「 」を思い知る
「おにいちゃん、どうしたの?」
一体どれくらいのあいだ、座り込んでいただろう。
たどたどしい声に話しかけられ、アルヴァルクはゆっくりと頭を持ち上げた。
「だいじょぶ? あたま、いたいの?」
目の前にいたのは、プルディアの少女だった。齢は三〜四くらいに見える。
項垂れたように座り続ける男の姿が異様で気になってしまったのだろう。近くに彼女の両親と思われる大人は見当たらない。
「別に、ちょっと考え事してただけだ。心配してくれてありがとな」
まさか子供に話しかけられるとは思わなかった。
しかし、相手は子供だ。苛立ちの感情を隠し、アルヴァルクは至って穏やかな対応を心掛ける。
「かんがえごと? なにをかんがえてたのー?」
彼女の興味を失せさせれば去ってくれるだろうという予測が外れ、内心で参ったと苦笑する。
孤児施設で育った経験があるからか、少女くらいの齢の子供を見ると自分を兄のように慕ってくれた幼子たちを思い出してしまう。
無碍にできず、彼女の興味が自分から消えるまで付き合うしかなさそうだ。
「あー、まあ色々だよ」
「いろいろって〜?」
「大きくなったら分かるさ。それより、お嬢ちゃん一人か? 一人でほっつき歩いてたら、親御さんが心配しちまうぞ」
「へーきだよ! だって、リィリィのおうちすぐそこだもん!」
リィリィというのは少女自身の名前だろう。振り返りざまに小さな指が示した先を見ると、雑貨屋と思われる店があった。
家の前でずっと座り込んでいる男がいれば、気になってしまうのも無理はない。目と鼻の先に帰る家があるからと、つい抜け出してきたのだろう。
「リィリィのおうちね、ソーショクヒンをいっぱいつくってるの!」
「──っと、おい、急に引っ張るなって……」
「あのね、なやみごと、かんがえごといっぱいあるときは、お買い物をすると『きがまぎれる』ってリィリィのマルマが言ってたよ!」
マルマというのは、幼子特有の母親を示す単語だ。
リィリィに強引に腕を引かれ立ち上がらされ、そのまま引っ張られて向かわされたのは彼女の家兼店である。
仕方がない、と少女のされるがままに店内へと足を踏み入れた。彼女が家に帰る理由を作れたなら本望である。
「マールマ!」
こじんまりとした空間にリィリィの声がいっぱいに響き渡る。
やや後に、「はーい」と返事をしながらパタパタと近づいてくる足音が聞こえてきた。
「あら、いらっしゃい!」
現れた女性を見て、リィリィが「マルマ!」と嬉しそうに叫んだ。
「かんがえごといっぱいしてるっていってたから、『きがまぎれる』してもらえるようにつれてきたよ!」
「……ということは、また勝手に外に出たんだね? リィリィ、マルマに黙って外に出ちゃいけないって言っているのに」
母親の言葉を聞くにリィリィは常習犯らしい。
眉を吊り上げた母親に対し、リィリィはしゅんと眉根を下げていた。
「ごめんなさい、だっておみせにおきゃくさんがこないと、こまっちゃうっていってたから……」
娘にそう言われてしまうと弱いらしい。
これ以上怒るに怒れなくなった母親を見て、アルヴァルクもようやく口を挟むことに決めた。
「この子の言うとおり、ちょうど気分転換したかったんで助かったよ」
「……ありがとうね、お兄さん。変テコな物しか置いてないけど、よかったらじっくり見ていってくださいな」
「そうさせてもらうわ」
母親の顔が安堵したように緩んだのを見て、そのまま会話を続ける。
周囲を見回すように言った彼女の視線を追いかけるように、アルヴァルクも店内を眺め回してみた。
棚やテーブルの上にぎっちりと並ぶ、多種多様の形状をした物体。
シィピィを模したと思われる奇妙な形の置き物や雑貨、それにコルチェ球の光に負けないほどチカチカと煌めく装飾品の数々があった。
ひとまず、目についた物を手に取ってみる。
二本の蔓がぐるぐると巻きつけられた棒状の物体だ。絡み合った蔓は上部で二股に別れ、更にそれぞれで複雑な形に固められていた。
下部の方に鈍色の尖端があり、指の腹を押し込んでみると墨がついたのでおそらく墨棒なのだろう。少々、使いにくそうな形状だ。
「……ゲェムノアイテムみたい、か」
「え? ごめんなさい、なにか言いました?」
思わず口からこぼれてしまったのは、コノリが言いそうなこと。彼女ならそう言うかもなんて考えたら、自然と口に出ていた。
独り言を誤魔化すように首を振り、手にしていた墨差しをそっと戻す。
「……なんでもねぇさ。ここにあるのは全部奥さんが?」
「残念ながら私はこういうのてんでダメで、売る専門なのよ」
「ハハッ、そうか。こんなにたくさんすげぇな、旦那さん」
「ま、これだけたくさんあっても売上はさっぱりなんだけれどね」
──ほら最近は特に、と付け加えられてプル・クラークが置かれている状況を思い出す。
採貝場は閉鎖され、近頃の海獣暴走によって都を出入りする人も少ない。
材料も手に入りにくい上に客足にも乏しいとなれば、苦しい状況に置かれ始めている者も多いだろう。
この店の商品は確かに個性的だ。だが、目を惹くものがある。
さきほど手にした墨差しもそうだ。形状は奇抜の一言に尽きるが、持ち手の部分に彫り込まれた模様の細やかさは見事だった。
「ねーねー! おにいさん! 見て見て!」
そこへリィリィの声が元気に響き、トタトタガチャガチャと音を立てながらやって来る。
何かを持ってきたようだが、それを目にしたリィリィの母親はぎょっとしていた。
「あっ! こら、お店の物は大事な物だから触ってはいけないと……!」
「これねー、ドッドが“うちのいちばんのうれすじだ”っていってたよ!」
ドッドというのは、父親を意味する単語だ。
──きれいでしょ? と琥珀色の瞳を輝かせながら、箱いっぱいに詰められた装飾品を差し出される。
店の一角を見ると、一部がごっそりとなくなっていた。アルヴァルクに見て欲しいと、持ってきてくれたのだろう。
それも、箱からこぼれ落ちて母親が慌てて掬い上げるほどの量を。
「へぇ、どれどれ……」
ここまでされて見ないという選択肢はない。リィリィから箱をそっと受け取り、彼女が空けてくれた場所まで移動して箱を置く。
「……すみません、本当に。趣味に合わないようなら無理に付き合っていただかなくていいので」
「いや、構わねぇよ。商売上手な娘さんの顔を立てて、記念に何か買っていくかな」
先ほどの墨棒に比べると普通の形状の物が多かった。
指輪や首飾りに髪飾りなど、種類問わずの物にあふれた箱からひとつひとつと手に取って眺めていく。
「綺麗だな」
「でしょー! ドッドがね、贈り物にぴったりって言ってたよ」
「へぇ、そうか」
主に金アセロ貝を原材料としているのか、鏡のように美しく磨かれている。装飾品に嵌められた宝石も輝かしい。
(……とは言ったものの、こういうのあんま付けねぇんだよな)
装飾品の類いはひと通り持っているが、それはアルガレオス王家の一員として必要になときのために揃えられたものだ。普段使い用に購入したこともなければ、買うほどの興味も持ち合わせていない。
(……贈り物、か)
リィリィが言った単語が頭の中を巡る。
しかし、装飾品を贈り合うような関係といえば夫婦や恋人だろう。生憎と自分は妻帯していないし、特定の相手もいない。
贈り物をするとしても、贈る相手がいなければ成立しない。
さて、どうするか。
そこで思い浮かんだのは──否、思い浮かんでしまったと言うべきか。脳裏に描かれたのは、一人の女性。族長邸に置いてきたコノリの姿だった。
「そのパラパティア石の腕輪が気になりましたか?」
「パラパティア……?」
「あら、違ったかしら? じっと見ているようだったので……」
リィリィの母に言われて手元を見ると、腕輪を持ったままだった。
金色が目立つ中でこの腕輪だけは銀アセロ貝製のようで、小さな淡紅色の石粒が輝いている。
この石がパラパティアという宝石なのだろう。パラパティア石を抱くかのように、長い体躯の海龍の模様が彫り込まれていた。
人々の前に姿を現さなくなって久しい存在、海龍。
今も世界のどこかで生きていると言われ、かつて英雄とともに世界を救った創世の龍セイレーンが知られていることもあり、海龍を神聖視している者も少なくない。
特に海龍を祖とするリヴィディアの都リヴァイアスではその傾向が強いと聞く。
海龍を模して作られた品は、装飾品であれば災いから身を護るおまじないとして、置き物であれば家の守護神として迎えられるそうだ。
(……逃げらんねぇなぁ)
海龍、セイレーン、そしてその生まれ変わり。
どこに行っても彼女との縁があるみたいだった。コノリの姿がどうしてもちらついて頭から離れない。
どんなに考えるのを辞めようとしても、彼女のことを思い出させる何かがそこらじゅうにある。
最早、自分はこうなってしまうものなのだと受け入れたほうが楽なのかもしれない。
実を言うと自分の中にある感情の正体をアルヴァルクはとっくに知っていた。
だけど、口にしたくなかった。それを自覚してしまえば、また同じ思いを味わってしまうかもしれないという思いがアルヴァルクに自制をかけているからだ。
たった一人の存在に意識を奪われ、たった一人が自分の世界の中心になる。
それが崩れたときに残るのは、深い喪失感と傷ついた心だ。
それを知っているのに、どうしてまた誰かに惹かれてしまうのだろう。
「……なぁ、奥さん。聞いてもいいか」
「どうかしました?」
「……こういうの、女の人って貰えたら嬉しいもんか?」
アルヴァルクの自制心は働かず、問いかけが意識の隙をすり抜けて出ていく。
「お相手は恋人ですか?」
「……いや、違う。まだ知り合ったばかりなんだ。でもなんか気になっちまう……し、向こうも俺のことを気に掛けてくれてる……俺の勘違いでなければ、の話だが」
自分の状況を口にするのはなんだか気恥ずかしく、歯切れが悪い。
茹で上げられたラクォのような気持ちになってくる。顔が熱い。
「それなら、その石の腕輪はぴったりだと思います。お兄さん、石言葉ってご存知です?」
「石言葉?」
リィリィの母親は笑うことも揶揄うこともしなかった。それどころかこちらの問いに対し、助言までしてくれようとする。
ありがたいことだが落ち着かず、アルヴァルクは手の中にある腕輪を手首に嵌めたり外したりを繰り返す。
「宝石はビィジュ貝が長いときを掛けて生み出すでしょう? 石にまつわる話に由来して、遠い昔のプルディアの職人たちによって付けられた意味があるんです。例えばパラトリン石はその青さと希少さ故に多大なパワーをもたらすとされ、『勝利』という意味が付けられていたり……それが石言葉なんです」
「なるほど。それでこのパラパティア石にはどんな意味が込められているんだ?」
彼女の話は興味深かった。
だから、アルヴァルクは軽い気持ちで聞き返した。
「パラパティア石の石言葉は『運命』。または『ひとめ惚れ』とも言われてます」
運命。
この世で最も嫌いで、最も信じられない言葉だ。
運命。
なのに、驚くほど静かに受け入れられてしまった。
ひと目見たときに抱いたもの。どうしようもなく惹かれてしまう感情。
それがコノリにひとめ惚れをしたからだとすれば、すべて腑に落ちる。
いいや、とっくに知っていた。
「軽く話を聞いただけだし見当違いだったら申し訳ないのだけど、お兄さんたちお互いひとめ惚れをなさったんじゃないかしら?」
軽く説明をしただけの相手にも言い当てられてしまう。ここまで来てまだ認めないとしたら、もう手に負えない。
遅かれ早かれ、この感情と向き合わなければいけない運命だったということだ。
誠に──そう、誠に不本意ではあるが。
「はは……ははははっ!」
リィリィたち母娘が、突然笑い出したアルヴァルクを見てきょとんとする。
運命を受け入れた途端、頭の中や心の奥で長らく渦巻いていたものが消えすっきりとしてしまった。
本当に楽になってしまったのだ。今までのはなんだったのかと思うほどに。
すると今までの自分が馬鹿らしくなって、笑えてきてしまった。
「悪い、ちょっと考えすぎてたみたいでな。奥さんのおかげですっきりしたよ、コレ貰っていくわ。いくらだ?」
「ふふ、そうだったんですね。それは爽やかな笑顔になるはずだわ」
パラパティア石の腕輪を渡すと、「そうだ」と何か思い出したかのように箱の中を探り始める。
やや間を置いて彼女の手が取り出したのは、渡した腕輪と瓜二つの物。
「うちの商品は基本的に一点ものなのだけど、この石の腕輪については珍しく主人が対になるものを作っていて……あの、よければこちらもどうです?」
「揃いってことか? い、いや、最初でそれは壁が高ぇだろ……」
「世界でたった二つしかない物だからより特別感があると思いませんか? それに、次に来たときにはなくなってるかも」
「かもー!」
「それにこちらにも海龍の絵柄が彫られてるんですよ! 創世の龍セイレーンの生まれ変わりであるフラル=ジェヴァも降臨されたというし、より特別感があるかと!」
相手がそのフラル=ジェヴァだと言ったら、一体どんな反応をするだろう。
彼女の眼差しは期待に煌めいていた。その隣でちょこんと立っている娘のほうも。そしてそれはアルヴァルクが気圧されるほどに眩しい。
プルディア生来の気質だろう。
彼らが生み出す装飾品が各地で愛されているのは、彼らが一つ一つ思いを込めて作り上げた物を自らの手で売り込んできたからである。それはしっかりと根元にまで染みついているようだ。
「わかったわかった。一緒に買わせてもらうわ」
「それでは少々オマケして一万シディ、いただきます」
「いただきまーす!」
アルヴァルクが折れると、親子は「やったー」と喜びながら手を叩き合う。
親子の仲睦まじい様子に、これもまた運命かと苦笑する。
(……ま、悪くねぇかもな)
外が急に騒がしくなったのは、支払いのために財布を取り出そうとしたそのときだった。
「おそと、なーにー?」
「あっ、リィリィ! 待ちなさい!」
外の異変を真っ先に察知したのは、リィリィだ。
そちらに意識を奪われた彼女は、母親の制止も聞かずに外へと飛び出していく。
母親も二つの腕輪を持ったまま慌てて娘を追いかけていってしまったため、アルヴァルクもその後を追う。
「ぞくちょうさまのおうち、まっくろ……」
無邪気だったリィリィの声が、異様さに飲まれて萎んでいく。
小さな眼差しが見上げていた方角。それは族長邸がある一帯だった。
そこが大きな闇に包まれていた。この世界を覆う闇ではなく、靄のような闇に纏わりつかれているように見えた。
近隣の住民も異変に気づいたらしく、外に出てきた彼らの動揺で周囲が騒がしくなったようだった。
「まさか……!」
この光景を見て真っ先に思い浮かんだのは、コノリを掴み上げた大男の姿だ。
不測の事態が起きているのは、一目瞭然だった。
やはり置いていくべきではなかったと、アルヴァルクは後悔する。
自分自身を揺らがせる存在だろうと、彼女は護るべき存在であるのに。
恐ろしい思いをしているかもしれない。助けを求めて手を伸ばす彼女の姿が過り、焦燥に駆られる。
「わりぃ奥さん、俺、急ぐわ。これ代金な」
娘を抱き締めながら異変に目を奪われている彼女の手に代金を押し付けて、二つの腕輪を戴いていく。
「あっ、すみません途中で──って、お兄さん多いですよ!」
駆け出したアルヴァルクの背ヒレを追いかけるように、彼女が叫んだ。
アルヴァルクは足を止めないまま振り返り、言い放った。
「いい! その代わり、次来たときにまたマケてくれ! たぶん、ここの好きそうだからよ!」
それは、次は二人で来るという宣言であった。
もしくは、もう一匹いるかもしれないが。
この宣言を実現するためにも、今は彼女のもとへ。アルヴァルクは族長邸へ続く道を駆け抜けていった。




