どうしてそうなる
「なんでこんなとこにいるんだよ!」
解けた緊張はすぐに違う緊張へ色を変えた。
女が顔を出しているところまでずかずかと歩くと、白い腕を引っ張って立ち上がらせる。
「またアイツらが来たらどうすんだ、あぶねぇだろ!」
掴んだ腕は、力を込めたら簡単に折れそうなくらい細かった。
それこそ、あの大男の手に掛かればいとも容易く。
抱きしめた身体と同じようにすべてが華奢だからこそ、心配になった。出会ったばかりでなんの関係も築いていない、名前も知らない相手だとしてもだ。
立ち上がらせた際に黒髪が揺れたが、前髪の厚さで変わらず表情は見えない。
唯一見えているのは口元だけ。その小さな赤い唇がぱくぱくと動いた。何か言いたそうな動きだった。
そこでアルヴァルクは、声を荒げてしまったこと怖がらせてしまった可能性に思い至る。
自身を落ち着けるように息を吐いてから、彼女の腕を離した。
「……周りに誰もいなかったら、助けられねぇだろ?」
ひとまず安心させるべく、アルヴァルクは努めて優しい態度を心掛ける。
彼女が何歳なのかは知らないが、年上ではきっとないだろう。幼子にしてやるかのように頭を撫でてみた。
分厚そうな髪型をしているので硬いのかと思ったが、その感触は想像よりもなめらかだった。指通りの良い感触に手が止まらない。
ずっと撫でていたくなり、少しのつもりがついつい長くなる。
「……いや、何か言ってくれよ」
ハッと我に返って、ようやく手を止める。こんな誰もいない場所で女の髪を静かに撫でているなんて、傍から見れば甘い恋人のようにしか見えないだろう。
髪を撫でているあいだ、彼女は終始無言だった。アルヴァルクの指摘にさえも何も言わない。
赤い唇がまたぱくぱくと動いた。しかし、声は聞こえない。
(やっぱ言葉が通じてねぇのか?)
そういえば、彼女が言葉らしい言葉を紡いだところを見ていない。あのとき聞いた「助けて」という声は、やはり気のせいだったのだろうか。
ふと、とある男の姿が頭を過る。
先のリィジュで、機嫌悪そうに三つ編みの先端を弄っているところを見たばかりだ。
もしかしたら今頃、大切な客人がいないことに気づいて大慌てかもしれない。
(仕方ねぇ。面倒だが一旦アイツのとこに連れて行くか……)
どうかいらぬ責任を問われないことを祈って、アルヴァルクは彼女の手を取った。
青白いアルヴァルクの手は、彼女の白い手首をぴったりと覆う。その細さに、胸の奥がきゅっと締め付けられた。
「……とりあえず、今から陰険や──いや、ティアハイレン王子のところに行く。アレだ、あの緑髪のヤツ」
──と言ったところで通じないかもしれないが。
胸の奥を締め付ける小さな痛みを受け流し、彼女の手を引いて歩き出そうとした。
しかし、掴んだ細い手首にわずかに力が入って、ぐっと引き止められる。
その拍子に振り向いた先には、表情の見えない女。胸元には不安げに握り締められた小さな白い拳がある。
はふ、と女が小さく息を吐いた。
「…………あり、が、とう」
やや間を置いてからアルヴァルクの耳に運ばれてきたのは、極々小さな女の声だった。一生懸命絞り出したかのようなか細さだ。
気のせいでなければ、ぎこちない呟きはよく知る言語で紡がれていた気がする。
「なんで“ありがとう”?」
脈略のない御礼の言葉に、首を傾げる。
これから世話を焼いてもらうから、と考えれば間違っていないかもしれない。
きょとんとした視線を注ぐと、女は『う』や『あ』と何やら呻きながら理由を紡ぎ始めた。
「たす、……たすけて、も、もらった……から」
──助けた?
疑問に思うも、彼女が言う『助けてもらった』という場面は今ではなく過去のことだと気付く。
なるほど。腑に落ちると、自然と口元が綻んだ。
「ハハッ、ちょっと遅くね?」
「あ、……う……わ、私、だから、あ、会いたくて……あなたに」
「それでわざわざ抜け出してきたのか?」
「う……え、と。……ちょ、ちょっと、探検、ついでに、したかった」
「探検って、アンタ……おもしろいな」
脈略のない礼の理由を知ってから沸々と込み上げていたが、もう駄目だった。
ぎこちないながらも言葉を一生懸命紡ぐ姿とずれた回答が、ツボに入ってしまったらしい。身体を少し折り曲げて、くつくつと湧き上がる笑いの衝動を押さえる。
「ククッ……はー、まあ、そりゃしたくなるわなぁ探検。アンタが来たトコとは違うだろうしよ」
「う、あ、はい」
「でもアンタ、こっち来たばっかで何も分からねーだろ? 言葉だって、分かんなかったんじゃねーの」
「え、と。あ、の……うん……」
「そんな早まらなくても、明日になりゃ案内くらいしてもらえるだろうさ」
「あ、……そ、れが、そ、の」
「まあ、それでもわざわざありがとうな」
実は自分も会いたかった──という言葉は飲み込む。その代わりに女をそっと見つめる。
彼女の目元は前髪に隠れているから、視線が交差しているかは分からないが。
でも、そのほうがアルヴァには都合が良かった。
直接目が合ってしまえば、また心の奥から惹き込まれそうな気がしていたから。
「さて。言葉通じるんなら、ティアハイレンのとこまで行かなくてもいいだろ。アンタ、部屋の場所覚えてるか? 送ってやるから、今はおとなしく──」
「あ、ああ、あのっ!」
これまでで一番大きな声が女の口から発せられた。遮るような発声にきょとんと目を見張る。
「どうしたよ?」
「──あっ! え、えっと。あ、う」
かと思えば、女は自分で自分の声に驚いたのかわたわたと焦り出す。他に何か用件がありそうなのは間違いないのだが、吃ってばかりで要領を得ない。
そういえば、彼女はアルヴァルクが話しているあいだも何か言いたげだった。
せっかく言葉にしてくれても、彼女の口から紡がれるものはとても拙い。異世界の相手を前に緊張しているのだろう。
「ゆっくりでいいから、言ってみな」
見張り番に見つかる前にどうにかしたいところではあった。だが、無理に急かすのもどうかと思いひとまず待つことにする。
改めて、彼女としっかり視線を合わせるべく身を屈めてみた。
(……前髪が、やっぱ邪魔だな)
手を伸ばして、厚い前髪を横に滑らせたい。
その下に隠れる瞳と見つめ合って会話がしたい。
もっとちゃんと、彼女の顔を見たい。そんな衝動に駆られる。
もう、直接目を合わせたくないと思った少し前のことを忘れたとしか思えない。
アルヴァルクの手は、考えるよりも前に動いていた。
彼女の黒い前髪にそっと触れると、指先が通りの良いさらさらとした感触を纏う。
一瞬だけ女の肩がぴくりと跳ねたが、とくに手を払われたりはしなかった。
天幕を開くように前髪を横に滑らせる。すると、すぐに大きな黒い瞳と出会えた。
大地の青さと通路の端でぶら下がるコルチェ球の明かりが入り込み、彼女の黒い瞳がきらりと輝く。そのなかにアルヴァルク自身が映り込んでいる。
まるで彼女の瞳の中に閉じ込められているかのようだ。
ずっと見つめていると、吸い込まれそうな気がしてくる。不思議な引力を持った眼差し──。
気付けば、鼻先が触れ合いそうなところまでお互いの距離が縮まっていた。そのことに気が付いて、アルヴァルクは内なる者に意識を奪われたことに舌打ちする。
もう口づけをしていてもおかしくないくらいの距離だった。それでも女はまた拒否もせず、黙ってアルヴァルクを受け入れようとしていた──ように見える。
危うく触れかけた小さな赤い唇が言葉を紡ぐべく開かれる。
彼女が告げるのは、拒絶か受容か。さすがにここまでしたら前者だろう。アルヴァルクはそう思っていた。
「わ、私と、……い、いっ、しょに、いて、ほしい」
どうしてそうなる。
受容どころか、魅惑的なお誘いだとは思いもしなかった。