っているマーシャに、アルヤは笑いかける。どこか、泣きそうな笑顔だった。
「……君には嘘をつき過ぎたから、信じてもらえなくても無理はないと思う。だが、これは偽りのない本音だ。妖精王に誓ってもいい」
「でも、アルヤ様の目的は……」
「父のことを許したわけではないが、やり方はもう一度考え直す。俺はどうも、視野が狭くなっていたようだからな」
恭しい仕草で、アルヤはマーシャの手を取った。
「一緒に来てくれ、マーシャ」
「……!」
「俺は、君を、国に渡したくはないんだ」
心臓が早鐘を打つ。顔に熱が集まってくる。
なんという破壊力だ。そういった意味ではないと分かっていても、この美貌で迫られたらひとたまりもない。分かっていてやっているのだとしら、相当性質が悪い。
「こ、断らせる気ありませんよねアルヤ様?!」
「人聞きが悪いな。まぁ、無いが」
「やっぱり……!! だから強引だって言われるんですよ!!」
「……君も言うようになったな。悪いか? 俺は使えるものは使っていく主義なんだ」
しれっと宣うアルヤは、すっかりいつもの調子に戻っている。やっぱりネストール達にも居てもらえば良かった、とマーシャは後悔した。今更遅いけれども。
正直、アルヤの言葉を全面的に信じられるわけではない。「妖精の輝き」についても、自分がそうだとはまだ信じられない。
――でも、もし本当に、そうだとしたら。
荒くれ者の追い剥ぎが涙を流したように、人の何かを変えられる力が、本当に自分にあるとするならば。
「……アルヤ様」
「なんだ。来てくれる気になったか?」
「ええ、行きます。一緒に」
アルヤが大きく目を見開いた。
「あれだけ渋っていたのに、随分潔い返事だな」
「その代わり、一つ、お願いがあります」
「お願い? 何だ?」
促されて、マーシャは意を決した。こうなったら、やってみるしかない。
「伯爵を、奥庭に――連れ出していただきたいんです」
亡き夫人の花が植えられていた庭。
花守が不在になり放棄されているという、その場所で当人と立ち会えば、何が分かることがあるかもしれない。




