遅咲き
「まだ終わらねぇのかよ」
「……」
「早く帰ろうぜ」
「ひとりで帰れば」
「冷てぇな。好きだからこうやって待ってんだろ」
「はいはい」
時間は放課後。場所は教室。
この頃日が暮れるのが早くなった外はすっかり夕焼けに染まっていた。薄暗い教室に、淡いオレンジ色が混ざっている。
期末テストが近いというのにテスト範囲を写していなかった私は、友達にノートを借りてひたすらそれを写していた。 7月の気温は夕方と言えども十分蒸し暑く、肌がべたついて気持ちが悪い。
一刻も早く終わらせて帰りたい私の心境も無視し、しつこく話しかけてくる壮介のおかげで集中できない。
彼は、椅子の背に両肘を乗せて私と向かい合う形で座っている。頼んでもないのに私が終わるのを待っているはた迷惑な奴。
昔は全く言わなかったのに何を思ったのか最近になって、好きだ好きだと何の捻りもない殺し文句を言ってくる壮介は物心ついた時からの幼なじみ。
「授業中寝てばっかだから後で苦労するんだよ、お前は」
そう言ってひどく退屈そうに欠伸をした。
私はあえて何も答えずにひたすらシャーペンを動かす。もう言い返すのも面倒くさい。
しばらく沈黙が流れた。開け放した窓からは生温い風が入る。黄緑色のカーテンが揺れた。グラウンドから、部活に励む他の生徒の声が聞こえて来る。硬式野球のバットがボールを打つ音を耳にした時気づいた。そういえば、甲子園が近いんだ。
すると突然、静かな教室にドアの開く音が響く。反射的に振り返ると、そこには野球のユニホームに泥をつけた藤岡くんの姿。
忘れ物でも取りに来たのだろうか。彼を見て初めて、教室に残っていて良かったと思った。好きな人が現れたのだ。嬉しくない訳がない。
「まだ残ってたんだ」
誰もいないと思っていたんだろう。藤岡くんは少し驚いたようにそう言った。自分のロッカーに荷物を取りに行く藤岡くんから、微かに土の匂いがする。
ノート写してたんだ、私がそう言おうとした瞬間、それまで黙っていた壮介が代わりに口を開く。
「ミズキの奴がノート写してなくてさ。仕方なく待ってやってるんだよ」
「だから別に頼んでないってば」
「人の好意を素直に受け取れよ、可愛くねぇな」
壮介がからかうように言う。本当に、なんて迷惑な奴なんだろう。よりによって藤岡くんの前で。
それを見ていた藤岡くんは目尻を下げて笑った。その笑顔が何とも言えず爽やかで、どうしようもなく格好いい。いい加減でだらしない壮介と違い、いかにもスポーツマンな彼。
お前らいつも仲良いよな、と全く嬉しくない台詞を吐いた。
そんなことないよ、ととっさに言い訳したものの、次の壮介のとんでもない言葉によってそれは全く意味のないものになってしまった。
「だって俺ら付き合ってるもん」
一瞬静まり返る教室に壮介の真面目な顔。
私は絶句した。余りに突然のことで言葉が出て来なかった。
そうこうしてるうちに変に気を利かせた藤岡くんは取りにきた荷物を肩からかけ、知らなかったよ。邪魔して悪かった。と、これまた爽やかな笑顔で教室から出て行く。
違うよ、と小さく呟いた私の声は届かず、彼は風のように去ってしまった。
再び2人だけになった教室で、目の前のふざけた男を思いっ切り睨みつける。
「どうしてあんな事言うの?私が藤岡くんのこと好きって知ってるよね」
「お前だって、俺がお前のこと好きだって知ってるだろ」
「だからって……ひどい、最低」
シャーペンを握る手を止めて壮介を責めた。てっきりいつもみたくヘラヘラ笑って、ごめんごめんと言うかと思ったのに、彼は笑わなかった。それどころかその真っ直ぐした瞳で私を見る。
耐えきれず目を逸らしたのは、私の方だった。
「お前こそ、何で藤岡なんだよ」
「……いいじゃん。別に」
「あいつ隣りのクラスに好きな子いるぞ」
「知ってるよ。もう、うるさい」
「健気だねぇ」
今度はいつものようにへらりと笑った。馬鹿にしたようなその笑い方は、昔から何も変わらない。
私はその笑顔を見ると、胸が痛むんだ――。
「好きなんだよ。ミズキ」
「もういいから」
私は再びシャーペンを動かす。わざと深く俯いて、壮介の顔を見ないようにした。
「嘘だと思ってんだろ」
「……」
壮介の持つ柔らかく生まれつき栗色の髪も、綺麗に二重が癖付いたその目も小さい頃は近所の子供たちによく女の子みたいだと馬鹿にされていた。
だけど私は、その髪や大きな目が大好きだった。
「そんなに怒んなよ、なぁ」
「……」
確かに私は怒っている。だけどそれは藤岡くんにあんな嘘をついたことだけが原因ではなかった。
だって私は、壮介の人を馬鹿にしたような笑い方や言葉の中に優しさが込められていることも知っている。
力を入れすぎて、シャーペンの芯が勢いよく折れた。カチカチと芯を出し、何事もなかったかのように再びノートを写す。
二度、風が大きくカーテンを揺らした。
「なぁミズキ」
「もう、壮介、うるさい」
「藤岡なんてやめとけよ」
「関係ないでしょ」
「お前、野球部好きだっけ」
「だから関係ない……」
「だってお前が」
「……」
黙り込んだ私に、どうしたんだよ、と心配そうに顔を覗いてくる壮介の手を振り払った。
泣き顔を見られたくなかった。
堪えきれずに涙が出た。
無神経な壮介に、腹が立った。
「何なのよ、今更」
「……ミズキ?」「一度も、振り向いてなんかくれなかったくせに――」
壮介が好きだった。
ずっと昔から好きだった。
好きだよ好きだよ、と何の捻りもない殺し文句を最初に言っていたのは私。そのたびに軽くあしらう壮介。
初めて真剣に想いを言葉にしたのは中学の時の体育祭。
帰り道に言った。壮介が好きだって。
その時壮介は、いつものあの笑顔で答えたんだ。気持ち悪い冗談言うなって。
冗談じゃないよって言った時の彼の反応は忘れない。困るって一言俯いた。
だから忘れたのに。想いを消したのに。壮介と正反対の藤岡くんを好きになったのに。
今更、ずるい――。
簡単な気持ちで壮介を諦めたんじゃない。
困らせてしまうくらいならもう二度と好きにならない、好きだなんて言わない、そう決めて幼かった頃からの気持ちに蓋をした。
その決意を選ぶことが私にとって、どんなに辛く大きいことだったのかなんて壮介には分からない。
好きだと伝えるたびにそれをうまく流され、あしらわれ、そのたびに涙を堪えてきた私の想いなんて、分かってない。
それでも、嫌いになれなかった。
壮介は少し悲しそうに眉間に皺を寄せた。
私はまだ写し終わっていないノートを閉じ、シャーペンを筆箱に片付け全部まとめてカバンに押し込んだ。
立ち上がろうとしたけど力が入らなかった。
色んな感情が混ざった心がすごく重い。ずっとずっと壮介だけが好きだった頃の気持ちが重くて重くて堪らない。
短い沈黙のあと、顔を上げない私に向かって彼は言った。
「俺、遅かったかな」
「……かなりね」
「もうミズキは、俺を好きだとは言ってくれないんだな」
壮介はそう言った。
窓から入る夕日が真っ赤に染まり、一瞬目眩がした。
喉の奥に何かがつっかかって声が出ない。
うん、と答える代わりに小さく頷いた。たったそれだけのことなのに、胸が痛くて痛くて壊れてしまいそうだった。
「ごめんな、ミズキ」
そう言った壮介に何も言えなかったのは、彼がどうして謝るのかが分からなかったから。
今まで応えてやらなくてごめん、なのか。それとも今更こんなこと言ってごめん、という意味なのか。
とにかくその‘ごめん’に今まで私たちが一緒に過ごしてきた長い長い時間が込められていることだけは分かる。
確かに壮介は何も分かっていないけど、だからと言って彼が謝る必要は全くないのだ。
だってもう、壮介のことを好きだと言っていた私はどこにもいないのだから。
次の日、壮介は普通に、全く今まで通りに話しかけてきた。憎まれ口を叩き、馬鹿にしたように笑う。
私も普段と何の変わりもなく応えた。 だけどもう、壮介は私に好きだとは言わなかった。
そして私もそれが義務であるかのように、昔の記憶に再び蓋をした。
いつものように下らないやりとりをする中、ふいに壮介の目が真剣になる。
そして言うのだ。あのさ、と。
なに?と聞き返したのに、彼は何も言わなかった。だから私も、それ以上は訊かなかった。
ふいに窓から入ってくる風にのって、夏の匂いがした。
結局壮介はそれ以上何も言わず椅子から立ち上がり、俯いたまま教室を出て行く。
私は追いかけなかった。呼び止めることもしなかった。
遅咲き
(遅くては意味がない。
遅咲きの花は枯れるしかないのだから)
だけど無性に悲しくなって気を紛らわすために外を見た。
白々しいくらいの青空が光る。遠くの山からは入道雲が顔を出している。
騒がしいクラスメイト達のお喋りをBGMに瞼を閉じた。
そしてひとり静かに、とっくの昔に終わっていたはずのこの恋に、今度こそさよならを告げた。