町6 お願い
デイジーに教わったように、雪花は目を閉じると、親愛を込めて琥珀石にキスをした。
ゴッと音がする。
顔を上げると、王子がカップを落として、口元を手で覆っている。
「どうしたの?」
王子は何度も瞬きを繰り返す。
「………い、いま。キスを?」
「あぁ。湯屋で知り合った女の子に教わったの。毎日、お願いしてキスすると、石や鉱物も応えてくれる事があるんだよって。指輪が抜けるようにやってみようと思って」
王子が口元を抑えたまま、目を泳がせた。
「毎日なのか?」
雪花はキョトンとしている。
「そう。毎日」
ボンクラ王子はカップを拾って、ランプ台に置くと。
「……寝る」
そう言って、布団の中に潜ってしまった。
雪花は小さく小さく呟く。
——今日のボンクラは、すごく変だわ。
彼女もランプ台にカップを置き、灯りを小さく絞って布団に潜り込んだ。
一応、ボンクラに声をかける。
「おやすみ」
☆
雪花のベッドから寝息が聞こえ始めた頃、王子はベッドの上で肘をついて手に頭を乗せ、彼女を見つめていた。
「………………たくっ」
夜の公園でよく知りもしない男に引っかかって。
腕を掴ませて、名前を呼び捨てにさせたあげく。
男に貰った香水を髪につけるだと?
思わず眠る雪花を睨む。
——なに考えてんだ。
王子は軽く目を閉じて、溜息をついた。
だからと言って、あの態度は我ながら子供じみていたな、と反省する。
どうも、彼女に関して感情が制御できない。
酒のせいかとも思ったが、ビール一杯で酔うほど弱くないはずだ。
目を開いて、改めて彼女を見つめる。
ランプの光にボンヤリと照らされ、浮かび上がる彼女は昼間と様相が違う。
黒く艶やかで豊かな長い髪が、波のようにベッドの上に広がっている。
布団の上に投げ出された華奢な白い腕は、袖が捲れて肘の内側が見えていた。
穏やかに眠る横顔に、花弁のような紅い唇がのぞく。
王子はゾクゾクと這い上がってきた感覚にキツく目を閉じる。
雪花が指輪に口づけした時、彼は自分の唇に触れる滑らかで柔らかい感触に驚いた。あんなにリアルに感じるとは、想像していなかった。
琥珀石と自分がシンクロしていることは、指輪を贈られた時に聞いていた。
彼が十五歳になり、成人した時、両親に贈られた物だ。
指輪を抜きたいのは分かってる——だが。
「毎日、キスするのか? 俺は、それで平気でいられる自信はないぞ」
自信はないが、下手に手を出しても八つ裂きにされるだけだろう。
湖での刺客を思い出す。
この娘、害する者には容赦がない。
「………………たくっ。境界魔法はどうしたんだよ」
結局、彼女が王子との間に境界をつくったのは、最初の野宿の時だけだ。
——自分で嫁入り前の乙女だって言うくせに。
彼女の寝姿を見ないように、王子はランプの灯りを消して、布団に潜り込んだ。
☆
翌朝は雪花の方が早く起きた。
さすがに下着になるわけにもいかず、服のまま寝たから皺が寄ってしまった。
「………買ったばっかりなのにな」
服を引っ張って皺を伸ばす。
髪を編んで隣のベッドを見たが、王子はよく寝てるようだ。
昨日は不機嫌だったが、疲れていたのかもしれない。
町に着くまで大変だったわけだし。
雪花を助ける為に、ボロボロになっていた姿を思い出す。
酒場に置いてきた事も怒ってた。
もの珍しかっただけで、好きな場所では無かったのかもしれない。
悪いことをしたのかも。
「………反省するわ」
覗き込むと、妖精の銀様とは違う方向で整った顔がある。
少し日に焼けたようで、肌の色が濃くなっている。
「睫毛、長いのね」
もう少し眠らせておこう。
またしばらく、ベッドで布団に包まって眠ることは出来ないんだから。
外の水場で顔を洗っていると、卵を持って来たお婆ちゃんが赤髭の親父と話していた。今日の朝ご飯は卵かもしれない。
「よお、お孫さん元気か? 城の騎士団に奉公してるんだろ。大したもんだなあ」
「あの子は元気だよ。けどね、王太子が御病気らしい。そんで、今度の討伐は黒曜様が行くそうでな」
お婆ちゃんが肩を落としている。
「そうなのか? まあ、黒曜様なら間違いなかろうけども」
「そうだけど、魔物討伐なんて心配だよ。なんつっても、いつも討伐は王太子様が率先して行かれてて、黒曜様は殆ど経験がないのさね。経験のない指揮官は無茶するから」
雪花は耳をそば立てて聞いていた。
「そうだったか?」
「そうなんだよ。黒曜様は知識人の学者タイプだから」
「ああ、そう聴くな。王太子はボンクラだが、現場主義だそうだから」
「無事に終わればいいけど………」
雪花は首を傾げながら部屋に戻った。
部屋に戻ると御病気の王太子が寝ぼけ目で座っていた。
「おはよう」
「おはようございます。王太子様」
ボンクラ王子は目を点にして雪花を見たあと、疲れたように眉を下げた。
「嫌味か何か?」
「違うの。なんかね、お城には王太子様が居て、御病気らしいのよ。でも、ここにも居るじゃない?」
王子は大きく欠伸をした。
「あぁ、それは影武者だ」
「影武者」
「俺が城にいた時も二人居たよ。御病気なのは、近くで見ればバレるから」
雪花がポンっと手を打つ。
「なるほど。でもね、それで黒曜様が魔物討伐に行くらしいのよ?」
王子は少し考えていたが、納得したらしく立ち上がった。
「あいつは優秀だ。心配ない。顔洗ってくる」
アレは信頼というものなのか、随分と素っ気ない。
「まあ、あたし、兄弟いないからなぁ」
そこで育まれる感情は、よく分からない。
部屋を出たはずの王子が、扉を開いて顔を出す。
「雪花、思い出したんだけど。願い事を祈る時は、早朝が良いらしいぞ。新しい陽の光の中が一番らしい」
「…………そうなの。ありがとう」
彼女は自分の右手薬指を見つめる。
なるほど、新しい陽の光の中か……。
窓の光に琥珀石をかざして、キラキラ光る煌めきに魅入る。
——言葉は人を傷つける事もあるじゃない。選んで喋りたいの。
「お願い」
彼女はそっと琥珀石にキスをする。
扉の向こうで口元を押さえた王子が、赤面して目を泳がせているとは知らずに。




