10 花の覚醒
「どこに行くつもりだ」
淡々とした声と共に肩を掴まれ、マーシャは足を止めて振り返る。
やはり、彼は見逃してはくれなかったか。
「……イヴァンさん」
「どこに行くつもりだ」
同じ言葉を繰り返す黒髪の青年に、マーシャは諦めて息を吐いた。
町の出口はもう、すぐそこなのに。
「離して下さい」
「駄目だ」
「お願いします。これはアルヤ様のためでもあるの」
マーシャの言葉にイヴァンはしばし黙ったが、再び「駄目だ」と繰り返した。
「狙われてるのは私なんでしょう? それなら、私が離れればアルヤ様が襲われることはないはずよ」
「駄目だ」
「それに、私は……アルヤ様が探してる人じゃないんです」
「駄目だ」
「離して! 本当に、人違いなの!」
掴まれた肩を振り解こうと身体をよじるが、骨ばった手はびくともしない。マーシャがいくら泣き叫んだところで、彼は絶対に離さないのだろう。
「……そうよね。あなたは、アルヤ様の命令が絶対だもの」
「…………。」
「でも、私は違うんです。本当に、あなたたちが求めてる人じゃないんだから……っ」
「…………。」
「離して……家に、帰してよっ……!」
家族がくれた荷物を抱えて、マーシャはしゃくり上げる。
なんて滑稽な話だろう。両親も兄も、親友も、あれだけ心を込めて送り出してくれたのに。実は作り話だった上に人違いでした、なんて。
いい笑い話である。やっぱりボケのマーシャだな、と近所の嘲笑の種になるに違いない。
――いや、笑えばいい。
大切な人たちの顔がまた見られるなら。自分が笑われるくらいは何でもない。
ここを逃げ出して、家に帰れるなら。それくらい。
マーシャは唇を噛んで、イヴァンを見上げた。会った時から少しも変わらない表情が、無感情にこちらを見下ろしてくる。
ふと、別れ際のモナの言葉が蘇ってきた。
――ねえマーシャ、自分を大事にしてね。
――いざとなったら……
「……離してくれない、なら」
「…………?」
イヴァンは怪訝そうに眉間に皺を寄せたが、掴んだ手が緩む気配はない。とうとう、マーシャは覚悟を決めた。
「ごめんなさい、イヴァンさん……っ!!」
ぎゅっと目を閉じて、思いっ切り足を蹴り上げる。
目の前に立つ青年の――おそらくすべての男性の――急所を目掛けて。
マーシャは夜道をひたすら走る。真っ暗な道を、振り返ることなく。走って、走って、走った。
あの一撃で肩を掴む力が僅かに緩んだのを、必死に振り切って飛び出してきたものの、どこに向かっているのかは自分でも分からなかった。明かりもない、かろうじて道と分かる場所を闇雲に走っているだけだ。
それでも足は不思議と軽く、止まることはなかった。まるで羽が生えたようだ。
――このまま、どこまでも行けそう。
いっそ場違いなほどに浮き立つ気持ちを、マーシャはどこか冷静に自覚していた。自分が自分でなくなってしまったかのようだ。
「……おい、姉ちゃん」
濁った声がして、草の影からのっそりと男が現れた。
声だけでなく目も大きく濁り、身につけている服はぼろぼろだ。手には太い木の棒を持っている。
「荷物よこしな。痛い目に遭いたくねぇだろ」
「……荷物?」
「手に持ってるそれだよ! ふざけてんじゃねぇぞ!」
わめく男を見つめながら、マーシャは驚くほど落ち着いていた。何故だろう、恐怖が少しも湧いてこない。
「……かわいそうに」
「あぁ?! 何だと?!」
「その、腰の袋」
すっと指をさすと、男がたじろいだ。
「な、なんだよ……これが何だってんだ」
「銀貨が入っているんでしょう?」
生まれた子供に、親が最初に贈るもの。妖精王の加護を得て、健やかに育つようにという親の願いが形となったもの。
どうして、それが入っていると分かるのだろう。自分でもよく分からなかった。小袋は薄汚れていて、中身など見えない。でも、確かにそうだと分かる。
男は棒を持っていない方の手で、小袋を押さえて顔をゆがめた。
「銀貨がなんだってんだ! 皆持ってんだろうが!」
「でも、あなたはそれを売ろうとはしないのね」
男が虚をつかれたように黙った。
銀貨は売ればそれなりの値段になる。お守りを売るなどいかにも罰当たりなことに思えるが、貧しさやお金欲しさに売ってしまう人間も少なからずいるのだ。
それなのに、明らかに物盗りであるこの男は、確実にお金になるはずのそれを売らずに持っている。
「大事なものなんでしょう。家族の分も入っているのではないの?」
「う……うるせえ……!」
「それを手放せないのなら、あなたはまだ『咲かせる』ことができる」
マーシャは片手を上げた。勝手に上がった、という方が正しいくらい、ほとんど無意識の動きだった。
男はもはや震えていた。化け物にでも会ったように顔がひきつり、恐れおののいているように見える。
ただの町娘をそんなに恐れるなんて、おかしな人だ。何も怖くなんてないのに。
「咲かせて、あなたの『花』を」
「は、花なんて、んなもん……!」
「失くしたものもたくさんある。けれど、大事な『思い出』はまだ、あなたの中にあるでしょう?」
男の目が極限まで見開かれる。
やがて、男は地べたにへなへなと座り込んだその拍子に、小袋から銀貨が三枚、こぼれ落ちる。マーシャにはそれが、男と亡くなった両親のものだと分かった。
汚れた指が、銀貨をつまみ上げる。そこに刻まれた花を見て、う、あ、と声にならない声が漏れた。
うめき声は次第に大きくなり、やがて獣のような咆哮になる。
「おっ……か、ァ、あああああァああ……!!」
泣き叫ぶ男の目に、もう濁りは見当たらない。透明な涙だけが、ぼたぼたと流れ落ちて地面に染みを作っていく。
――良かった、この人はもう大丈夫。
ほっとした途端急激に身体が重くなり、マーシャは地面に座り込んでしまった。
目の前の男はもはやマーシャを気に留めることもなく、地に伏して泣き続けている。
呆然とへたり込むマーシャの耳に、蹄の音が聞こえてきた。こちらに近づいてくる。
そして、ひどく焦った声が名を呼んだ。
「――マーシャ!!」
……アルヤ様。
見上げて呼びかけようと思ったが、顔も、喉も動かなかった。
追ってきたんですか。私を。
人違いだって、あんなに言ったのに。いえ、あなたには言ってないけれど――でも、本当に人違いなのに。
イヴァンさんは大丈夫ですか。思いっ切り蹴っちゃって。ごめんなさい。痛かった、ですよね。
……ひとめぼれとか、つかなくていい嘘までついて連れ出したのに。
傷を負ってまで庇ったのに、人違いだなんて。そりゃ、がっかりしますよね?
でもね、私だって。
いくらボケの小娘だって、嘘をつかれたら傷つくんです。悲しくなるんです。
だから、お願い。
もう、私のことは放っておいて。
言いたいことはたくさんあるのに、何一つ言葉にならない。身体が、瞼が、泥のように重い。
目が閉じる。身体が、ぐらりと傾ぐ。
地面に倒れ込む寸前、たくましい腕に抱え上げられた気がしたが、マーシャの意識はそこで途切れてしまった。




