心を騒めかせる予感
※あらすじにも書いてある通り、太陽も月もない世界なのでそれらを連想させるような単語をなるべく使わない縛りプレイで書いています。
時間の流れの解説は、もう少しあとに。
「起きなさい、アルヴァルク」
冷淡な男の声に起こされて、ゆっくりと瞼を持ちあげる。
寝起きでぼやけている視界を調整するかのように、二、三度ほど瞬きを繰り返す。
まず、青色の下衣を穿いた脚が目に入った。
横にしていた身体をのっそりと仰向けに寝返りさせると、うなじのあたりから背中にかけて生えているヒレが寝台に挟まれてくにゃりと折れる。
ようやく目覚めの世界に適応し始めた瞳が、さきほどの声の主──長い緑色の三つ編みを左側へ垂らした青年の姿を映し出す。
冷ややかな赤の眼差しが注がれていることも構わず、アルヴァルクは欠伸をした。
「何の用だよ、ティアハイレン」
「何の用、ではないでしょう。本巡は大切な一巡となると私はあなたに何度も何度も何度も何度もお伝えしたと思うのですが?」
「ああ……そういやそうだったな。すっかり忘れてたわ……ふあぁ」
ちくちくと責められようとアルヴァルクは飄々とした態度を崩さない。起き上がることもせず呑気に欠伸を繰り返すと、ティアハイレンの舌打ちが聞こえてきた。
「どうせ前巡も外泊したのでしょう? こちらも何度も何度も何度も何度もお伝えしていると思いますが、あなたはご自分の立場を分かっていらっしゃるのですか? むやみやたらと種散らかしに励むなと一体何度言えば理解していただけるのです?」
薄目で見上げれば、彼の指先が三つ編みの先端を弄んでいるのが見える。これは苛立っているときに彼がする癖だ。
種散らかしとは、所謂女遊びのことを指す俗語である。アルヴァルクの外泊癖は今に始まったことではない。だが、ティアハイレンはいつも以上にピリピリしているようだ。
長々と続きそうな説教の気配を察し、仕方なく寝台から起き上がる。するすると後ろから滑り降りてきた長い銀髪を耳の上へとかきあげた。
「“はぐれ”だろうとなんだろうと、この本宮に来たときからあなたは我がアルガレオス王家の一員なのですよ。アルヴァルク・グラウカ・トゥーリ=アルガレオス王子」
今度はこちらが舌打ちをする番だった。
トゥーリは、その家の第三子であることを示す単語だ。
「あなたが好き勝手をしても大っぴらにお咎めがないのは、父の配慮があるからです。そのことを充分に理解して、そして今すぐ正装に着替え、祭儀殿まで急ぎ来るように。いいですね?」
「……へいよ」
「公式な場です。そのように馴れ馴れしい言葉遣いも正してください」
そもそも馴れ馴れしい態度を許した覚えもありませんが。
最後にそれだけ言い捨てて、ティアハイレンは出て行った。
「……ティアハイレン王子殿下の仰せのとおりに」
黙って見送ったあとで称号を呟く。
二番目である彼はこちらのことが嫌いなくせに、わざわざ自ら関わりに来ては勝手に苛立って、くどくどと嫌味たらしく当たってくる。
アティル・ズエラ唯一の国家であるガレオン国を統治するアルガレオス王家。
────こちらとしては、好きでこの一員に加わったのではないのだが。
ため息を吐いてから寝台を下りて、アルヴァルクは衣装箱の前に立った。
衣装箱の隣には身の丈ほどの鏡がある。しばらく磨かれていないくすんだ鏡面に、素朴な衣服姿の自身が映り込む。
随分と伸びっぱなしにしている髪は、とうとう腰のあたりにまで到達した。
通り過ぎる異性が「美形」だと称える顔は、見れば見るほど父──ハイネリアレオス国王にそっくりだ。頬に浮かぶ紋様まですべて。
これこそが、アルヴァルクが直系の子孫であることの証明。
しかし、ティアハイレンが言っていたとおり、アルヴァルクは“はぐれ”だ。
父親に似ていても、公には兄弟とされているティハイレンたちとはまったく似ていない。
何せ彼らとは、母が違うのだから。
(……あぁ、面倒くせぇ)
できることなら、今すぐ寝台へ戻ってもう一度夢の中へと沈みたい。
だが、二番目の兄の無用な怒りを買いたくないというのも本音だ。
父の配慮によってアルヴァルクはある程度の自由を許されているが、その代わりに下される命令には従わなければならない。
式典に出ろと言われれば参列し、出るなと言われれば引き籠る。それが自由のための最低条件。
むしろ、それさえ守っていればこの生活は保障される。故に手放すような真似などしていられない。
もう一度ため息を吐いてから、今着ているものを脱ぎ捨てた。
アルヴァルクを含むアルガレオス王家が公式な場に出る際には、青を身に着けるのが習わしである。青は高貴、神聖さを表わす色だと言われているからだ。
衣装箱から取り出した青い下衣に穿き替え、同じく青い上衣に袖を通す。背ヒレが背中側にあるスリットを通ったことを確認してから上衣を整え、上着を羽織れば正装の完成である。
仕上げに髪を結おうと鏡の上端に引っ掛けておいた髪紐を手に取り、鏡の中の自分と向き合った。
背中側に垂れた銀色の髪を手で集めていると、ほんの刹那、アルヴァルクの姿に違う誰かの姿が重なったような錯覚を覚える。
気のせいかと思うような刹那ではあった。
しかし、同じ経験をしていれば気のせいとは思えない。アルヴァルクは何度もこの現象に出会っている。
鏡を覗く度に自分ではない誰かが映るようになったのは、最近のことだ。
まず、知らない誰かになっている夢を見たのが始まりである。
夢の舞台は、この世界のどこかだ。見渡す限りの地面が抉れているひどく荒れた場所だった。
そこで、誰かになったアルヴァルクは、美しい蒼銀の鱗を持った海龍と対面する。
海龍は今にも命が尽きそうな状態で、まもなく訪れる別れの予感に涙する──といった内容だ。
誰かの姿は、海龍の大きな瞳に映ることで確認できた。
銀色の短い髪に漆黒に近い青の瞳──夢の中でアルヴァルクは、自分自身と容姿が似た精悍な面差しの男になっていた。
それが夢を飛び出て、現実にまで及ぶようになった。
似ているようで似ていないのに、なぜだかまるでかつての自分の姿であるかのように映る。
(召喚の儀、か……)
どうしてこんなふうになったのか、覚えがあるとすればひとつ。
アティル・ズエラの遥か上方に広がるというフラル・ズエラより、この地を救う鍵となる人物──光の乙女を呼び寄せる召喚の儀を執り行う。
そう聞いたときから、アルヴァルクの心は何かの予感を察知したように騒めき続けていた。