森13 魔女の本領
息も絶え絶えになった王子は、大きな楡の根元に彼女を下ろした。
「……だ……大丈夫か」
「ええ。危うく目が回るところだったけど、大丈夫」
王子がフウッと息をついて転がると、彼女は立ち上がって彼に微笑みかけた。
「ありがとう。お陰で少し休めた」
黒髪の魔女を見上げながら、彼は目を細めて何か言おうとした。
が、彼女がふっと視線を上げたので口を噤む。
「仕上げをしなくちゃ」
——まだ、何かするのか。
彼女は赤く焦げる空を見つめていた。沼のある方だ。
胸の前で祈るように手を組むと、低く、ゆっくりと古語を唱え出す。
不思議な節のついた呪文だ。彼女の体が細かく震えてゆく。
王子は跳ねるように上半身を起こした。
——雲が。
赤く染まった空をなだめるように、湧き立った黒雲が集まってゆく。
雪花が瞼を閉じ、静かに両手を広げて魔法を放った。
「命の泉、流れる血潮、清らかなる我が友、降り注げ、洗い清めよ」
彼女はグラッと揺れると、楡の木に寄りかかるようにして崩れ落ちた。
遠くで激しく雨が降り始めた音がする。
気象を操る魔法は、最高峰の魔法だ。発現できる魔法使いは限られ、今のルシア国には居ないと言われていた。近隣の国を探しても、一人、二人、名前が上がるだけで実際に見たのは初めてだ。
王子はあんぐりと口を開けて空を見上げていた。
雪花はグッタリと動けない。魔法力は魔法使いの体力と気力に支えられている。
そのどちらとも、ギリギリまで使ったようだ。
森が炎で燃えてしまわないように、彼女は全力を出した。
本当は例え草木の一本でも焼きたくなかった。
薬にする、食事に使う、家や暖房目的で——人は草木に頼るけれど、どれも意味はあると思ってる。
だが——ただ燃やすのはダメだ。
沼地の瘴気が濃くなかったら、使わないでいるつもりの魔法だった。
彼女は口の中で草木に小さく謝る。
——本当にごめんね。
王子は目を見開いたまま、雪花を見た。
「………何者なんだ?」
掠れたように小さな声で彼女は言った。
「魔女だけど?」
彼女は白い手を上げて王子を呼ぶ。
「ねえ、少しこっちに来て」
王子が戸惑うように彼女の側へ寄ると、冷たい細い指が額に当てられる。
囁くように呪文が唱えられると、王子の体がポウッと光った。
「雪花? これは?」
「解毒魔法よ。ボンクラ、リトゥーチャに噛まれてたでしょ。しばらくしたら動けなくなるもの」
彼女は自分の額にも解毒魔法をかけて、力なく腕を下げた。
「少し待って。ちょっと休めば動けるようになるわ。そういえば、その剣も魔法が施して——」
言いかけた雪花の眉間に皺が寄る。
王子の耳にも獣が唸る声が聞こえた。
瘴気は彼らを休ませるつもりは無いようだ。
振り返った王子は、赤い目をしたヴォルクを睨みつけた。
息を大きく吸って剣を構える。
ざっと見でヴォルクは五頭。
——雪花は動けない。やれるか?
一番大きな一頭が頭を下げて唸る。
跳躍したのが合図になった。
王子は飛びかかって来たソイツを両断する、その横から襲いかかってきた一頭を雪花が魔法で搔き消す。
新たに飛びかかってきた一頭を蹴り倒し、その首を断つ。ヴォルクは濃い黒い霧に戻って霧散した。
王子が肩で息をつく。
——あと、二頭。
動けない雪花を狙って牙を剥き、跳躍したヴォルクをその背後から断ち切る。
彼女の目が大きく見開いた。
左肩に違和感と重さを感じる。背を向けた所を噛みつかれたようだ。
「くそっ」
剣を持ちかえて、体の横から後ろ向きにヴォルクを深く刺す。怯んで口を離した隙に踵を返し、ヴォルクに刺さった剣を両手で握り込む。力任せに引き上げると、ヴォルクは霧に返って霧散した。
王子は、すぐさま雪花に走りよった。自分が噛まれたということは、雪花が噛まれたという事だ。
「雪花、大丈夫か? おい、雪花!」
彼女はグッタリとして返事をしない。
マントを捲ると、灰色の服が血液で黒く染まってゆく。
頰は微かな赤みを失い、紅かった唇が紫へ変化している。もともと白い肌が蝋のように白さを増していく。
グッタリと力のない体が冷たくなって、長い睫毛に縁取られた瞼は痙攣するようにピクピク波打った。
王子の全身が強張る。
——死んでしまう。
一瞬息ができなくなった。パニックを起こしそうだった。
自分の代わりに、この娘が死んでしまう。
そんなこと——。
ギリッと奥歯を噛み締めて、自分に向かって怒鳴った。
「落ち着け、とにかく止血だ!」
逆上しそうになる気持ちを、押さえつける。
感情に飲み込まれている場合ではない。
王子は自分の服の袖を千切って、彼女の左肩をキツく縛る。
隙間に枝を入れ込み、絞れるだけキツくする。
上半身を楡の木に寄りかからせ、傷口を心臓より上にする。
——火を起こして、湯を沸かしたい。風避けの出来る場所は何処だ?
動かすことに躊躇いはあったが、このままにはして置けない。
自分のマントで彼女を包み込み、ゆっくり抱き上げる。
その体の軽さに不安を感じる。
体の小ささは、失える血液が少ない事を意味していた。
——頼むから、死なないでくれ。
王子の願いに答えるように、琥珀石の指輪が光っていたことを彼は知らない。
彼女の右手はマントにスッポリ包まれていたから。




