第三十話 狂気を呼ぶ青魔石
「この、愚か者め!」
バシーンッという高い音と共に、使用人のマルコは廊下へ倒れこんだ。
「お前という奴はなんと無能か! このウスノロめ、これで花瓶を割るのは何度目だ?」
「も、申し訳ありません旦那さま! この品の弁償はいかようにでも」
「愚か者め。これはお前が一生働いても手に入らぬ価値よ! お前の命、十人分集めてたとて、叶うかどうか」
叩かれた頬に痛みを覚える暇もなく少年――マルコは胸ぐらを掴み上げられる。
周囲の使用人、料理人、執事たちが、「またか」という表情で顔をそむけた。
「いいか? 次に失敗したらただではおかんぞ。以前のミシェルのように、鞭打ちで痛めつけてやる」
「それだけは勘弁を……」
「ならばこれを機に改める事だな。……まったく、使えん使用人よ。割った花瓶は片付けておけ。俺が次ここを通るまでにな」
胸を突き飛ばされて、マルコは廊下に倒れる。
傲岸不遜な様子で、屋敷の主である『ボルコス伯爵』は、その丸々と肥えた体を揺らし、巨大な豚のような足取りで、その場を後にした。
たちまち聴衆だった使用人たちが、マルコへ駆け寄ってくる。
「大丈夫かマルコ!」
「ちくしょう、ひでえ奴だ、何もこんなにすることないのに」
「あーあー、また服が台無しじゃんか。あの野郎!」
傍若無人にして傲岸不遜な伯爵の所業に、皆が苦言を吐く。
「だ、大丈夫だよ、みんな。僕は平気さ。旦那さまの機嫌を損ねたのは事実。反省しないと」
「……つってもあの人、我々をこき使い過ぎだぜ。いくら何でも三日三晩ほとんど働かされて、体力と集中力が持つもんか」
「そうだ、そうだ、マルコは悪くねえ」
使用人の一人がそう言うと、皆が同意する。
「旦那さまは我々使用人を何とも思っていない」
「むしろ家畜か奴隷かと思っている」
「ひどい人よ、まるで悪魔に等しい所業だわ!」
口々に、いつものように、憤懣やるかたない様子で不満を露わにする面々。
とは言え、彼らにここを出て生活できる力などない。
孤児だった彼らには行く宛もなければ先立つ物もないのだ。この屋敷で、いいようにこき使わるのがオチ。
彼らにとって、ボロ雑巾のように使い潰される事は運命なのだ。
「こうなったら抗議しようぜ!」
「でも、どうやって?」
「旦那さまは、元探索者を護衛に雇って、部屋にも入れてもらえないぞ!」
「隣の貴族さまに相談するとか……?」
「馬鹿な、まともに話など受け合ってくれるものかっ」
口々に提案が上がっては否定される。
マルコは、努めて柔らかい笑みをこぼした。
「大丈夫さ、旦那さまも人間。情もあれば学習もするさ。いつか判ってくれる……こんな扱いしていいわけがないとね。僕らはそれを信じていこうよ」
「お前……相変わらず楽観的過ぎるぜ」
「人がいいのは美徳だけれど、そのうち体壊すぜ」
毒気が抜かれたのか、柔和な笑みのマルコに皆が困ったように彼を見つめた。
「ま、いざという時は屋敷を抜け出して街の治安兵に相談しよう! このままじゃ我々は過労死だ」
「そうならないように頑張るだけだよ」
マルコの一言に、やれやれと皆が肩をすくめた。
† †
メアの実家、レストール家より古い歴史を持つ『ボルコス伯爵家』。
そこは、『高名な探索者育成』の場として世間に讃えられていた。
多数の孤児を受け入れ、《探索者》として鍛錬、一流の人材へと成長させ、迷宮へ送り、多大な功績を上げさせたのだ。
魔物の討伐。地図の作成、戦術の構築、秘宝の取得等……。
ギルドの中でも、その評判はかなりの域。高名な探索者の中には、ボルコス伯爵家の出身者も数多くいた。
かの有名な養成機関、『剣聖の里』、『ギルド養成所』、『レクシア教導傭兵団』に並び、探索者育成のトップの一つとして名を馳せていた。
けれど、いざ内部に入ってみればその明暗はくっきりと別れている。
探索者として才能を伸ばせる者はまだいい。
けれど見込みのない者、ボルコスの意にそぐわない者は、『使用人』として落とされ、奴隷のように屋敷内で働かされるのだ。
広大な敷地と高い壁に囲まれた伯爵家から出ることは叶わない。
屈強な元探索者の守衛が阻むそこから、彼らを逃げだせる事はまず出来ない。
一度探索者としての道を閉ざされれば未来はなく、彼らは孤児のままの方が良かったと思えるほど、不満や疲労、やるせなさを抱えて過ごしていた。
† †
けれど、マルコにはそんな環境でも耐えられる理由がある。
「大丈夫、マルコ? 今日もひどい傷ね」
同僚の使用人、美しい少女、テレジアの手当てを受けながら、マルコは微笑んだ。
「平気、平気、こんなの何でもないよ。僕は親方さまを信じてる。いつかきっと、僕らに優しくしてくれるってね」
「あなたの呑気な性格には呆れるばかりだわ。でも、そうね。信じる事は大切かもしれない。こんな地獄みたいな屋敷の中で、あなたの言葉だけは、元気が出るから」
「あはは……そう? それなら嬉しいな。テレジアこそごめんね? いつも僕の手当てばかりさせて」
途端にテレジアは顔をそむけた。
「べ、別に好きでやっているわけじゃないわ。ついでよ、ついで。元々、あたしは薬草学をかじっていたから、その練習代わりよ」
「ひどいなぁ、練習台って。……でもさ、テレジアは偉いよ。孤児院でも薬草学者を目指していたよね。尊敬する」
「うう……」
正直で飾り気のない少年の笑顔に、テレジアが頬を染める。
思わず顔をそむけながら、
「べ、別に偉くはないわ。……でも、あたしはいつか薬草学者になるつもり。その夢は捨ててない。あたし……傷を見るのが嫌だから。人が傷つくのが嫌だから。――今はこんな状況だけど、いつかきっと、抜け出して立派な学者になる」
「素敵だね。もし抜け出せるよう、僕はお祈りするよ」
素直な気持ちをマルコは口にする。
「世界一の学者にテレジアがなれるように。いつもこの屋敷で、祈ってる」
「……ちょっと、何を言ってるの? あんたも来るのよ?」
「え?」
マルコはきょとんとした。
「当然でしょ? あたし一人でそんな大それた事できるわけないじゃない。あなたと二人きり……じゃなかった、あなたと他に何人か集めて、一緒に抜け出して、そして旅に出るのよ」
「え、ここを出る……? む、難しいなぁ、無理だと思うけど」
「もう! ここでそういうこと言うなんて! あなたは時々勇敢だけれど、普段は呑気と言うか、危機感足りないと言うか……」
テレジアはやれやれと呆れて、マルコのために薬を塗る。
伯爵に殴られ、切れている唇へ薬を塗った。
「痛てて!」
「ほら、動かない」
痛がって顔をしかめるマルコ。テレジアは「まったくもう!」と言って、優しげに笑ったのだった。
† †
かつて同じ『孤児院』で暮らし、一緒に『屋敷』に連れてこられたマルコとテレジア。
テレジアはマルコの事が好きで、マルコも彼女の事を好いていた。
けれど、それは今伝えても互いを困らせるため伝えていない。
伯爵は他人の幸せが気に入らない質ゆえに、笑っている使用人を見るだけで鞭で叩いてくる。
だから夜、ひっそりと二人で会って会話――(というより傷の手当て)をするのが日課なのだが、これが楽しい。
伯爵に隠れて、秘密の逢瀬で、秘密の会話。
なんてことない会話の内容だが、その関係が気持ちよくて、けれどもどかしい。
今は耐える時だと思いながら、彼らは耐え続けていた。
いつか、きっと良くなる。
未来はいずれ、明るくなる。そう、信じる事が大切なのだと。
こんな地獄の掃き溜めのような場所でも、抜け出せるのだと、そう信じていた。
† †
けれど、悲劇はいつだって唐突だ。
その日、マルコはいつものように屋敷の掃除を終えて、くたくたになり自室に戻った。
また伯爵に叩かれ、壁に激突して足を痛め、けれど、テレジアが看護に来るだろう、そう思っていた矢先だった。
テレジアが、いつまで待ってもやって来ないのだ。
はじめは所用で遅れるのかと思っていた。彼女も忙しいのは確かで、前例もあった。
けれど、十時が過ぎて来ないのはおかしい。やがて十一時が過ぎ、日付が変わっても、彼女は現れない。
「(おかしい……。こんなに遅れた事はなかったのに。どうして今日、テレジアは来ないんだ?)」
そう思うマルコ。
いや、別に約束している訳ではないから、来なくても文句は言えない……が、それにしたって遅すぎる。
何か嫌な予感が、した。
それは、初めて伯爵に暴力を振るわれ、怪我をした時と同じ――もしくはそれ以上の。
「……テレジア?」
マルコは、痛む足を引きずって廊下を歩いた。
テレジアの部屋のある、すぐ上の階の部屋に行き、ノックをする。
けれど、返事がない。
しばらくノックを繰り返し、様子を見てみたが、ちっとも彼女は現れない。
悪いと思いつつも、内心で謝りつつ、マルコは勝手にドアを開けた。
「――いない?」
暗がりの中に、テレジアの姿はなかった。
几帳面に揃えられた本や磨かれた調度品、粗末なベッドがあるだけだ。
人の気配がしない。
心臓が、嫌な感じに跳ねる。
闇の中に、取り残されたような不吉な感覚。
マルコは踵を返し、廊下で別の使用人に話を聞いた。
けれどどの使用人も、「テレジア? さあ、見ないな」「そう言えば、今日は午後見かけなかったな」「変な客は歩いていたけど」など、そんな事ばかり。
「テレジア、どこだ!」
マルコは、あちこち屋敷の中をさまよいさまよい歩いた。けれど、どこにも、テレジアの姿は見当たらない。
広い屋敷をくたくたになってマルコは走り回り、最後の望みをかけて、屋敷の主である伯爵の部屋に赴く。
そこで――。
「おっと、なんだ、マルコか」
ちょうど部屋から出てきたのは、肥えた体にでっぷりとした腹、『ボルコス伯爵』が笑いながら現れた。
「だ、旦那さま! 少しお聞きしたいことがあります」
「ん? なんだ、何でも言ってみよ」
「あの――」
言いかけて、違和感があった。
何か、伯爵が優しい。
柔和な口調。穏やかな顔つき。
いつもはあんなに恐ろしい顔をしているのに。どうしてかその夜の彼は、妙に機嫌が良い。
それはまるで――大きな買い物をして、『利益』を出した商人のように。
「あの、テレジアを知りませんか?」
「テレジアか? あいつなら売ったぞ」
一瞬。
頭の中に。空白が。
「――え?」
マルコは何を言われたのか、分からなかった。
売った。テレジアを。売った。
――体が、数瞬遅れて、ぶるりと震える。
「そ、それは……どういう、意味ですか……?」
「ん? どういう意味も、『売った』と言う以外にあるまい。『奴隷商人』に差し出し、対価を得たのだよ。今日、西国の奴隷商人が来てな。テレジアを見初めたので売り払った。――クク、凄いなぁあいつは。金貨七百枚で売れたぞ?」
「そ、そんな……」
愕然と、マルコの体が打ち震える。
嘘だ、たちの悪い冗談だと、咄嗟に思いかけるが――。
「クク、物好きもいるものだな。俺自身は小娘の体になぞ興味ないが、世の中には若い女を愛で、楽しむる輩が多くいる。あの娘は、器量はなかなかだ。まあ、今頃は港に着いている頃だろう」
「そんな……馬鹿な……」
膝が震えて、体が震えて、マルコは二の句を告げられない。
「探索者の上位ランクにはな、自分の周りに娘を侍らせ、愛でる趣味の者もいるそうだ。そういう者は、心ゆくまで娘を愛で、決して放さないという。まあ……あの小娘も幸せだろうよ。強き者に愛され、孕まされ、雌として本望を得る。――それは女として至高の喜びだろう? それ、俺は今機嫌がいい。お前にもいくらか金貨を握らせてやろう」
そう言って、ボルコス伯爵は三枚の金貨をマルコへ手渡した。
ぴかぴかに磨かれた、上質の金貨だ。
それは、テレジアの身と対価にして得られた、輝く金貨。
そしてボルコス伯爵はそのまま、護衛を連れ部屋の前を後にしてしまった。
残されたのは、棒立ちのマルコと、テレジアと引き換えに得た金貨、三枚。
『いつか、薬草学者になるの』
『こんな所なんて抜け出して』
『その時はマルコ、あなたも一緒よ』
脳裏でテレジアの言葉が、美しい旋律と共に吹き抜けていった。
「うそだ……」
ぶるぶると、マルコは力強く金貨を握りしめる。
「こんな、こんな事って……!」
膝から崩れ落ち、震える体を腕で支える。
――夢が、あったはずだった。
――二人一緒に平穏な場所に行き。
――当たり前の、人としての幸せを得る。
今はまだ到底実現できないけれど。ちっぽけな使用任意過ぎないけれど。
それでも、彼女との夢は一塁の望みで、一筋の光のように、二人は思っていたはずだった。
けれど、もうそれは叶わない――。
「うそだろ、テレジア、テレジアぁ……!」
慟哭する。震える。後悔する。もっと、もっと自分は何か出来たのに。そんな自責の念ばかりが脳裏をさまよう。
――そして、運命は悪魔よりもなお意地悪だった。
マルコの目の前に、青い――輝く石が現れたのだ。
「……なんだ、これは?」
絶望に打ちひしがれいた少年は、その石を手に取る。
青く美しい、宝石の如き石だ。
その光に魅入られたように、マルコは表面を撫でる。
瞬間、凄まじい力の波動を感じ取る。
――な、なんだこれは!? 凄まじい力だ!
彼は、運がなかった――あるいは、運がありすぎたのだろう。
マルコは先天的に、魔力を内包した物と感応力が高かった。
常人ではただの妖しい石にしか見えないそれも、その本質の、力の一端が把握できた。
ゆえにその石を、自らの運命に寄り添う、力の具現だと信じてしまった。
【《パラセンチピード改》 『効果:雷撃・麻痺』 『ランク:マイナス五』】
瞬間。
脳裏に、濁流のように、強い怨念が渦巻いた。
――排除セヨ。排除セヨ。排除セヨ。排除セヨ。排除セヨ。
――排除セヨ。排除セヨ。排除セヨ。排除セヨ。排除セヨ。
抗うことなど出来なかった。それは、小舟が大津波にさらわれるのに等しい。
マルコの理性は、一瞬で押し流され消えてしまう。
代わりに彼の中を占めるのは、『暴走』の状態のもと、どす黒く渦巻く感情のみ。
――排除セヨ! 排除セヨ! 排除セヨ!
――排除セヨ! 排除セヨ! 排除セヨ!
――排除セヨ! 排除セヨ! 排除セヨ!
「テレジア……どこだ……!」
もうろうとする意識の中、マルコは石を握り締めたまま、屋敷を走り回る。
すぐに、廊下の先、伯爵のでっぷりと肥えた体に追いついた。
「ん、なんだマルコ、まだ何か用が――」
「テレジアを、返せ……!」
それは、護衛としての本能が働いたのだろう。
伯爵に付きしたがっていた二人の護衛――そのうちの一人が、血相を変えナイフを構えた。
「お下がり下さい旦那さま――」
「――邪魔だ!」
青い魔石が光る。マルコの手の中で妖しく光る石から、盛大な量の『雷撃』が放たれ、護衛人を、その体を、ボロ布のごとく弾き飛ばした。
「馬鹿な……!?」
バチバチと、辺りに散乱する猛烈な紫電。伯爵は慌てて逃げ出そうとした――。
けれど遅い。
《パラセンチピード改》――それは『麻痺』という、生物を痺れさせる力により、紫電が発生させる魔物の力。ボルコス伯爵は雷撃をもらい、体の自由を奪われた。
「うが、ああ、あああ……っ」
大きな音を立て、床に転がる伯爵。
まるで先日と鏡のように逆の光景。
弱者が這いずり回り、強者がそれを見下ろす構図。
「テレジアは、どこだ……っ! 早く、早く言え……っ!」
「な、き、……」
何をする貴様、このままでは許さぬぞ! ――と言いかけた伯爵だが、麻痺した舌でうまく話せない。
必死に彼は指を動かし、かろうじて屋敷の『南西』を指し示す。
すると、マルコは血走った目で叫んだ。
「があああああ! があああああっっ!」
――あっちだ、あっちにテレジアはいる! 待ってて、すぐに助けるから!
その時のマルコの脳裏に理性はなかった。
体の中が、火のように熱かった。
まるで獣のようにどんな壁も飛び越えられそうな気がする。体の限界を感じられない。
『暴走』とは、心だけでなく体の限界も突破させる悪魔の状態異常。
マルコは屋敷の窓ガラスを破り、下の庭園に倒れ込むと、体の痛みも忘れ街へ駆けていった。
遠吠えのようなマルコの咆哮が夜闇に鳴り響く。
奴隷商人が向かった先へ。
テレジアの連れ去られた方向へ。
「テレ、ジア……! がぁぁあああっ!」
魔獣の如き咆哮。
マルコは止まらない。
たとえその道中にどんな人や物があろうとも。
全て排除して、彼女のもとに辿り着く獣が、このとき誕生した。





