11 花と真相①
目を開けると天井の木目が見えた。
かすかに鳥の声がする。朝、なのだろうか。
瞬きを繰り返してマーシャは考えた。ここは、どこだっけ。
確か、自分は宿屋を脱出したはず。イヴァンを振り切って、町も飛び出して、とにかく走って――……
「やあ、目が覚めたようだね」
優しい声がして、マーシャは首をゆっくりと動かす。ネストールだった。
「どこか痛いところはないかい。君は丸一日眠っていたんだ」
「いえ、どこも痛くは……えっ? 丸一日?」
まさか、そんなに眠り続けていたなんて。てっきり、夜が明けただけだと思っていたのに。
慌てて身体を起こそうとしたマーシャを、ネストールが押しとどめる。
「落ち着いて。そんなに焦らなくても大丈夫だよ」
「はい……あっ、そのショール……!」
「うん。君の傍に落ちていたんだ。それから、これもね」
ネストールは枕の横に置かれたものを手に取り、マーシャに渡してくれた。
白い花の、髪飾り。モナが別れ際にくれた、大切な。
それに、母の手製のショールも。少し汚れて皺になってしまっているが、無事だ。他の荷物も、ベッドの脇にきちんと置かれていた。
――どこにいてもあなたの味方よ、マーシャ。
母の声が聞こえた気がした。
ショールに、ぽたりと滴が落ちる。家族に、親友に、会いたい。
……帰りたい。家に。
嗚咽を漏らすマーシャの背中を、労るようにネストールは撫でた。
「アルヤを呼んでこよう。とても心配していたんだ」
程なくして、イヴァンとセルジュを伴ってアルヤが部屋に入ってきた。
マーシャの涙の跡を認めると、アルヤは唇を引き結び、ベッドの脇に膝をついた。
「……無事で良かった」
「アルヤ様、お立ちになってください」
「いや、このままでいい。この方が顔がよく見える」
アルヤは頑なに立ち上がろうとしない。マーシャは困惑してネストールとセルジュを見たが、苦笑が返ってきただけだった。
そのままの体勢で、アルヤはにやりと笑う。
「それにしても、イヴァンから逃れるとは。なかなかやるな」
「ははっ、まさか股間に一発とはね。いやー、その時のイヴァンの顔、是非とも見たかったぜ」
「あ、あれは……! ごめんなさい!!」
セルジュにまで茶化されてしまい、マーシャは勢い良く頭を下げた。自分には分からないが、きっと痛かったのだろう。ものすごく。
皆の背後に黙って控えていたイヴァンは、眉間に皺を寄せた。それだけでも珍しいが、なんと、口を開いた。
「……謝るな」
「え、でも」
「もういい。だが、次はない」
しかめっ面の青年は、どうやら護衛としてのプライドをいたく傷つけられたらしい。次など、マーシャとしてもあってほしくはないのだが。
アルヤは膝をついたまま、首を回す。視線は部屋の窓で止まった。
「窓から逃げ出したらしいな。驚いたぞ、君はもう少し大人しい子かと思っていた」
「……ご期待に添えなかったようですみません」
「とんでもない。褒めてるんだ」
群青の視線が、マーシャに戻ってくる。何度見ても、吸い込まれそうな深い青だ。
「イヴァンに、人違いだと言ったんだって?」
「……はい」
「聞いたんだな。俺たちの話を」
マーシャは少しの間黙っていたが、結局こくりと頷いた。もうとっくにバレているのだろう。
「はい。……申し訳ありません、盗み聞きのような真似をして」
部屋に沈黙が落ちる。
誰も何も言わない中、やがてアルヤが口を開いた。
「まずは、謝っておく。確かに、俺は君にいくつかの嘘をついていた」
「……はい」
「父が刺客を差し向けているというのは嘘だし、愛人や隠し子の話も作り話だ。あいつらが狙っているのは俺ではなく、君だ」
「でも、それは」
「君の言いたいことは分かっている。だが、とりあえず、最後まで聞いてくれ」
私じゃない、と言いかけたマーシャを制して、アルヤは続けた。
「俺が君の町に行ったのも、たまたまじゃない。マーシャ・ガルデス。目的は最初から、君だった」
「えっ?」
「人違いなんかじゃない。俺が求めていたのは君だよ。国の追手がかかる前に、何としても捕まえておきたかったんだ」
「国の、追手?!」
領主が治めているこの地において、国という存在は普段あまり意識されていない。
しかし、その領主に州を与えて統治を任せているのは紛れもなく国――ベネフロス国王である。貴族よりもさらに上。庶民にとっては、まさに雲の上の存在にも等しい存在だった。
国から刺客が差し向けられたとなると、事はアルヤのついた嘘よりもさらに重大ということになる。その渦中にいるのが自分なんて、どうして信じられるだろう。
「ああ。あの連中は、国王がよこしたんだ。君の身柄を確保するためにな」
「……う、うそ」
「残念ながら本当だ。『妖精の輝き』は、それほどの存在なんだよ」
「違います、私はただの一般庶民です。『妖精の輝き』なんて知りません! だから、人違いだって言ってるんです……!」
マーシャの叫びを受けて、アルヤはゆっくりと頭を振った。
「知らなくて当然だ。『妖精の輝き』は普通、人間には見えない。『花』と同じ類のものだからな」
「え? 花と、同じ……?」
「そうだ。力を発揮している時はともかく、通常は普通の人間と変わらない。もし『妖精の輝き』が見分けられるとすれば……それは『花予見』だけだ」
――花予見。
マーシャの脳裏に、あの日の出来事が蘇る。
十六才の誕生日。森の中にあった、花の社。予想外の花言葉を告げ、マーシャを混乱の渦に叩き込んだ、あの、銀髪の女性。
彼女は、最後に何か言ってはいなかったか。聞き取れなかったけれど、あれは、もしや。
――妖精の、輝き……
「……花予見は、十六になった君が『妖精の輝き』の持ち主だと読み取った。そして、すぐさま国と領主に報告したんだ。俺もその報告書を見て、君のことを知ったからな」
「報告書……そんなものがあるんですか」
領主の長男である彼にとって、報告書を見ることくらいは容易いだろう。
そして、ポロスの町で住民を呼び止めて「マーシャ・ガルデス」を探していると言えば、モナの宿屋にたどり着くのもさほど難しいことではない。
「花予見の記録は、国と領主が持っている。花言葉までは書かれていないが、祝福を受けた日付と名前、花が記されているんだ。通常はただそれだけの形式的な書類なんだが……『妖精の愛し子』が発見された時は、それも記されることになる」
「え? でも、『妖精の愛し子』って、花予見のことじゃ……」
「もちろん花予見もそうだ。しかし、中には異なる力を持つ人間もいる。『妖精の輝き』も、その一つだな」
アルヤの目が、マーシャをひたと見据えた。
「彼らは花を見ることはできない。その代わりに、人の花を『変える』ことができると言われている」
「は、花を変えるなんて……! そんなこと、妖精王がお怒りにならないんですか?!」
花は妖精王からの祝福だ。一生変わることのない、その人をその人たらしめる象徴。それを変えてしまうなんて、摂理に反することではないのか。
「俺は妖精王ではないからな。そのあたりは分からないが……怒らないからこそ、『愛し子』なんだとは思わないか?」
「……愛し、子……」
「――知っているか、マーシャ。『花』は人の魂を反映している」
アルヤがふと、遠くを見つめるような目をした。
「花予見に見えるのは、単に花の種類だけじゃない。状態も分かるんだ。生き生きとしているか、萎れかけているか……枯れかけているか」
「……そんなことまで……」
「そう。花を見るのは、運命を見るに等しいということ、だな」
運命が見える、目。
たとえば、今にも召されそうな人を前にしたら、散りゆく寸前の花が見える。見えてしまう、ということなのか。
「では、花を変えるというのは……?」
「一言で言ってしまえば、運命を変える、ということになる」
そんな大袈裟な、と言いたかったが、マーシャは口を噤んだ。花と花言葉に人がどれほど影響を受けるかは、身を持って分かっている。
まして、枯れかけた状態の花――魂を、生き生きとした別の花に変えることさえできるとすれば。
マーシャは身震いした。なるほど、国から狙われるわけだ。
「でも、私今までそんなこと一度も……」
「それは花予見も同じだ。子供の頃は力が不安定で、花もほとんど見えないし花言葉も分からない。見えたとしても、視界に一瞬ちらつく程度だ」
「じゃあ、花予見の人たちはいつから……?」
「大体は、十六才の花予見を機に見えるようになるようだな。それから国で特殊な訓練を受けて力のコントロールを学び、やっと一人前の花予見になれる――普通の花予見は、な」
何やら引っかかる言い方だ。
そもそも、アルヤは妙に事情に明るい。領主の息子だからというのもあるのだろうが、それにしても知りすぎている気がする。
一般庶民にとって「花予見」は神秘に包まれた存在だ。その能力についても「花が見える」「花言葉が聞こえる」ということしか知らないのが普通である。「妖精の輝き」に至っては、おそらく存在すら知られていない。それなのに。
「どうして……」
「ん? 何だ?」
「アルヤ様は、どうしてそんなに詳しいんですか」
目的を果たすために色々と調べたのかもしれないが、それにしても詳しすぎる。
マーシャが「妖精の輝き」であると一片も疑っていないのも不思議だ。いくら花予見からの報告書を見たとは言え、花を変えるなんて俄には信じられない話である。現に、あの晩、ネストールやセルジュは疑っていたではないか。
マーシャの問いかけに、アルヤは「まぁ、詳しくもなるさ」と首の後ろを掻いた。
「俺には、花が見えるからな」
「え……?!」
「だから、出会った時には分かっていた。君が『妖精の輝き』だと」
「つまり――『花予見』なんだよ、俺は」
群青色の瞳は揺るぎなく、マーシャを見つめていた。




