山8 魔蛇
王子の背後に光る四つの目が見えた。
鬼灯のように赤い、魔物の目だ。
「ボ、ボンクラ!」
雪花が叫ぶと王子はすぐに反応して、彼女を抱えて横に転がった。
王子が立っていた場所に赤い舌が伸びて消える。
魔性を帯びた蛇——ズミヤだ。
ズミヤは二つの頭をもたげている。
軽く樹木を超える背丈だ。
雪花はすぐに呪文を唱え始めた。
王子が彼女の前に立って剣を構える。
ズルズルと重たい体を引きずって、ズミヤはシュウシュウ音を立てて舌を操っている。その口からは鋭い牙が見えた。
胴を伸ばして長い舌先を吐き出すように伸ばしてくる。
王子が剣でその舌を払うと、ビッと音がして傷が生まれた。
そこから黒い瘴気が蒸気のように吹き上がる。
「地と影の精霊に告ぐ。主なき幻影を引き裂け」
雪花の魔法が放たれた。
空気を劈く魔法が双頭のズミヤに降りかかった。
ズミヤはカマイタチにでも合ったかのように、長い胴のそこかしこに切り傷を作って黒い瘴気を吹き上げた。
——だが。
「霧散しない!」
雪花が悔しそうに叫ぶ。
王子は走り込んで下から上に剣を振るう。
ズミヤの首が一つ切り裂かれてぶら下がったが、切り落とすことはできなかった。
「くそっ!」
長い舌が王子の体へ伸びてゆく。
彼は剣を振って、その舌を払い切る。
舌はうねりがら空を舞った。
雪花は両手を合わせて古語を唱える。
髪が震え、瞳に赤みが差す。
王子は長く伸びる蛇の体に飛び乗って、首まで登るとぶら下がっていた首を切り落とした。
首から真っ黒な瘴気が多量に吹き出す。
隣にあるもう一つの首が大きな口を開いて、王子に噛みつこうと牙を見せる。
「我が古き母、抱かれし眠りを覚まし、我が呼びかけに答えよ!」
雪花が放った魔法は地割れを起こし、ズミヤの胴体を飲み込んだ。
そこまでは良かった。
だが、バランスを崩した王子がズミヤの頭から滑り落ちる。
慌てた雪花も背後に足を踏み外す。
グラッと揺れて切り立った谷へ落ちて行く。
彼女の目に大きく牙を剥いた真っ赤な口が、王子を飲み込もうとするのが見えた。
自分の体も浮いている。
王子がズミヤに背中を向けて走り、雪花に手を伸ばそうとしている。
自分が谷に落ち、彼が飲み込まれれば。
——ダメ、死んでしまう。
二つの魔法を放つ時間はない。
雪花は落ちながら呪文を唱えた。
「古き友、我が精錬なる熱き同志につぐ、汝の息吹にて邪なるものを焼き払え」
彼女が放ったのは、自分を守る魔法ではなかった。
王子の背後で炎が立ち上り、大きなズミヤを飲み込んだ。
燃え上がって灰になり、霧散していくズミヤを見る。
王子が手を伸ばしているのが見えた。
怖くて体が震えていた。
谷底に落ちてゆく。
結界魔法で自分を包む以外に方法が思い浮かばない。
だが、さすがの雪花も、この高さから落ちて自分を守りきれる自信はなかった。
彼女が震えながら、呪文を唱えようとした時、指輪が激しい光りを放った。
思わず息を飲んで呪文を唱えるのを忘れる。
彼女の右手が何かに引かれてゆく。
浮かんだ体ごと引っ張られた。
王子の伸ばした手が雪花の手を握りしめた。
雪花は強く引っ張られ、彼の腕の中に飛び込んでゆく。
抱きしめられて、ボンヤリと王子の体に手を回す。
二人は膝から崩れるように、その場に座り込んでしまった。
体の震えが止まらない。
気づけば涙が溢れていた。
「……怖かった」
王子は声も出さずに彼女をキツく抱きしめている。
——本当に怖かった。あなたが死ぬかと思った。
雪花は王子の体を強く抱きしめて、ポロポロと泣いた。
王子は何も言わずに、ゆっくり雪花の髪を撫で続けた。
☆
ズミヤが燃え落ちた付近は黒い炭になっていたけれど、木々に燃え広がる事はなかった。雪花はホッと胸をなで下ろす。
二人はその場所で休むことに決め、雪花が魔法円を描き、王子がテントを作った。
作業の手順はいつもと同じだが、二人が言葉を交わすことはない。
ただ、手を取り合って離すことがなかった。
焚き火を見ながら、雪花が王子に言った。
「ごめんなさい。使う魔法を間違った。あたし——あなたを死なせる所だった」
彼女の体が震えている。
王子は痛いような顔をして雪花を見る。
「違う。もう少しで死なせてしまう所だったのは俺だ」
彼女は自分を投げ出して、王子を助ける為に魔法を放ったのだ。
そうでなくても、例え彼女が自分を守る魔法を使ったとしても、蛇に噛まれれば自分ではなく——。
王子はもう少しで、彼女に提案してしまうところだった。
もう旅を終わらせよう。
一晩我慢してくれれば、君を自由にしてやれるからと……。
雪花が小さな声で聞いた。
「ボンクラは怖かった?」
「……ああ、すごく怖かったよ」
彼女は王子をギュッと抱きしめた。
そして、彼の背中を撫で始めた。
「怖くない。怖くない。大丈夫よ。あなたは強いわ。怖くない」
「せ——」
「あなたが抱きしめて、こうしてくれたじゃない? あれって、魔法ね」
彼女は驚くくらい綺麗な顔で笑った。
胸を掴まれたように苦しい。
——無理だ。
王子は背中を撫でる彼女を強く抱きしめた。
指輪から自由になる為に体を差し出せなんて言えない。
一緒に居たい。それが、指輪の呪力で縛り付けているのだとしても。
卑怯でも、エゴだったとしても。
——俺は絶対に離したくないじゃないか。
「ボンクラ、痛い。離して」
彼女が唇を尖らせて文句を言った。
「嫌だ」
王子は手を緩めたが、彼女を離さなかった。
けっきょく、王子は食事を作っている間も、片付けている間も。
ずっと後ろから雪花を抱きしめて離さない。
「……もしかして、このまま眠る気なの?」
少し呆れて彼女が言うと、王子は眉を下げて気弱な笑みを浮かべる。
「何もしない。誓うよ」
仕方なく二人で一つの毛布に丸まる。
王子は雪花の頭に顔をつけ、彼女を抱いたまま静かに眠った。
雪花も王子の温もりと鼓動の音に誘われて、ゆっくり眠りに落ちていった。




