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夢見るように落ちて

 いつからか何度も繰り返し見るようになった夢がある。

 それは小祈が四歳になったばかりの記憶を再生したものだ。


 始まりはいつも暗い水の中に一筋の光が差し込んでいるところから。

 夢は当時の小祈の視点で進行する。


 ぷくぷくと上昇する気泡が光に反射して、まるで宝石のような煌めきでチカッと瞬く。

 空の天辺にまで昇った陽射しは小祈の膝元にまで届いている。

 四歳にはまだ早い大人用のプールの底。その角で小祈は膝を抱えて座っていた。


 昔から小祈は水の中にいるのが好きだった。


 赤ん坊の頃から入浴時はとてもご機嫌だったという。

 二十歳となった今でも振り返れば、お風呂の時間になれば喜んで入ったし、嫌いなおかずだって「食べ終わるまでお風呂はだめ」だと言われれば泣きながらでも食べた記憶が微かにある。

 泳ぐより浸かっている方が好きで、一緒になって母や父が遊んでくれると冷たい水にいるはずなのにあたたかい気持ちになる。

 庭に出してもらったプールの時間は楽しくて、夏が終わるのを毎年寂しく思っていた。


 この頃の小祈は今よりも感情が豊かで、家の中もあたたかかった。

 父と母もまだ仲が良く、至って普通の家庭で、至って普通の幸せを享受していたと小祈は思っている。


 それが壊れたのは、この夢──この記憶がきっかけだ。


(あ…………)


 夢の終わりが近づいている。

 そう思った理由は、飛び込んだ男の人が小祈へ向かって泳いできていたからだ。


 あの男性は、両親の訴えで姿の見えない子供(自分)を救出しにきた監視員だ。

 プールの底で子供が沈んでいるようだという目撃情報を聞いたらしい。その話を聞いた両親はさぞ青ざめたことだろう。

 何故なら、沈んでいると聞けば普通は溺れたと思うはずだからだ。


 でも、小祈は普通ではなかった。

 小祈がプールの底にいたのは、溺れていたからではない。

 知らなかったのだ。親の目がこちらを向いていない隙に浮き輪をプールサイドに置き、好奇心を押さえられずにプールへ飛び込むまで。

 水の中にいつまでも潜っていられることなんて。

 ただ水の中にいるのが気持ち良かっただけの行動だった。

 鼓膜をくすぐるちゃぷちゃぷという水音は子守唄で、誰かが飛び込んだときに起こる振動はまるで揺り籠のようで。


 もう何分そうしていたのかは覚えていない。

 だが、娘の姿が見えないことに気付いた両親を慌てさせるには充分な時間があったようには思う。


 あっという間に至近距離へと迫った男性が、小祈の脇の下に手を差し込み、上へと向かって底を蹴った。

 急上昇に、水圧が身体全体へとかかる。数秒後にはその圧もなくなり、小祈は光にあふれた水上に顔を出していた。


『気持ちよくてずっとお水の中にいたの』


 夢は、小祈が駆け付けた両親に向かってそう報告したところで終わる。

 夢の終わりはいつもこれだった。微妙な表情をする両親の顔で締めくくられ──そして、目が覚めるのだ。






 ──眩しい。

 閉じている瞼を貫くほどの眩さに、夢の中にいた自意識を刺激される。

 緩やかに覚醒して、もう朝が来たのかと残念な気持ちが押し寄せる。

 カーテンを閉じ忘れてしまったのだろうか。煌々とした朝日に憂鬱さを覚えながら、小祈はゆっくりと瞼を持ち上げた。


 すると、身体がぷかぷかとした浮遊感に包まれていることに気付く。

 まるで水の中にいるときのような心地で、身体のどこにもベッドの感触がない。長年使い続けているぺしゃんこの枕の感触も、そろそろ洗わなければと思っていたブランケットの手触りも。

 使い慣れた物を探しているうちに、爪先が硬質な感触を捉えた。フローリングよりもつるりとしていて、それからひんやりと冷たい床。

 身体が自然と立ち上がる。いやもともと立っていたのかもしれない。靴下も何も履いていない足の裏が冷たい床を踏んだと同時に眩しさが消えていく。


(え……?)

 

 光が消えたことでしっかりと目を開けると、そこは見知らぬ場所だった。

 薄暗く、青色が広がる空間。

 そして、薄青の肌に尖った形の耳──漫画やゲームの中でしか見たことがないような人々の姿が長い前髪越しに目に入る。


「すごい! フラル・ズエラは本当にあったのか!」

「乙女が召喚されたぞ! 創世の龍セイレーンの生まれ変わりだ!」


 するとその人々が一斉に声をあげ始めたので、唐突な歓声に気圧された。

 一歩後退り距離を取ろうとするも、すぐに背中が硬い何かとぶつかってしまい叶わなかった。

 ちらりと後ろを覗くと、大きな水晶玉に戸惑う自分の姿が映り込んでいた。


(何? 何なの……?)


 そういう場に縁がなければピンとこない表現だったが、今ならなんとなく分かる。これが所謂「フロアを沸かした」状態なのだろう。

 しかしながら、何に盛り上がっているのかは分からない。状況が掴めない小祈の頭の中に次々と「?」が浮かんでは消えていく。


「ようこそおいでくださった、フラル・ジェヴァ」


 小祈から一番近いところにいた男性が話しかけてくる。

 その男性は例えるならスーツのジャケットのような服装に身を包んでいるが、上着の下は素肌だった。

 銀色の長い髪を垂らした頭の右側には、美しい銀細工の飾り。

 直感だが、頭や服の端々に見える豪奢な装飾に、彼はおそらく王様やそれなりに偉い立場にいる人物だろうと推測する。

 顔にある微かに刻まれた皺から得た印象としては、中年か中年期を過ぎたあたりの年齢だろうか。彼の後ろにサメのような背ビレが生えているのを見て、思い浮かべたのは半魚人や人魚といった種族だった。


(今まで遊んだゲームでも見たことないキャラデザだ……)


 彼らは一体なんという種族なのか。

 自己紹介もないまま、王様らしき男性が何やら続けてくる。


「……こちらの言葉を理解できておるだろうか、フラル・ジェヴァ」

 

 対象の相手がおそらく「フラル・ジェヴァ」という謎の名詞なので、自分が彼の対話の相手で合っているのかと悩む。

 しかし、彼はまっすぐに小祈を見ている。やはり自分に話しかけているようだが、謎の名詞で呼ばれる理由は不明だ。


(……そういえば、ふらるじぇば? ってちょっと前にも聞いたような)


 思い出すのは、二十歳の誕生日を迎えたと同時に届いたメッセージ。

 海へと投げ込んだスマートフォンを拾うために入水した先で、サメのようなけれど龍にも見える何かに遭遇してそれから──。


(いせかい、てんい……?)


 異世界転移とは、最近流行しているウェブ小説や刊行されているライトノベルなどで描かれるシチュエーションのことだ。


 例えば、寿命を全うしたあとで神様に出会って異世界へと飛ばされたり。

 例えば、不慮の事故に遭ったと思ったらいつの間にか見知らぬ世界へと立っていたり。

 例えば、何の変哲もない日々を過ごしていたある日突然、危機に陥っている世界の救世主として召喚されてしまったり。


 自分自身が生まれ住んでいる地球ではない、異なる世界へと移ってしまう話だ。

 もしも今自身に起きていることが現実ならば、状況を説明するのに一番分かりやすい言葉が「異世界転移」だった。

 分かりやすいイコール信じられる、というわけではない。

 もしかしてまだ夢でも見ているのだろうかとジーンズ越しに太ももを抓ってみるが、しっかりと痛かった。


「フラル・ジェヴァ、こちらの声が聞こえてはおらぬか?」


 話し掛けているのに小祈から反応がないことを訝しんだのだろう。先ほどとほぼ同じ内容の言葉が繰り返される。

 こんなときどんな反応をしてみせるのが正解なのだろう。

 職場でも日常生活でも必要最低限の会話程度しかしない小祈にそれを考えるのは難しく、ますます混乱してしまう。

 とりあえず頷けばいいだろうか、とりあえずなんでもいいから声を発してみるべきだろうか。


(痛……っ、頭、が……)


 不意にずきっと痛んだ頭に、小祈は眉を顰めた。

 反射的に額を手で押さえるが、痛みはすぐに何事もなかったかのように消える。


 だが、再び戻ってきた。今度は続けてずきずきと頭が痛み始める。

 一度だけであれば大したことはないのに、繰り返される頭痛に小祈はよろめいた。


(なんか……頭が何かを、思い出そうとしてるみたい……)


 小祈の身体がもたれかかったのは、背後にあった大きな水晶玉だった。分厚く長い前髪の隙間からそこに映された自分自身を見る。

 つるつるとした手触りの中に映り込んだのは、大きな大きな顔。

 小祈の顔よりひと周り──いやそれ以上に大きな顔だった。

 その顔はトカゲのような三角型の輪郭で、青みがかった銀色の鱗に覆われている。それから、頭の上に二本の角があった。


(龍……?)


 大きくてまんまるとした瞳は海のような深い青。だが、そこに小祈の姿は映っていない。

 水晶の中に閉じ込められているのか、それとも自分自身がそのように映っているのか。

 時間にすればほんの一瞬のこと。しかし、その刹那に見つめ合った龍の姿に小祈は言い表しようのない感覚を抱く。


 ──この龍を知っている。何故かそんな気がしてしまう。

 龍なんて創作物の中でしか見たことがないのに。現実には存在しないのに。


 どうしてだろう。

 会ったことがあるような、とてもよく知っている相手のように思えてくる。


「フラル・ジェヴァ、気分が優れぬか? ティアハイレン、医術師を──」


 背後から男性の声が掛かっているが、小祈はそれどころではなかった。

 見つめ合う龍の瞳に自分ではない他の誰かが映っていることに気付いたのだ。

 その姿をよく見ようと懸命に覗き込む。


 種族は同じが、小祈に話しかけてきた男性とは違う短い銀髪の男性だ。

 龍の瞳の中に小さく映っているその姿を目に留めた途端、どうしてだか心臓がどきどきと高鳴り始める。


 会えて嬉しい。ずっと会いたかった。なぜかそんなような気持ちが芽生える。

 まるで知らない自分が心の中に存在しているみたいだ。知らない自分が、彼に会えて嬉しいと叫び続けている。

 この感覚は一体なんなのだろう──そう思って彼をよく見ようとしたときだった。


「逃げろ!」


 誰かの叫びが届く。

 そしてどこからともなくふわりと風が吹いた。

 響く声に振り返った小祈の黒い髪を持ち上げたのは黒い風──否、黒い靄だった。


(なに、これ……)


 不気味な黒さを持った靄が小祈へとまとわりつく。

 人肌のようなぬるさに不快感を覚え手で払おうとするが、頑なに離れようとしてくれない。


(やだ……っ、やだ、なにこれ……っ!)


 次から次へと現れる戸惑いに小祈は混乱を極めていた。

 周囲も異変に気づき、ざわざわし始めている。

 黒い靄は少しずつ形を変え、人の形を取り始め、小祈を抱え込もうとしているようだった。

 無理矢理に身体を持ち上げられている状況に恐怖を覚える。

 じたばたと暴れ抵抗を試みるが、まだ人の形を取っていない靄が手足を押さえてくる。


(怖い……っ、何が起きてるの……っ?)


 乱れた前髪の隙間から見えた景色は、青い空間の中で靄が縦横無尽に飛び交っているところだった。突然現れた靄にほとんどの人々は怯えの色を顔に浮かべ、兵士と思われる人たちが武器を手にしてそれを睨んでいる。


 この様子を小祈は高いところから見下ろしていた。後ろから伸びてきた太い腕に首元を抱えられる格好で。

 高さからして、おそらく背後にあった大きな水晶玉の上だろう。


(うぅ……くるし……)


 太い腕に首だけを支えられ、首から下は宙ぶらりんの状態だ。喉に食い込む手首が小祈に息苦しさをもたらす。

 小祈にまとわりついていたものや空間を飛び回っていた黒い靄は消え、その代わりにフードを目深に被った者たちが姿を現していた。それらが被っているフードは闇に溶け込めるような漆黒で、先ほどの黒い靄を彷彿とさせる。


「お偉いさんたち、召喚の儀ごくろーさん! 早速だがこの女、貰ってくわ! ガハハ!」


 頭の上で地を這うような低音が哄笑する。小祈を絞めつける太い腕の持ち主の声だろう。もがきながらどうにか見上げると、その男も目深にフードを被っているせいで顔の全貌は見えなかった。

 だが闇の中でもはっきりとわかるほどの赤い瞳が小祈を見下ろしている。

 ──どうしよう、怖い。


「父う──エスメルゼ・ハイネリアレオス、お下がりください! 総員戦闘態勢!」

「おっ、やるか? 少しくらいなら遊んでっていいって、言われてんだ!」


 新たに現れた緑髪の男性が推定一番偉い人を庇うように前に立つ。

 小祈を捉えている赤い目の男と、緑髪の彼との間で哄笑と怒号が飛び交う。


(なんで、こんなことに、なってるの……)


 小祈の首を絞める男の腕は苦しいし、何がどうして異世界に連れてこられたのか。状況は理解できぬまま、次々に変化していく。

 苦しさに耐えていると、事態は戦闘へと発展した。

 周囲で金属がぶつかり合っているような音や、眩しい光を放ちながら飛んでいく何かの音が響き渡り始める。


 目の前で繰り広げられる戦闘はまるでVRゲームを遊んでいるかのような臨場感だ。

 だが、これはゲームの中ではなく実際に目の前で起きていることである。


(もう……なんなの……)


 一体、自分が何をしたというのか。

 孤独に生きてきてやっと二十歳という節目を迎えたのに。

 父に捨てられ、母には疎まれ絶縁を言い渡されて。

 愛されていたあの頃を取り戻したくて、どれだけ「良い子」になっても愛されなかった。

 あのサメのような何かにまる飲みにされて死を覚悟したとき、小祈は次に目が覚めたときには新しい人生が始まっていることを願った。


 しかし願いは叶えられなかった。

 どうして突然現れた男に首を絞められる事態になっているのか。

 そして自分は一体、何に巻き込まれているというのか。


 とりあえず、今分かっていることはひとつ。


(もう……苦しい!!)


 そうだ、こんなときは大好きなゲームのキャラクターに倣えばいい。

 例えば、お転婆なヒロインはこんなときどうするか──それを考えれば答えは早くに出た。


 自分を飲み込んだあのサメのような何かを真似するように、大きく、大きく口を開く。

 そして、自分を苦しめる太い腕に向かって小祈は思いっきり歯を立てた。

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