世界が開かれたように
異世界二日目は、目覚めの景色が前髪で覆われていない違和感から始まった。
寝起きでぼんやりとする中、現実を認識しようとまばたきを繰り返す。
いつも分厚い前髪で閉ざしていた視界が開けている。何度も瞼を下ろしては持ち上げてを繰り返しても見え方は変わらない。
徐々に思考が覚醒し始めると、こめかみ付近で僅かな重みを与える存在に気づく。
そっと触れてみると、指先が陶器のようなつるつるとした感触を捉えた。
視界の端に見えるコルチェ球が放つ光の色と同じ色だと思い出す。
美しく透き通った緑色の髪留めだ。
自分の知る言語でおそらく昨日──出会ったばかりの青年、アルヴァと名乗った彼がくれたもの。
ひとつ外して、眺めてみる。
細長い三角の形状はヒレを広げたイカのようで、くるりと渦を巻いた球体は例えるならオウムガイにそっくりだ。
それを手に持ったまま、ゆったりと寝返りを打つ。
するとサイドテーブルに畳んで置いてある、髪留めとはまた違う鮮やかなグリーンカラーの上着が目に入る。これも彼の私物だ。
(そういえば……緑、ばかりだ……)
今着ているシャツも、色味は違うが大きく言えば緑だ。これもアルヴァが貸してくれたものである。
もしかして緑色が好きなのだろうか。考えながら、小祈は起き上がった。
視界の左側からさらさらと前髪が滑り下りてくる。
半分が黒髪に覆われた視界に入ったのは、天井も壁も床も調度品のほとんどが青に統一された部屋。
ゆるりと見渡して、小祈は前髪を留めようと試みた。アルヴァがしてくれたように、見様見真似で。
しかし、近くに鏡はなく、うまくできているのかすぐにはわからなかった。
(……急に冷たくなったように感じたんだけど、なんでかな)
別れ際に見せた彼の素っ気なさを思い出すと、胸の奥がぎゅうっと締まって苦しくなる。
彼がそうなってしまった理由はひとつしか思い当たらない。
小祈はまたも彼の眼差しに吸い寄せられるように、彼との距離を縮めてしまったのだ。
よく知らない、しかも未知の世界から来た女に迫られてさぞかし不快だっただろう。
──というか、そもそも、実親から疎まれたり周囲から気味悪がられるような存在だし。
(どうしてあんなふうになっちゃうんだろう……)
まるでそうするのが必然であるかのように身体が動いて、気付けば目前にアルヴァの顔。
正しくは、唇と言うべきか。もう触れ合っていてもおかしくない距離に彼の吐息を感じたのだ。
ベッドを降りて靴を履く。
サンダルとブーツをかけ合わせたような形状で、これもまたあの人が貸してくれたものだ。
素足で帰ろうとする小祈を見兼ねて彼が差し出してくれた。現在の小祈は、すべてアルヴァの私物で出来上がっている。
丸形の窓へと近づく。その向こうには相変わらず闇が広がっている。
この世界がずっと暗闇に包まれているのは、フロン境海というものに覆われているからだという。
フロン境海とは、こちらの世界で例えるなら空に当たる。その詳細を聞いて小祈が抱いた正体は海だった。
つまり、この世界は海の下──深海にある。
しかしこんな暗い世界でもちゃんと照明というものが存在している。それがコルチェ球のことだ。
時計と照明の両方の役目を兼任している、深海世界ならではの道具らしい。
昨晩、この窓から眺めたときは街を飾る光の色は金色だった。
しかし今は、星々の如く点々と灯る光は青みがかった緑色だ。この色が、この世界の朝を表わしている。
そして次に巡り来るのは、青色──これもすべて彼が教えてくれたことだ。
(……もう、会えないのかなぁ)
別れ際の彼は、そのことを態度で示しているかのようだった。
急速に近づいたかのように思えば、唐突に突き放される。
今までであれば、すぐに諦められた。だが、アルヴァに関してはなぜだか諦められない。
こんなのは生まれて初めてのことなのだが、それが自分自身によるものなのかは分からなかった。
小祈の中には、もう一人の小祈がいる。
二重人格とは違う。明確に意志を持ったもう一人が、「こうしてまた巡り合えたのだから」とアルヴァと繋がることを望んでいる。
でも、昨夜部屋を抜け出して彼に会いに行ったのは、間違いなく小祈自身によるものだった。
だから、今抱いている気持ちもきっと自分のもの──。
叶うことならもう一度会えますようにと、小祈は窓の外で灯る緑色の光たちに願った。
▼▽▼
「フラル=ジェヴァ・コノリ。改めてご挨拶申し上げる。我が名はハイネリアレオス・レゼニア・エス=アルガレオス。まずはこちらの勝手で呼び出したにも関わらず、危険に晒し、事情を説明するのが遅くなったことにお詫び申し上げる」
緑色に微かな青色が混じり始めた頃、小祈は広い室内に立っていた。
おそらく謁見室、という場所だろう。
なぜなら、今しがた自己紹介をしてくれた中年男性がこの世界の王様であるということを聞いていたからだ。
この世界で一番偉い人物との謁見は、ゲームの中でしか経験したことがない。現実でも滅多にない経験だと思うが。
さて主人公たちはどのように応対していただろうかと、懸命に記憶を手繰り寄せるがこんなときに限って思い出せない。緊張しているのだから無理もない。
──月明りのような美しい銀髪に、夜の海を思わせる紺碧の眼差し。
ハイネリアレオス国王の姿に、あの人を重ねてしまったせいで余計に。
「私は第一王子ティブルカロン・ティウルス・アーリ=アルガレオスだ。よろしく」
「……第二王子ハイティアレン・ジヴルス・デューリ=アルガレオスです」
「よ、よろしくお願いします」
ハイネリアレオス国王の両隣には双子の男性が控えていた。
どちらもエメラルドグリーンの髪とオレンジ混じりの赤い瞳をしているが、片方──長い髪を三つ編みにしている男性のことはすで知っている。
一番最初に部屋まで案内してくれた人でもあり、アルヴァから小祈を預かり客室まで送り届けてくれた人物である。
冷たくて言葉に少々棘があり、小祈の苦手とするタイプに該当するあの──“彼”が陰険だと表現した男性だった。
ティブルカロン第一王子は、第二王子とは反対に柔和そうな印象を覚える。こちらとであれば、あまり委縮せずに喋られるかもしれないと小祈は思った。
それから、この場には他に王妃や第四王女が同席しているが、明らかに一人足りないような気がしていた。
一番目二番目と続き、飛んで四番目はいるのに。
まさか、ここにいない三番目はフルネームを名乗らなかった彼だったりして──なんて。
「現在、アティル・ズエラ全土で海獣の凶暴化現象が相次いでいる。我々はその事象を、太古の魔物ヴォア復活の兆しだと判断した。それ故に、創世の龍セイレーンの生まれ変わりであるそなたを召喚するに至った。フラル=ジェヴァ・コノリよ。どうか魔物復活阻止に協力して欲しい」
ハイネリアレオス国王から告げられた内容は、アルヴァから教えてもらった話と一致していた。
呼び出す存在の条件は、かつて英雄と共に魔物を封印した龍セイレーンの魂の欠片を持つ者。海上──つまり地上のどこかにいるとされる転生者が対象だった。
それに選ばれたということは、自分がその海龍の生まれ変わりであることに間違いようだ。
おかげで腑に落ちた。
かつて深海世界に存在した龍の生まれ変わりだから、水の中に心地良さを覚えたのだろう。
だから水中でも息ができたのだ。
「まずはプルディアの都プル・クラークへと向かってもらう。代々の長が護る封印の地を訪れ、海獣暴走の原因を鎮めて欲しい」
プルディアとは、この世界に住む四つの種族のうちの一つを指す名称だ。
身体的特徴としては、小柄な身体と身体全体に及ぶ紋様。それから軟らかな身体であること、手先が器用であることが挙げられる。これもアルヴァより得た知識だ。
物を作る人──所謂、職人が多く暮らしており、アティル・ズエラ全土で親しまれている工芸品や装飾類のほとんどはプル・クラーク産であるらしい
ゲームの中で例えるならドワーフのような立ち位置だろうかと小祈は考えている。
その他には、龍を祖とするリヴィディアに高身長で大きな体格のヴァルディア、そしてアルヴァたちのようにヒレを持つフィニディアという名の種族がおり、世界の大多数はフィニディアで占められているそうだ。
「現在挙がっている報告で一番被害が大きい地です。プルディアの長にはすでに伝えてあります。向こうに到着次第、族長と会ってください」
「勿論、あなた一人ではない。この旅路には私も同行するし、護衛として騎士もついてくる。儀式のときのような危険には晒さないと誓うので安心して欲しい」
異世界の町や異世界の装飾品に出会えるのは、正直にいって楽しみだ。
(まるで物語の主人公になったみたい……)
今まで誰にも見向きされなかった人生で、突然やってきた自分ピックアップキャンペーン。果たして排出率は一体何パーセントか。
だが、疑問もある。龍の生まれ変わりだからといって、自分に一体何が出来るのか。
小祈は何も持っていない。あるとすれば、遊んできた数々のゲームの記憶と水中で呼吸ができるのみ。
魔物復活阻止の助けになんてなれるのだろうかという不安は拭えない。
なのに、誰も小祈の意志を聞いてはくれない。
この世界を救う手伝いをしてくれて当然とでもいうような流れで話が進んでいる。
周囲から注がれる視線は期待に満ちたものばかりで、とても拒否できるような空気ではなかった。
──どうやらこの場には、こちらの気持ちを慮ってくれる人は誰もいないらしい。
(どうしよう……)
心細さが胸の奥を占めていく。
ぶっきらぼうなところもあるが、基本的にあの人──アルヴァは優しかった。
小祈と向き合って、目を合わせて、同じ目線で話しかけてくれたというのに。
胸に広がる不安を不満をぶつけてもいいだろうかと悩む。
──でも、そうしたら彼らは一体どんな目で自分を見るだろう。
期待外れ、役立たず、不敬だと怒るだろうか。
お前みたいな薄気味悪い女をわざわざ呼び出してやったのに、なんて言われるかもしれない。
彼らの目にはきっと、自分は「世界救済の道具」のようにしか見えていないのだ。
そうして全てを小祈に任せるつもりなのだろう。
セイレーンの持つ力だって知らないのに。
──失敗したとき、その責任は誰が責任を取るの?
この場所に望まれて立っているのは、“龍の生まれ変わり”としての小祈であり、決して自分自身が望まれているわけではないということを知らしめてくる。
今まで独りぼっちだった自分が誰かに求められるなんて、嬉しいことのはずなのに。
このまま旅になど出たくはなかった。
おまけに、優しいようで優しくなくて、初対面の人々と旅なんて無理である。
一つくらいは要望を言っても許されるだろうか。
でも、でも、でも──言えない。
拒否をされたら、悲しいから。
「……あ、あの」
しかし、思いとは裏腹に小祈は声を発していた。
頭の片隅に、あの人の姿が思い浮かんだせいかもしれない。
「どうした? 遠慮なく、申してみよ」
声を振り絞ってみたはいいものの、二の句が出てこない。
国王が続きを促してくれるが、威厳のある声に委縮してしまう。
胸元でぎゅっと拳をつくる。彼から借りた薄緑色のシャツの布地を巻き込みながら。
「……ら、……と、……いい、です」
「……フラル=ジェヴァよ。すまんが、もう一度申してくれるか」
チクチクと視線が突き刺さる。
誰もが小祈の様子を見守っているようだ。
なんだか怖くなってくる。この人たちの反応が怖い。
作った拳の中で汗が滲み始める。
心臓がばくばくとうるさくなり始めたせいで体温が上がっていた。
言葉が出てこない。どうしよう、どうしようと気持ちばかりが焦り出す。
このままでは、苛立たせてしまう。
どうしてすぐに言葉が出ないのかと責められてしまう。
小祈は誰か助けてと、祈るような気持ちでぎゅっと目を閉じた。
『──ゆっくりでいいから、言ってみな』
そしてすぐに目を開いた。
瞼の裏に優しい微笑みを向けてくれた彼の顔があったから。
これは、彼を探して部屋を抜け出したときだ。
わたわたとするだけで上手く言葉を紡げない自分に、わざわざ身を屈めて視線を合わせながら言ってくれたあの瞬間。
そのあとで前髪を開かれたとき──小祈は、世界が開いていくような感慨を覚えていた。
長い前髪は、人を遠ざけるための壁だった。
閉じていた自分の世界を彼が開いてくれた、あのときそんなふうに思ったのだ。
「……旅をする、なら。仲間は、アルヴァさんがいいです」
瞼裏に描かれた彼の姿が、言葉が、小祈に勇気を与えてくれる。
「ご、護衛の、き……騎士さんは、いりません」
小祈の一言に、この国の騎士団を統率しているというティアハイレン第二王子が目を見開いていた。
それもそうだろう。国一番の精鋭である彼らを拒否したのだから。
だけど気にしてはいられない。順調に滑り出す声に乗って、小祈は強く言い切る。
「私を助けてくれた、アルヴァさんと、旅をさせてください」
でないと旅なんてしないとまで付け加えて。
途端に周囲がざわざわと騒がしくなるが、一度出してしまった言葉は取り消せない。覆水盆に返らず、だ。
小祈が我儘を口にするのは、幼い頃以来──実に十年以上ぶりのことだった。




