なぜか気になる
「アサはウェジェでオヒルはティラ。ユウガタ……がつ、つあろ……? かな。そしてヨルがリィジュ……」
そんな長い前髪でよく書けるな、と思いながら白い手が書き記す文字を眺める。
アルヴァルクの知っている言語とは違う、見慣れない文字の羅列。先ほど教えたばかりの事柄を記しているのだろう。アサだとかオヒルだの、独自の単語を当て嵌めながら。
ひととおり書き終えて、女がぱっと顔を上げる。相変わらず顔の半分を隠している髪は海藻のようにのっぺりとし、頭はラクォのように丸い。
その向こうから確かに感じる。きらきらと輝いている、期待の籠もった熱い眼差しを。
「そ、それでそれで? じ、ジカンはどういう流れ? ど、どういうふうに測るんですか? イップンはイチビョウ?」
懸命に質問を重ねてくれる彼女に、内心でやれやれと息を吐く。まず、こちらがイップンイチビョウを理解してからである。
アルヴァルクの目の前にいる彼女──コノリと名乗ったこの女は、例の召喚によってフラル・ズエラから呼び出した乙女だ。
言葉が通じないと思われていたが、実はそうではなかったらしい。自身の置かれた状況への戸惑いが大きく、何を話せばいいか分からなかっただけだそうだ。それに、元々人との交流は苦手なために余計喋れなかったようだ。
少々の手間をかけて話を聞いてみた結果、彼女の世界とこちらは随分と違うと知った。
曰く、時の巡り方さえも。
ツキやタイヨウという、ソラに浮かぶ途轍もなく大きな光。それを時の象徴とし、海上の世界が明るいのはそれらの存在が影響しているそうだ。
そして、こちらでいうリィジュ──ヨルには、無数のホシが輝く。
そう語ったコノリに「一体どんな景色なんだ」と問えば、こちらに通じる単語を探そうとしたのか彼女は考え込んだ。
しばらくしてから、「たくさんのホタルイカが浮かんでいる感じ……」と遠慮がちな答えがあったものの、今度はホタルイカとやらが分からない。だが、特徴を聞いてみると、こちらではフォ・キマと呼ばれているキマの仲間であるとが分かった。
コノリは、未だなんの説明も受けていないらしい。祭儀殿での騒動後から、ずっと放ったらかしにされているとのことだ。
それが今に至っている原因である。ガレオン本宮から離れた場所にある自室で二人きりで過ごしている、理由。
コノリに貸しているメル樹皮製の雑記帳と墨棒──彼女はこれをノォトとペンと呼んだ──は、アルヴァルクの私物である。
コノリから少し視線を外し、壁にぶらさがっている球体に目を向ける。
彼女が語ってくれた「トケイ」。数を細かく刻んで、時の巡りを計測する道具の名前。
こちらではおそらくこの球体──コルチェ球が該当する。
これを見た乙女は、「ゲェムノアイテムみたい」というよく分からない感想を漏らしていた。
ゲェムとはコノリの好きな物らしいが、詳細はまだ聞けていない。
彼女曰く、フラル・ズエラ──改めチキュウのニッポンでは「ナンジナンプンナンビョウ」と数字で時の流れを表わすらしい。
しかし、アティル・ズエラでは違う。数字を数えることくらいはあるが、体内が知らせる感覚で測っている。
この世界の人々は、全生命の生みの親である創世龍セイレーンによって、シィピィやザゼを始めとする海獣が進化を重ねて人の形となった。
これは本能で生きる海獣として過ごしていたその名残らしい。
アティル・ズエラでは、コルチェ球が放つ光の色の滲み方を見ておおよその時を測る。
使われている色は、四つ。
緑──人々が夢から目覚め始めるウェジェ。
蒼──人々が活発に動き始めるティラ。
金──人々が憩いを求め始めるツァロ。
そして、銀──人々が眠に就くリィジュ。
コルチェ球が放つ光は、少しずつ色を滲ませるように、緑から青へ、青から金へ、金から銀へ、銀から緑へという流れを繰り返す。そうして一巡りしたところで一区切りとなる。
コノリが言った「イチニチ」というのが、こちらで言う「一巡り」に値することが分かっている。ちなみにイチニチを数字で言い表すと、二十四ジカンとなるそうだ。
(……なんでこんなことになってんだか)
コノリに対してこの世界のことを懇切丁寧に教えてやるのは、アルヴァルクの仕事ではない。本来であればエスメルゼやアンゼ、もしくはデュゼがやることだ。
やれと言われたらやらざるを得ないが、自ら面倒なことには関わらない。
それなのにどうしてこうなったのか──それは、彼女を拾ったからである。
コノリの世界の言葉を借りて言うなら、おそらく「イチジカンマエ」の出来事になるだろう。
▲▽▲
頭から、身体から、ずっと離れないものがある。
それはあの彼女を抱き締めたときの感触だった。
騒動の後始末に参加させられたあとで、アルヴァルクはいつもよりも遅く馴染みのラザガに顔を出した。
いつもであれば、果実から造られる酔い雫を味わい、偶々一緒になり楽しい時を共にした女と気持ちの良い夢に溺れる。それが常だった。
だが、どうしてもそんな気になれない。
食事や会話を楽しんでいるあいだも、頭の中ではずっと乙女の姿がちらついていた。おまけに、腕には華奢な身体に触れた感覚がずっと残っている。
見えないだけで未だ腕の中には彼女がいるのではないかと、そう思ってしまうくらいに。
(……なんでこんなにも気になっちまうんだか)
フラル・ズエラという、伝説でしか知らない世界から来た女。
まずそれだけで、一体どういう人物なのか気になってしまうのは当然ではある。
アルヴァルクも機会があれば話をしてみたいと思うには思ったが、現在抱えているのはそういう“気になる“ではないのだ。
存在自体が気になるというよりも、ずっと前から彼女の存在が自分の中にあったような。
──なんだか、よく分からない感覚だ。
「はぁ……いつまで続くかねぇ、この調子は」
思わず胸中ではなく口に出してしまう。
これまでも、女に出会う前からあった心のざわつきによって集中を乱されたことはある。
だが、ちょっと意識が別方向に逸れてしまうくらいで、すぐさま気を取り直せていた。
それなのに、どうにも気分が乗れず夢のような誘いを断ってしまったのは初めてのことだった。
ぼんやりと歩いているとガリュークス本宮の前まではあっという間だ。
立ち止まって巨大な建物を見上げる。
ザゼのヒレを模しているという三角状の建物、その側面に明かりがちらほらと見える。各部屋にあるコルチェ球の光だ。
彼女はあの中のどこにいるのだろう、とふと考えそうになって首を振る。
──それを知ったところで、どうするというのだ。
これ以上は自分の仕事ではないからと、ティアハイレンに預けた女の姿が脳裏を過る。
今頃何をしているのか──と、少し油断すればどんどんと彼女の事を考えそうになる。
ひとつ息を零すことでそれを振り払い、爪先を目指す方向へと向ける。目の前にある本宮──から横に逸れ、目立たない通用門の先にある離宮へと。
通用門をくぐると、道しるべのように並ぶ銀混じりの金光に出会う。
青い植木に囲まれた通りは静けさに包まれていた。遠くのほうに見回り番の姿を見かけるが、人の気配はほとんどしない。
しばらく歩けば、やがて見慣れた建物が見えてくる。
祭儀殿のような半球型だが、当然それよりは小さい。でも独りで過ごすには充分なくらいの広さはある。
ほとんどの人は夢見の中にいるだろうが、個人的にはまだ寝るには早い。
それに、眠るためにはまず己が抱えているものを忘れなければ無理だろう。
軽く湯を浴びたら、一人手酌でもしようか。
そこでアルヴァルクは足を止めた。ふと、視線を感じたのだ。
(……何だ?)
背中に突き刺さった視線の先を探して背後を振り返る。
だが、そこにあったのは静かな風景のみで誰もいない。
気のせいか──そう思った視界の端で動いたのは、黒色だった。
(まさか……!)
あの靄を思わせる黒に緊張が走る。また彼女を攫おうと侵入してきたのだろうか。
すぐに応戦できるように、掌の中で硬質な棒状のものを形にしていく。アルヴァルクの得物──三角刃の槍をその手に掴む。
だが、影から顔を覗かせた物体にすぐに緊張は解けた。
その様子は、まるで壷からひょこっと身を出すラクォの如く。
全体的にもっさりとした印象。海藻が張り付いているかのような長い前髪。それによって半分が隠された顔。
「お前……」
例の乙女だった。