妖精の国2 不安
船は黒川を下り、真っ白な扉をくぐってゆく。
端正な彫り物が施されたその大きな扉は、川全体に掛かっており、銀が近づくと勝手に開いた。
川の水が黒々と深い谷の川から、まるで光の粉を流したように煌めく明るい川へと変わる。
岸には春の花が咲き乱れ、白を基調にした家々が見えた。
「もうすぐ着きますよ」
彼は雪花に微笑みかける。
いつでも、どこでもが淡く光りが照らし、太陽がどこにも見えない。
芳しい花の香りが満ちて、木々の淡い緑は若芽の色を保っている。
妖精の国というのは、常春の国のようだ。
雪花の頭上を小鳥たちがさえずって飛んでいく。
「ここは季節が違うの?」
彼女が不思議そうに王子を見上げる。彼は小さく頷く。
「季節も、時の流れも違うらしいな」
銀が微笑む。
「迎えが出ています」
銀によく似た美貌の女性が岸に立って微笑んでいる。
軽そうな白いローブを身にまとって、肌の色も抜けるように白く、流れる銀髪を後ろに垂らしている。
瞳の色だけが薄紫ではなく、淡い黄色だった。
「お待ちしておりました、王太子様」
服を優雅に摘み、膝を深く折って、女性の最敬礼を王太子に見せる。
「丁寧な迎えを頂きまして、不躾かと存じますが貴女様は?」
王子は船を下りると、腕を胸につけ女性に身を折って、礼を返してから聞く。
「私は水仙と申します。黒曜様のお申し付けで、王太子様に御滞在頂き、お話をさせて頂きたく存じます」
「丁寧な物言いでなくて構いません。黒曜は元気ですか?」
彼女は銀様と同じ作り物めいた笑顔に、ほんの少しの親しみを浮かべた。
「お元気です。そちらの女性は?」
雪花はあまりの場違い感に黙り込んでいたのだが、王子が手を伸ばして彼女を呼ぶ。王子の手を掴むと、ほんの少し気持ちが落ち着いた。
「彼女は緑の魔法使いの弟子、雪花です」
女性の目に軽い驚きが浮かぶ。
銀も珍しく驚いた顔をしている。
「まあ、老師の。ええ、ええ。小さな女の子を育てているのだと聞いた事があります。貴女が?」
雪花の顔に好奇心の滲んだ笑みが浮かぶ。
「師匠をご存知なのですか?」
「それはもう。あの方も、ここへ滞在されていた事があるのですよ」
水仙はふっと雪花の指輪に目をやって、また驚いたように彼女を見つめた。
「……貴女。そうですか」
彼女は雪花の右手を取ると、王太子にしたと同じ女性が行う最敬礼の挨拶をする。
雪花が慌ててそれを踏襲しようとして、彼女に首を振られた。
「貴女様が足を折ることは御座いません。お会いできて光栄です」
雪花は少し狼狽えて王子を見る。
王子は視線を受けて、困った顔で眉を下げた。
「旅の疲れもあるでしょう。どうか、お寛ぎ下さい。こちらへ」
☆
まずは湯浴みでもと、豪奢な浴室に連れてこられたまではいいが——。
「あ、あの。自分でできますから」
「お気になさらず。水仙様の申し付けなのです」
水仙や銀様を小型にしたような女の子達が、雪花の背中や頭を洗い始めたのには参った。
——それにしても、凄いところだわ。
調度品は見るからに高級品だが、華美な装飾がなく、一切が実用向きに整えられている。
浴室の床は淡い白濁した石でできていて、流れる湯がすぐに乾いていく。
湯は清廉で微かに薔薇の香りがした。
「……これを着るの?」
「はい。御滞在中だけでも、くつろいで頂きたいと水仙様がご用意されました」
濃い緑のゆったりしたワンピースは、たっぷり布地が使われ、絞った腰から幾つもヒダが出来ている。
襟元や袖、裾には金糸で細かな刺繍が施されていて、雪花は身につけるのが躊躇われるくらいだ。救われるのはドレスではないということくらいか。
愛らしいスェードの靴を履かされ、髪は緩やかにまとめられ、小さなピンクの薔薇を幾つも飾られた。
——これで、くつろぐの?
水仙が顔を出して作り物めいた笑顔を見せる。
「お似合いですわ。どこか苦しいところは御座いませんか?」
彼女は淡いピンクの薄布を雪花の肩にかけて結ぶ。
「いえ、あの。こんなにして頂いて恐縮します。そういう扱いをされる身分でもないですし」
困ったように眉を寄せた雪花を見て、水仙は意外そうに首を傾いだ。
銀の髪がさらさら音を立ててながれる。
「貴女様は琥珀様の指輪をされている方です。間違いなく貴賓ですよ」
雪花が目を瞬く。
「……この指輪ですか?」
「はい。王子に贈られたのですよね?」
困った顔が加速した。雪花は琥珀石の指輪に軽く触れる。
「この指輪はーー」
森で王子にあって、勝手に指輪をはめた事を説明する。
雪花は軽く俯いて視線を下げた。
「なので、早く指輪を抜いて王子に返したいと思っているのです
水仙は不思議な目をして雪花を見た。
「なぜ右手なのかとは思いましたが……返したいのですか?」
「返したい。このままでは、ずっとあたしと一緒にいなきゃならない。長く離れると命に関わるらしいから」
雪花はフッと溜息をつく。
「彼が困るもの」
水仙は雪花の肩に軽く腕を回して覗き込むように見た。
琥珀とは違うレモン色のような目が煌めいて、雪花は少し恥ずかしくなる。
「なぜ琥珀様がお困りになるのでしょう」
「え? それは、彼は王太子でしょ? 次の王になられる方で、森の魔女をずっと連れているわけにはいかないわ」
「雪花様は琥珀様とご一緒が嫌なのですか?」
「そうじゃないわ!」
口から飛び出た強い否定に自分で驚く。
「あ……あの、そうでは無いの」
水仙は静かに微笑んだ。
その笑みは作り物ではなく、雪花の中に真っ直ぐ届く。
「ならば返す必要はありません」
白く細く暖かい指が雪花の頬に触れた。
「雪花様、自分を卑下してはいけません。貴女は朧様が育んだ女性です。琥珀石に並ぶ宝石なのですよ」
彼女の微笑みが柔らかく雪花を包む。
「彼の持つ王太子という身分がなんでしょう。琥珀石は貴女を選んだのです。貴女が自分を卑下しては、選んだ方が嘆きますよ」
「……でも」
「雪花様」
彼女は優しく雪花の頬を撫でた。
「恐れていては前に進めませんよ? さあ、行きましょう」
手を引かれ、雪花はゆっくり部屋を出て行った。




