山6 下山
体を動かしてクタクタになれば眠りにつくのも早い。
王子は今夜の寝床に戻って、雪花が魔法で汲み置いた水を飲み、布を濡らして体を拭く。
前に彼女に臭うと言われてから、マメに体を拭くようになった。
ふっと目をやれば、今夜は雪花の周りにボンヤリと境界の魔法が見えた。
普通は魔法使いでもない限り魔法を見ることはないが、彼女の魔法は王子にも見える。指輪の力なのだろう。
「警戒されたわけか」
彼の目が面白そうに揺れた。
雨宿りでの事を思い返して、然もあらんと思う。
あれで意識されなかったら自信を失う所だ。
「やっと男と認識されたという事でいいのかな?」
眠る雪花に目を細めて笑いかける。
触れられないのは残念だが、それはこれからという事にしよう。
鉄鉱山につくまでに、なんとかできるんだろうか——。
彼は毛布を掴んで包まった。
疲れた体はすぐに眠りへ落ちていった。
☆
翌朝、パンにチーズという簡単な朝食を食べながら、雪花が魔法地図を出して、魔物の位置を確認する。
魔物が活発なのは夜だが、昼間だから襲って来ないとは限らない。
大型の魔物は相変わらず緩慢に移動を続けているようだ。
王子が寄ってきて雪花の横から魔法地図を覗き込む。
相変わらず覗き込まれると顔が近くて困る。
「こいつの動きは読めないな」
通常は水気を嫌うはずの魔物だが、そいつは川だろうが気にせずに動き回っているようだ。
「魔物の中にも水気が平気なヤツがいる。逆に水気を好むのもいるくらいだし」
ボンクラも頷く。
水棲の形で瘴気が凝れば、水場に潜む魔物と化す。
——これは気を引き締めていかないとダメだわ。
水場の魔物は非常に厄介だ。
雪花がカップに残ったお茶を飲み干し、今日のお願いをしようと右手を上げて琥珀石を見ると。
王子がじっと彼女を見つめていた。
「……なに?」
「いや。何でもない。続けて」
——つ、続けてって。
彼はじっと雪花を見つめている。
その瞳にまた蠢めく何かを感じるのだが——。
見つめるのを止める気はないらしい。
仕方なく、彼女は胸の内で琥珀石にお願いする。
——このまま、思った事がすぐに口から零れませんように。
「お願い」
小さく呟いて、そっと琥珀石に唇を寄せる。
彼女の一挙一動を王子は身動きもしないで見つめていた。
雪花の唇が琥珀石に触れると、彼は小さく息を飲んで口元に不思議な笑みを浮かべる。その目の色がどこか愉悦に満ちていて雪花は真っ赤になった。
「な、なんなの。恥ずかしいじゃない!」
王子は弾けるように笑って、
「仕返しだ」
そう言った。
——なんの仕返しなのよ。
雪花が口を尖らせると、王子はククッと喉の奥で笑いながら立ち上がって、優しく彼女の頭を撫でた。
「怒るなよ」
そう言って自分の荷物を片付けに行く。
雪花はムカムカしたので、その背中にベーッと舌を出してやった。
下りの山道は登りなど、比較できないくらいきつかった。
雪花はガクガクする足に回復魔法をかける。
——足だけよ……。
回復魔法は頻繁には使えない。安易に使い続ければ、彼女の体力を削って限界を早める。
森の散策をしていた時、それで動けなくなったこともある。タイミングを意識して使わなければならない。
一歩、一歩、踏みしめながら降りているはずなのに、気づけばスピードが上がって体に負担をかけている。
気をつけなければ木の根に躓き転がってしまう。
踏ん張りが利かない。
気を抜けば谷底から吹き上げてくる風が、ふらつく体を煽ってくる。
——これは山越えを選ぶ人が全然いないわけね。
王子が立ち止まっては雪花に手を差し出す。
彼だって決して楽ではない。
それは指輪をはめた雪花には痛いほど分かる。
けれど、差し出された手を断ることはできない。
サポートされなければ進めない。
進まなければ後で余計に彼へ負担をかけるだろう。
自分の不甲斐なさに歯噛みしたくなる。
周りの木々も枝を差し出しては、彼女に捕まるよう促して応援してくれる。
とにかく、少しでも平らな場所に出なければ。
日が暮れてしまう前に。
「あっ」
踏ん張ったつもりが足が効かず、転がりそうになって王子に抱き止められる。
広い胸と長い腕が彼女をスッポリ受け止める。
「大丈夫か?」
心配そうな目で覗かれると、なんだか哀しくなる。
王子が辺りを見回している。
「雪花、あそこまで行こう」
彼の視線を追うと、突き出した岩が見えた。
平らではないけれど、岩の窪みならば風は避けられるだろう。
荷物を降ろして大きく息をつく。
王子は辺りを見回って言った。
「今夜はここで一泊して行こう。疲れてるとこ悪いが魔法円を敷いてくれないか?」
雪花は息をついて微笑む。
「もちろん」
自分にもできる事があるのが、少し嬉しかった。
岩の下はそこまで広くない。
テント布で覆って風除けを作ったが、中で焚き火ができる大きさはなかった。
ボンクラは古木を集めて岩の前にも風除けを作る。
山にも討伐に入ったというだけはある。
手際がいいし、よく動いてくれる。
枝を拾って岩を囲んで魔法円を描く。
少し広範囲に魔法をかけるため、小さな円を幾つか描く。
王子は王子の、雪花は雪花の仕事をする。
焚き火を用意して湯を沸かす頃には、日が暮れてきた。
王子の判断は正しかったなと思う。
雪花は靴と靴下を脱いで獣の皮の上に胡座をかいた。
柔らかな獣の毛が素足をくすぐる。
目を瞑って呼吸を整え、疲れた体に回復魔法をかける。
スウッと体が楽になった。
靴を引っ掛けて粥をつくる王子の側による。
「こっち向いて」
彼の額に指を置き、王子にも回復魔法をかける。
雪花の体がさらに楽になった。
「楽になったよ」
王子が微笑んで雪花の髪を撫でた。
彼女が髪を触られた事に文句を言おうか言うまいか悩んでいると、王子は粥をよそった椀に蜂蜜を垂らして雪花に差しだした。
「好きだったみたいだから、同じものを作った」
胡桃入りの甘い麦粥だ。
雪花の目がキラキラ輝く。
ジュワッと唾液が湧いてきて、思わずゴクんと喉を鳴らした。
王子が弾けるように笑う。
「ありがとう」
素直にお粥を受け取って王子の隣に腰掛けた。
「山って下りの方が大変なんだね」
「ああ。特にこの丸山は谷に向かって傾斜がきつい。南野宿から登るより、谷側を降りる方がずっと大変だな」
「……ごめんね」
彼女が小さく謝ると、王子は不思議そうに見た。
「何が?」
「あたしが——指輪を勝手にはめなければ、こんな旅は必要なかったじゃない? ボンクラはあたしと離れると死んじゃうから旅に付き合ってるんだし」
王子は覗き込むような目で雪花を見つめる。
「……それは違う」
目を逸らした王子は焚き火を突っついて言った。
どこか苦いような顔をしている。
「言っただろ、その指輪は普通の人間には抜けない。君は指輪に選ばれたんだし、その指輪はーー俺の指輪だ」
「指輪って人を選ぶの?」
雪花が首を傾げるのを見て、王子はクスッと笑った。
「その指輪は選ぶんだ。だから、君が気にすることじゃない」
「そう? そう言ってもらえると気が楽になるけど」
王子の胸の内に重苦しい思いが広がる。
もういっそ、話してしまおうか。
指輪を抜く方法はある。
彼女が彼を受け入れればいいだけだ。
たとえ一夜でも構わない。
自分の作った麦粥を美味しそうに食べる雪花を横目で見る。
——言えないだろ、そんなこと。
王子は深い溜息をついた。




