火炎の町3 あと一歩
王子は男湯を出ると、雪花を持ちながら廊下で外を見ていた。
ふいに彼女に抱きしめられた気がして狼狽えた。
辺りを見回しても雪花はいない。
一瞬の事だったから、本当にそうだったのか分からない。
ふっと息を吸って、また外を見る。
月が明るい夜だった。
相変わらず、どうやって彼女に切り出せばいいのか分からない。
彼が求婚するということは、王太子妃になってくれということだ。
のちには、王妃となることを意味している。
その地位は彼女を縛る事になるだろう。
——できるなら、俺だって投げ出したいのに。
背負わせる荷が重すぎて、身動きができない。
「俺には向いてないんだよなぁ」
「何が向いてないの?」
独り言のつもりに返事が返ってきて、驚いて振り向くと、湯上りの雪花が彼を見つめていた。
ほんのりピンクに染まった彼女は、やっぱり綺麗だった。
王子は眉を下げて気弱に笑って見せた。
「……俺は王に向いてないよなって」
「そんなことないでしょ?」
雪花からは思っていなかった言葉が出てきた。
「あなたは自分で思っているより王に向くわ。指示も出せるし、人に任せることも知ってる。人の気持ちも考えられるし、何より誠実であろうと思ってる」
彼女は華奢な手で王子の頰に触れて微笑んだ。
「あなたは、いい王になるわ」
濡れた黒髪がいつもより黒さを増していて、髪は淡く染まった肌を際立たせ、彼女の表情を魅惑的に見せる。
まっすぐ彼を見つめる瞳は月明かりを受けて煌めき、謎めいて見えた。
膝をついた銀の気持ちも、膝をつくと言った水仙の気持ちも分かった。
彼女は断ると言うだろうがーー。
許されるなら自分も膝をついて、命を尽くしてあなたを守ると言いたかった。
だが、それは立場が許さない。
彼は目を瞑って大きく息を吐いた。
「銀が羨ましい」
「え? なんで?」
「彼は君の騎士だろ」
「勝手にそうなったみたいだけど、違うわ。彼は友達よ」
王子が静かな目で雪花を見つめた。
「俺は?」
「あなたは……」
雪花は目を逸らしてから言った。
「王太子でしょ?」
彼が傷ついたような目で雪花を見るのが分かった。
彼女はどうしていいか分からなくなった。
そのまま小さくため息をついた王子は、気弱に笑って言った。
「明日の朝、部屋まで迎えに行く」
背中を向けて行ってしまう王子を見ながら、雪花は唇を噛んでいた。
行かないで、一緒に居て欲しい。そう言うことができなかった。
彼女は少し泣きそうになる。
——思った事が、なんでも口に出る呪い、抑えないでおけば良かったな。
☆
王子は部屋に戻って溜息をついてから、頭を抱えてしゃがみ込む。
「だぁあぁ——どうしろって言うんだよ」
そのまま胡座をかいて、頭を垂れて、しばらく落ち込んだ。
自分が王太子なことは否定しない。
だが、そんな事を聞いたんじゃない。
もう寝てしまおうと乱暴に服を脱ごうとして、雪花に貰った物だった事に気づく。静かに脱いで椅子に掛ける。下着になって布団に潜り込んだ。
物入れの上に置かれたランプの灯りを絞る。
天井に炎の揺らめきが影を踊らせていた。
眠れない。
布団の上に腕を出し、指を折って数える。
水仙と話してから、すでに二日たった。
早ければ、あと二日、遅くても三日で城から迎えが来てしまう。
今のままなら、彼女をあの状態のまま連れて帰ることになる。
離れるわけにはいかないから——。
けれど、城に戻れば今までのようには行かない。
周りは琥珀へかしづくように彼女へ強要するだろう。
指輪が左手の薬指にはまっていれば——状況は全く変わる。
周りが彼女へかしづくだろう。
どちらも、彼女の望む状況ではないだろう。
それでも——王太子妃になる女性として城に行く方がいくらかマシだ。
彼女の為にも求婚しなければいけない。
そう——思っているのに。
銀は、ああ、言ったが。
自分が男として選ばれている自信が全く持てない。
確かに雪花は琥珀の指輪をはめる事ができた。
弾かれることなく、吸い付くようにシッカリとはまっている。
だが——もし、拒絶されたら?
自分にはどうする事もできない。
己の意気地のなさに暴れ出したい気分になった。
その時、ふわりと唇に触れる甘い息を感じた。
体が強張る。
滑らかで、柔らかな感触が彼の唇を覆う。
思考が停止するような、甘い誘いが体を通り抜けてゆく。
彼は起き上がって自分の唇に触れた。
クックククと喉の奥から笑いが込み上げてくる。
雪花の悪戯そうな顔が浮かんできた。
「まったく、敵わないな」
砕けたら、砕けたか——。
「おやすみ。雪花」
王子はランプを消して布団を被った。
☆
雪花は借りた部屋に戻って、大きく溜息をつく。
ランプを物入れの上に置くと、揺らめく炎が部屋に影を踊らせた。
服を脱いで荷物の上にたたんでおく。ピンクのショールも丁寧にたたむ。
下着になってベッドの上に胡座をかいた。
右手の指輪をジッと見つめる。
炎を受けてキラキラと煌めいていた。
引き込まれるような気持ちになる。
彼を見ている時と同じだ。
あの強い光を持った圧倒的な目は、逸らすことを許さない力がある。
あの人のそばに居たい。
また、ポロポロと涙が溢れてきた。
ドワーフのお祖父さんが、指輪は一生抜けないって言った時に、心のどこかでホッとした。
指輪があれば側に居られると、そう思ったからだ。
大きく息を吸い込んで、雪花は自分の目の前に琥珀石の指輪をかざす。
自分が膝をついて、忠誠を誓ったら王子はどうするだろう。
受け入れてくれるのだろうか。
彼を守れるなら、命もいらないと言ったら……。
——重いわよね。
彼女は、ふわっと笑った。
——いいわ。
承諾なんか必要ないんだった。
邪魔だって言われたら、言われてから考えればいい。
何か守り方があるわ。
——あたしは、魔女だもの。
「銀様。あなたはあたしに大切な事を教えてくれたわ」
そうしたいからそうするのよね。
彼女は口元に蠱惑的な笑みを浮かべ、琥珀の指輪にゆっくりキスをした。
「おやすみ、琥珀」
ランプの灯りを絞って、布団に潜り込んだ。




