火炎の町4 雪花は悪くない
体を揺すられ、頰に違和感を感じて目を覚ますと。
半眼になって見つめる雪花の顔があった。
王子の頰を引っ張っている。
「やっと起きたわね。部屋に迎えに来るんじゃなかったの?」
「ひゃぁか」
彼の頰をパッと離すと、唇を尖らせて見下ろした。
「今日は鉄鋼山に行くんでしょ? 朝一で宿を出ようって言ったじゃない。いつまで寝てるのよ」
見れば彼女はすっかり支度を終えている。
王子が布団の中で眉を下げる。
「ごめん」
彼女はふんっと鼻を鳴らして、彼に着替えを投げた。
背中を向けると荷物からカップを出してお茶を作り始めた。
着替えをしながら、王子は苦笑を浮かべた。
——俺が起こそうと思ってたのにな。寝顔を見損なった。
今日の雪花は町に居るのに髪を下ろしている。面倒だったのだろうか。
まあ、フードにしまってしまえばいいだけなのだが。
王子は彼女の長い髪が好きなので、黙っていることにした。
雪花は背中を向けたまま、窓の外を眺めてお茶を飲んでいる。
急いで着替えた王子は、彼女の頭にそっと手を置いた。
「おはよう」
王子を見た彼女は、やっと笑みを浮かべた。
「おはよう。お茶飲んだら行くわよ」
差し出されたカップには、彼が好きなミントティーが入れてあった。
カップを受け取り、王子は飲みながら言う。
「雪花。顔くらい洗わせてくれ」
彼女は片眉を上げて王子を睨み上げてから笑った。
「早くしてね」
☆
早朝の町もそれなりに混んでいる。朝市が立つからだ。
王子は屋台を見回しながら雪花に聞く。
「何か食べてから行くか?」
「そうね。あと、途中で食べられそうな物も買って……」
二人が立ち止まった時だった。
雪花よりは少し上だろうか、花売りの少女が王子の手を引いて笑いかけた。
「お兄さん」
王子の手をシッカリと掴んでいる。
ふわふわと淡い金髪で碧眼の彼女は、甘えるような声で言った。
「お花はいかがですか?」
王子は何も言わずに彼女の手を払った。
少女は反対の手を花籠ごと王子へ突き出したが、王子は彼女の手を軽く捻って、持っていたナイフと花籠を落とした。色とりどりのガーベラが地面に散らばる。
雪花の目に怒りの火花が散ったことに、王子も少女も気づかない。
「危ないな」
王子は冷静にそう言ったが——。
ナイフは王子の頰を掠っていた。
慌てて走り出した少女に足を引っ掛け、雪花が彼女を転ばせた。
王子が驚いて雪花を見る。
彼女の頰にはナイフで切れた傷が血を流していた。
「いい度胸ね」
半眼になった雪花の声は抑揚も消え、低く静かに少女の耳に届いた。
強張った少女は声も出せずにいる。
腕を掴んで立たせた雪花は、少女をそのまま物陰に引っ張って行く。
「雪花!」
王子が慌てて追いかける。
細い路地に立った雪花の髪は、静電気を帯びたように広がっていた。
古語を唱えている。
少女の体は空中に浮き上がり、苦しそうに顔を歪めている。
その顔が赤くなってゆく。
首が締まっているのかもしれない。
「雪花! やり過ぎるな!」
王子の声に振り向いた雪花の目は、赤みを帯びて発光している。
まるで魔物のように見えるのは沼の時と同じだ。
頰から流れる血が、雪花の凄みを増していた。
彼女が無言で少女を向き直ると、少女は下に落ちてゴホゴホと咳をした。
やはり首を絞めていたらしい——王子は息をつく。
「よく覚えておきなさい。この人に髪の毛一筋でも傷を負わせたら、殺すわ」
相変わらず背筋が凍るようなドスの効いた声だった。
少女は怯えまくって立てないのか、這うようにして雪花から逃れ、狭い路地から出て行った。
王子は息をついて雪花に近寄る。
「やり過ぎじゃないのか?」
「殺す気はなかったわよ。ちゃんと人目も避けた」
「傷は大丈夫か?」
彼女の傷を見ようとしたら、パンッと手を払われた。
「その手で触らないで」
目も髪も通常に戻っているのに、雪花は刺すような視線で王子を見た。
王子の肝が冷える。こんな目で見られたのは初めてだ。
「……雪花?」
彼女は無言で王子の肘を掴んで引っ張って行く。
通りに出ると一番近い屋台のオバさんに聞いた。
「この辺りに水はない? 頬っぺた切っちゃって」
オバさんは痛々しそうに雪花を見ると、小川の位置を教えてくれた。
雪花は王子の肘を引っ張ったまま、屋台の出ている通りを抜けて、細い小川まで無言で歩いた。
王子も無言で引っ張られる。
自分が害されたと判断した時、雪花は非常に恐ろしいからだ。
——そういえば、湖の男は助かったのか?
王子がそんな事を考えていると、彼女は小川の前で止まって王子の腕を離した。
「手を洗って」
剥れたように言うと、自分も水を救って頰を洗い始めた。
王子は言われたように手を洗う。
別に汚れてもいないのだが——。
雪花は自分の頰に二本の指を当てて回復魔法をかけた。
傷がみるみる消えて行く。
王子はホッとした。
雪花はといえば、胸のムカムカがやっと収まったところだった。
——あの女、王子の手を握った。
そう思ったら、つい力が入ってしまった。
確かに少しやり過ぎたかもしれない——。
いや。彼の立場は、いつ刺客に狙われてもおかしくない。
黒曜が把握した他にも、彼の命を狙う者がいる可能性は高い。
人は利用しやすい者の下につきたがる。
残念ながら、琥珀は愚かではない。
ああいう輩は繋がっていることが多い。
脅しは重要だ。危ない連れがいると、知られることは無益じゃない。
そう自分に言い聞かせる。
——また、王子の方が先に気づいたわ。弓の時と同じ。
雪花がずっと黙っているので、王子は居心地が悪かった。
何か怒らせる事を、自分もしたのかと心配になる。
彼女はホウッと息をつき、王子の片手を取ると自分の手で包んだ。
「……雪花? どうした?」
「水仙に任せておけって啖呵を切ったのに、あなたを危ない目に合わせた」
「いや。怪我したのは——」
「ごめんさない」
彼女は王子の手に額をつけて謝る。
彼は困惑して狼狽えた。
「頼むから謝らないでくれ。どうしていいか分からなくなるだろ」
「……頭を撫でたらいいと思うわ」
俯いたままで彼女がそう言うから、空いている方の手で彼女の頭を撫でた。
「大丈夫だ。お前は悪くない」
そう言いながら——。




