戸惑いの空間 ①
どうにかこうにか、彼に会えたところまではよかった。
「そこを押したら湯が出る」
「えっと……」
「そこ。緑のやつな」
「こ、これ……?」
小祈は彼が指先で示してくれたものを見下ろした。
まるで洞窟の中にいるかのような薄暗さだが見えないほどではない。
小祈の目が捉えているのは、黄色と緑色のレバーと銀色のつまみ。
「湯の温度はその銀のやつ、水の勢いは黄色のそれで調整する……分かったか?」
「え、ぅ、あ。うん……」
「あと、ムゥクノミは全身に使えるから好きに使ってくれ。予備はいくらでもあるからな。着替えはオレのでよけりゃ貸してやる」
「む、むぅ……? あ、あの、ありが、と」
それじゃごゆっくり。
最後にそれだけを言って彼は出て行った。
小祈が取り残されたのは二畳か三畳ほどの空間。その奥に人ひとりが入るのが限界そうな狭いスペースがある。先ほど彼から説明を受けた二色のレバーとつまみがあるのがこの狭い場所だ。
入浴したいのに設備の使い方が分からないと彼に告げたところ、案内してくれたのがここだった。ちなみにお風呂や入浴とは言わず、「湯を浴びる」という意味でルヲムと言うらしい。
青い壁の上方に白い籠がぶらさがっている。おそらくだが、そこに脱いだ服を入れるのだろう。
しかし小祈は最後まで言えなかった。
言語形態は、ほぼ同じらしい。だが、一部の単語が分からないのだと。
この世界ならではの固有名詞だと思うが、果たしてムゥクノミとは一体なんなのだ。
彼は優しそうに見えて、ぶっきらぼうな面もあるらしい。小祈に説明が通じているかどうかも気に留めず、ぱぱっと説明だけして出て行ってしまった。
きっと困らせてしまったのだ。数分前にした自分の発言を後悔する。
どうして一緒にいて欲しい、なんて言ってしまったのだろう。
本当なら、助けてくれた礼を告げたら戻ろうと思っていたのに。
不本意にも、内なる自分が悪戯をしてくれた。
彼を前にした途端、元々上手ではない言葉がもっと拙くなった。それをいいことに、隙ありとばかりに勝手な意思表示をしてくれたのだ。
確かに彼の姿を見つけたとき、もう少し一緒に過ごしてみたいという気持ちにはなった。
だが、そんなこと言えるわけがない。
何故なら彼とは今日──もしかしたら昨日かもしれないが──出会ったばかりだ。
初対面なのである。しかも、異性。おまけに、小祈は彼らにとっては得体の知れない世界の人間だ。
迷惑である前に困らせてしまうことくらい想像できただろう。
こういうとき、シミュレーションゲームのように選択肢が現れてくれたらいいのにと思う。
これがゲームであれば、ロードをし直して失敗なんてなかったことにするのに。
しかし、ここで落ち込んでいても仕方がない。せっかく彼が説明してくれたのだ。ひとまず入浴してみようと小祈は服を脱ぎ出した。
脱いだものは籠の中へ。裸になって狭い場所に入ると、先ほどの三色の前に立った。
黄色と緑色のレバーに銀色のつまみをじっと見下ろす。
(……確か、緑で湯が出るって言ってたから……)
彼の説明を思い出しながら、小祈は緑色のレバーを下ろした。
「んぶっ」
その瞬間、あたたかな湯が小祈の身体へと降り注ぎ始めた。
いや、降り注ぐというよりは噴出したという表現が正しい。それも正面と右側と左側の三方向からぶしゃーっと。
顔の真正面から勢いよく噴き出したものだから、それはもうしっかりと湯を被った。
口に入った湯には、気のせいかほんのりとした塩気。弾けるような勢いの強さに目も開けられず、調整用だと聞いていたつまみを手探りで掴んだ。
誤ってこれ以上強くならないようにとおそるおそるつまみを捻る。時計回りで捻ろうとしたら勢いが強まるのを感じたので、逆時計回りに。すると少しずつ湯の勢いが衰えていく。
(……びっくりした。まさか壁からお湯が出て来るなんて思わなかったな……)
ようやく開けられるようになった瞼を持ちあげてほっと一息つく。
それから周囲をよく観察してみると青い壁に小さな穴が複数空いていることに気付いた。そこから湯が噴出するようになっているらしい。
どうやら、この世界でのシャワーは壁に内蔵されているものらしい。名称をシャワーというのかは不明だが。
(えっと……シャンプーは……ない……)
もしくはそれに代わる何かはないだろうか。視線を彷徨わせれば、膝あたりの高さに小さな箱が置かれているのを発見する。
石鹸を求めて開けてみると、ターコイズブルーの物体が収められていた。
なにやら果実のようにも見えるそれは、ライチほどの大きさだった。それを手に取ってみると、硬く厚そうな殻に覆われた中でちゃぷちゃぷ、からからと揺れる気配がある。
(ムゥクノミ……ムゥクの……ムゥクの実?)
彼が言っていたものの正体に気付いて、指先に少しの力を込めてみた。
すると、硬い皮は意外と脆くちょっと押し込むだけで簡単に破れてしまった。そこからじゅわっと果汁があふれ出し、降り注ぐ湯に当たって泡立ち始める。
(わー! すごい! 果実が石鹸なんだ!)
顔を近づけてクンと鼻を鳴らす。鼻腔に入り込んだ香りはレモンに似た爽やかさだった。
──うむ、悪くない香りだ。
ムゥクの実の香りに不安をさらわれて、少しだけ気持ちが軽くなったように思う。
まだまだ不安や気になることはあるが、今だけでも忘れられそうだ。
だって、手の中で泡立てたムゥクの果汁はこんなにも気持ちいい。ふわふわで、もこもこで、手の上で弾むようにぽふぽふと揺れる。
肌を包み込む優しい心地が小祈の身体を緩めていく。彼は全身に使えると言っていたから、髪を洗うのにもいいはずだ。
泡を馴染ませるようにしながら顔面に張り付いた前髪を掻きあげる。
目を閉じて、目を開けて──そこで、まだ名前も知らない彼の幻覚を見た。
その人の銀糸の髪と紺碧の瞳は、まるで月明りと夜の海。
後ろに結った長い髪を靡かせ、きらきらと光る銀色には眩しささえ感じる。
鼻先が触れ合いそうなところにまで近づいた彼の顔は、最早目の毒と言っていいほどに美しかった。
実は、素晴らしく解像度の高いコンピューターグラフィックで描かれているのではないだろうか。こんなにも美しい人を小祈は見たことがなかった。
ディープブルーの瞳と目を合わせると、不思議と見つめていたくなってしまう。
夜目の利いたふくろう──いや、獲物を探して漂うサメのような鋭い眼差しが小祈を捉えて離してくれない。
だから、つい惹きつけられてあんなにまで近づいた。小祈が爪先立ちをしたら、キスしてしまえそうなくらいに。
彼もまた小祈と同じような感じでいるように思った。
ほんの一瞬だけ二人の間で漂った空気は甘かったように思う。
そのあとで小祈は「私と一緒にいて欲しい」なんて言ってしまった。
それから、素足で歩いていることを気に掛けてくれた彼が小祈を抱えてくれて。
生まれて初めて異性と密着したというのに、不思議と緊張はしなかった。それどころか、安堵を覚えてしまった。
そして、今に至る。
彼の部屋へと連れられ、小祈は現在シャワーを浴びている真っ最中。
この世界の男女がどういうものなのかは知らない。
だが、自分は随分と大胆なことをしているのかもしれない。そのことに小祈は気付いてしまった。
かーっと熱くなった頬は、果たして湯のせいか、否か。