夜の海 ※イラスト表示あり
静かな夜の帳に、ざぁざぁと寄せては返す波の音が響いている。
波打ち際に立てば押し寄せた波が足元を濡らした。
長いこと履き続けているスニーカーに水が染み込んで重たい。だが今はどうでもいいと、龍海小祈は眼差しを海の遠くへと向ける。波打ち際に力強く足を踏み入れ、手に持っていた物を放った。
二年前に買ったスマートフォンだ。夜空に浮かぶまんまる月が金色の身体を照らし、弧を描きながら落ちていく。まるで宵闇を落ちる流れ星のように。
やがて落下地点に辿り着くと、小祈のスマートフォンはぽちゃんと音を立てて、真っ暗な海の中へと沈んでいった。
防水性の無い機械だ、海水に沈めば間違いなく壊れる。修理費用は一体いくらかかる事だろう。
今すぐ海に飛び込めばまだ拾えるかもしれない。
そうしたらやり込んでいたゲームアプリのデータも、保存したゲーム画面のスクリーンショットだって取り戻せる。
小祈にとってゲームは癒しだった。
ゲームの中でならなんにだってなれた。
自分がいつだって主人公で、現実にはいない仲間が出来たように思えて、空想世界に没頭している間は寂しさが少しだけ軽くなる気がしたから。
家に帰れば据え置き型のや携帯ゲーム機くらいあるが、スマートフォンのゲームはそれらでは遊べない。
別の端末を購入し引き継ぎ設定をすればいいことだが、事前準備をしていなければ意味がない。
小祈はそれを理解していながら、思わず海へと投げ捨ててしまいたくなるくらいに憤っていたのだ。
投げる直前にちらりと見えた時刻は午前零時十五分。
二十歳の誕生日を迎えた小祈のもとに母親からメッセージが届いたのは、ちょうど日付が変わったときのことだった。
母親から誕生日当日にメッセージが届くなんて一体いつぶりだろうか。いつもふと思い出したかのように、後になって届くのに。
だからその珍しさに、小祈は微かな期待を胸にメッセージを開いたのだ。
『ようやく二十歳になりましたね。
立派な大人になったのだから、あとはもう貴女の意志で生きていけるはずよ。
私の事はもう必要ないでしょう?
近いうちに会いに行きます。
最初に必要なお金は工面してあげるから、それまでに新しく住む部屋を決めておいてちょうだい。』
誕生日を祝う言葉はひとつもないメッセージ。
これを読んだとき、対人関係に疎い小祈でも母の意図を悟ることができた。
────絶縁。
母親にとって自分は、ただのお荷物に過ぎなかったようだ。
「ばーか!」
黒髪が潮風に揺れ、顔の半分を覆う程長い前髪が風に持ち上がる。思いっきり叫んだあと、悔しい思いで唇を噛んだ。
母親と二人きりの家庭になったのは、小祈が六歳のときだった。
両親の不仲による離婚。離婚する頃には父親は実の娘に対する愛情を失くしていたようで、それ以来父親とは一度も会っていない。
結婚前から仕事人間だった母親によって、小祈は孤独な環境で育った。
昔はちゃんと夜には帰って来てくれていたのだが、それでも朝昼晩用の食事──コンビニ弁当などを置きに来ただけであった。
そしてそれも小祈が大きくなるにつれて弁当は現金に変わり、その置かれる金額は徐々に増え、それに比例するように母親が家に帰る回数はだんだんと減っていった。
やがて、現金を置きに来るのも面倒になったのだろう。
通帳とキャッシュカードを渡され、毎月必要な分は振り込むからそれでやりくりしなさいと言われたのは中学の入学式の日のことだ。
あの日ファミリーレストランで食べたハンバーグの味は忘れられそうにない。
(……一体、何がだめだったのかな)
砂浜に腰を落としながら考える。
母の言いつけは全て守ってきた。
友達を必要以上に作らなかったし学校行事だって全部休んだ。
──おかげで親友と呼べるほどに親しい人はいないけれど。
父も母も美形なのに、アンタは顔を隠した方がいいと言われたから前髪も伸ばした。
──よくユーレイ女とからかわれたけれど。
高校を卒業したら進学ではなく就職しろと言うから工場の事務員として働き始めた。
──本当はゲームに携わる仕事がしたくて専門学校に行きたかったのだけど。
だが、どれだけ言うことを聞いても母親は帰って来なかった。
どれだけテストで良い点をとっても、良い子だねと褒めて頭を撫ででもくれない。
小祈に就職を勧めたのは、今日この日の為だったのだろう。
薄々気づいてはいた。
でも、どんな母親でも小祈にとってはたった一人の親だ。
だから、今までのことが全て娘を捨てる為だったなんて思いたくなかった。
(……これからどうしようかな)
帰るにも帰りたくないので、膝を抱えてただ海を眺めるしかできない。
あのメッセージを受信した瞬間から、小祈にとって広いだけの家はもう帰る場所でもなくなってしまった。
だけどあの部屋には自身で集めたゲームがある。
このままずっと帰らずにいたら母に勝手に捨てられてしまうかもしれない。
(……たぶん来る前に連絡あるよね?)
投げた端末はどこに落ちたかと揺れる水面を見ても、奥から奥から波がざばっと押し寄せて来るので分からない。
もう深海まで沈んだだろうかと考えて、流石にそれはないかと一人自嘲した。
例え軽い物でも、平均以下の腕力なんかで遠くの沖まで投げられるわけが無い。
(……頑張れば泳いで取りにいけるかな)
初めて自分自身で選び契約したスマートフォンを失うのは、やはり惜しい。
インターネットの海を漂えば、推し──大好きなキャラクターの画像は拾えるが、自分自身で引いたキャラカードや、自らイベントを進めて手に入れた限定スチルを眺める方が一番良い。
金色の輝きが落ちたのは、数メートルほど先。その辺りならきっと深さもそんなにないだろうと小祈は判断した。
真っ暗な夜の海を泳ぐのは危険であるし無謀であると百も承知だが、例え溺れても小祈には生きられる自信があった。
単に泳ぎが得意だから、という理由ではない。
いつまでも水の中に潜っていられる事に気づいたのは、さて、いつのことだっただろうか────。
「……つめたっ」
とっくに濡れてしまった靴を脱いで砂浜に綺麗に並べておく。それから素足を水に浸けると、予想外の冷たさに思わず足を引っ込めた。
だが、すぐにまた流れて来た海水に爪先を浸してみると、瞬時に心地よい感覚が身体を包み込んだ。
まるで足湯にでもつかっているような気分である。
冷たい水でほっと一息つく感覚を得るのはあまり無いかと思うが、小祈はお湯より冷水の方が落ち着けるのだ。
勿論、熱い風呂も好きなのだが。
ひんやりとした水の感触に全身を包まれると、不思議と独りじゃないと思える。
ごぽごぽという水泡の音が鼓動のように聞こえて、母に抱き締められた気になれる。
覚えている限り、そんなものされたことなんてないのに。
だからいつまでも浸っていたくなって──長い時間、潜りっぱなしでいたことがある。
道具も何もない素潜りの状態で一時間以上も、だ。
あれから十六年経った今、どれだけ潜っていられるだろう。
スマートフォンを拾いに行くついでに少し試したい気持ちになって、小祈は服を着たまま海の中へと足を進めていく。
跳ね返った海水があっという間に服を濡らすも、それが肌に張り付こうとお構いなしにざぶざぶと波を掻き分けた。
服を脱いでも良かったのだが、万が一誰かに見られたら嫌だ。
それにずぶ濡れで帰ったところで迷惑がる家族もいない。
帰り道、不審な目で見られる可能性はあるけれど。
「……あっ!」
太もものあたりまで身体が沈んだところで、海面に映された丸い月のその端で小さく煌いたのを見つけた。
金色っぽいような銀色っぽいような、水面が揺らめいているせいではっきりと分からないが、何かあるのは間違いなさそうだった。
よし────と、その場所目掛けて潜ろうとしてふと気づく。
真っ暗な海の中など、普通は見えない。
透き通るほど綺麗な水をしていたならば、もしかしたら見えるのかもしれないが。
ここは日本のど真ん中。南の方に行かなければ綺麗な海には出会えない。
それに──小さかったきらめきが、少しずつ大きくなっていた。
「……え?」
星粒だったものが、あっという間にテニスボールほどになったかと思えば、サッカーボール大へと成長する。
どんどんこちらへ近づいてきているようなそんな変化の仕方であった。
小祈が瞬きする度に大きさを変え、次の瞬間には海面からぴょこんと三角の何かが突き出ていた。
その三角は、金ではなく銀だった。
何かの映画で見たことがあるような光景だ。
はて、この物体は何だろうと考える。しかし、答えが出た時にはもうそれは姿を現していた。
ざばんと激しく海水を打ち上げて、大きな何かが小祈の頭上を飛び越えていく。
まるで月明かりのような銀色の身体。数十メートルはありそうな──小祈がいる深さではあり得ない大きさの何か。
どしゃぶり雨のように海水が降り注いできて、その衝撃に小祈は目を閉じる。
すると、続けて身体にまで変化が起きた。ゴゴゴと唸るように海水が全身を包み込んできたのだ。
それが収まると、今度は水の中をふわふわと揺蕩っているような浮遊感を覚える。
ゆっくりと瞼を持ち上げると、そこは闇に覆われた世界だった。
三六〇度見渡す限りの真っ暗闇。
身体に纏わりつく感覚から海の中だということは分かる。
上を見ても月明かりひとつ差し込んでもないということは、よほどの深さにいるということだ。
ついさっきまでは太ももが浸かる程度だった。
足もしっかり底を踏みしめていたはずだ。
それなのに、波に流されたとしてもこんなにも早く光が届かない深さへと沈めるのだろうか。
不思議な現象の連続に頭がついていかない。
そして、そんな深さにいても小祈は苦しさを感じなかった。
魚のように水中でも息が続く。首を触ってもエラなんてもちろん無い。
追いついていなかった思考が落ち着きを取り戻し、自身を包む感覚について振り返る。
(とんでもなく深いところなら、水圧で潰れそうなのに……)
暗闇の中、探るように自身の身体を触る。
あまりに深いところへ潜ると肺などの内臓が潰れると聞いたことがあった。だが潰されるような圧なんて感じない。
例えるなら、湯船に身を沈めている程度の感覚だった。
小祈は改めて自分の異質さを自覚する。
ただ水が好きで、たまたま潜水の才能があっただけではないのだ。
(やっぱり、私はどこか人と違うのかな。だからみんな……)
────離れていくの?
そんな自分なら、気味悪がられても仕方がないかもしれない。
誰にも求めらず生涯孤独で終えるのがきっと自分の運命だったのだ。
小祈を包む闇が心まで覆おうとしたとき、不意打ちのようにぞわぞわと冷たい感覚が背筋を駆け抜けた。
「────っ!」
まるでナイフを突き付けられたような鋭い冷たさ。
恐る恐る背後を振り返ってみると、そこには淡い銀の光を纏うサメがいた。
一見可愛らしく見える丸い瞳、それと相対するような凶暴さの滲む紺碧。その瞳の持ち主であるサメが小祈をじっと見つめている。
恐怖に襲われながら小祈も観察するようにサメを見つめ返した。
きらきらと銀色の輝きを放っている。海中に見つけた輝きはどうやらこの生物であるのは間違いなさそうだ。
天を衝かんとするような立派な三角の背ヒレを見るにサメのように思うが、それはホオジロザメのようなずんぐりとした幅広いフォルムのようにみえて、神話の中に登場する龍のように細長い体躯をしている。
これはサメと呼んでもいいのだろうか、と疑問が浮かぶ。
幼い頃に図鑑で見たサメの中にこんなサメはいなかったように思う。いいや、いなかった。
存在があり得るとすればゲームなどの空想世界だろうか。探せばトレーディングゲームの絵柄にはありそうな見た目ではあるが。
まさかゲームの世界から抜け出してきた? ──そんなまさか。
(このサメはなんなの────)
と、正体について脳裏を過ぎったところで仮称サメの口がぐわぁと開かれた。
大きく尖った歯が光る。
頭が警鐘を鳴らす。
次の瞬間にはきっと喰われる、小祈はそう思った。
「********」
小祈の予想ははずれ、サメは言葉のようなものを発した。子守唄を優しく紡いでいるような声だ。
見た目に反する声音に気が緩みかけるが、何と言ったかまでは分からなかった。聞いたことのない言語だったからだ。
サメの口が今度はぱっくりと大きく開かれた。
噛まれたら痛いでは済まない、まるで鋸のように強靭な歯が並ぶ口腔内が見える。
銀光が消え、大きな大きな影が小祈を覆う。再び危機感を覚える間もなくそれと同時に再び響いた声は、小祈もよく知る言語となって耳に届けられた。
(ふらる……じぇば? って……何? 迎えに来たって、どういう──)
そう思った次の瞬間にはサメに食われていた。
喰われるどころではない、頭からがぶりと丸飲み、これはもう死亡確定である。
──思ったよりも痛くない。
意識が闇に飲まれるほんの一瞬前に、小祈は一つだけ願いを唱えていた。
次こそは愛される人生でありたい、と。