第百四十八話 涙の選択
アーデルにとって、エルデリウス男爵とアリアと出会えたことは幸せだった。
けれど運命とはときに意地悪だ。サイコロの目が6ばかりと思えば、1ばかりのときも訪れる。
アーデルは、何度目かの危機を迎えることになる。
――異変は、彼らと出会って、一年と二ヶ月の後に起こった。
「おはようございます、お嬢様。ご主人様。……どうされたのですか?」
朝、使用人の一人としてアーデルが食堂に向かったとき。
皆の様子がおかしい。暗い雰囲気が空間を覆い尽くしている。
料理人も、給仕も。
庭師も。誰も彼もが、沈痛そうな面持ちをしている。アーデルは、近くにいたアリアに話を伺った。
「お嬢様。どうなされたの、ですか……?」
「……失敗したって」
アリアは感情が凍り付いたように言った。ぎゅっと長いスカートを握り締め、悔しそうに呟く。
「何が……ですが?」
「お父様の事業が――失敗したの」
それは、この生活に明らかな亀裂が入ったことを意味していた。アーデルの目が、思わず大きく見開かれた。
「――話は三日前に遡るんだ」
夜半。
屋敷の主が戻った後。アリア、アーデル、執事だけを集めた執務室。
エルデリウス男爵は強張った顔つきでそう切り出した。
「いくつかの探索者に、私は支援として金貨を貸し出していた。それで、《迷宮》で成果を出したら、分け前を何割かもらう手筈だったんだが……」
その声音はひどく動揺しているように思えた。
いつもの溌剌とした様子は微塵もうかがえない。後悔を伺わせる響きだった。
「今日になって、どのパーティからも連絡が途絶えてね。――ギルドに詳細を聞いたところ、『すべてギルドカードに問題は無し』と言われた。つまりは――」
アリアが察して先に言う。
「全員が、迷宮でギルドカードを落としたってこと?」
アリアの問いに、男爵が頷く。
『探索者』は迷宮に入る際、身分証兼探索を行うため、様々な機能を備えた『ギルドカード』というものを持ち歩く。
そして魔物を倒せば自動的に記録され、遭難すればギルドはそのカードを頼りに捜索隊を出すことも出来る。
探索者にとって必需品だ。
「カードは探索者にとって命綱だ。落としたなら必ずギルドに連絡を行う。だが、その形跡も見当たらないと言われた」
ギルドカードは探索者にとっての必須品。ゆえに、それを落としたままにするわけがない。
それなのに見つからなかった。そうなると残された可能性は――。
「……まさか」
アリアがそこでまたも悟った。
「そう。ギルドに調べてもらった結果、『故意に落とされた可能性が高い』との報告を受けた」
「そんな……」
アリアが絶句する。アーデルも、きな臭い話の流れに、思わず身を固くした。
男爵は話を続けていく。
「契約していた探索者は、名を《鵲の緑旅団》という、それなりに名の通ったパーティだ。しかし全滅の可能性が低いにも関わらず、ギルドカードだけが落とされたということは――」
「お父様のお金だけ持って、逃げた……?」
アリアの怒りの声に、エルデリウス男爵は、苦々そうに小さく頷いた。
「その可能性が高い。おそらくは計画的だ。利益を得るための行動だろう」
男爵から金貨を借りて、迷宮の中でギルドカードを落とす。
当然、ギルドカードの恩恵は失うが、借りた金貨はそのまま懐に入れられることになる。
――詐欺だ。
「まさか……」
室内が、重苦しい空気に包まれた。
誰も、何も口にしない。沈黙の魔術でもかけられたかのようだ。
一瞬、唇を噛み締めかけて、かろうじてアリアが、小さな笑みを顔に張り付けて問う。
「で、でも……お父様。その……お金、それだけで全部失ったわけじゃないでしょ? いくつかのパーティがあるんだから、その分は――」
男爵は小さく首を振った。
「アリア。ギルドカードが消えた探索者パーティは、私が貸していた、『全てのパーティ』なんだ。一つじゃない」
アリアの笑顔が呆然としたまま固まった。
仰天して、言葉を受け入れがたくて、必死に泣き笑いを浮かべる。
「え……うそ」
「事実だ。私は全部で9つのパーティと契約し、それぞれに金貨を貸してきた。もし一つや二つ、問題が生じても問題ないように」
男爵は重苦しい口調のまま続けた。
「しかし、今回は契約した九つのパーティ、その全てが『カードを失った』。――連絡もつかない。つまりは――」
すべてが詐欺を行った。
背景からそれは明らかだ。9つのパーティは男爵の資産を別々に借りたまま消えた。
計画犯。そんな言葉が、その場の誰の脳裏にも浮かんだ。
「私は騙された。契約した探索者パーティは、『支援金詐欺』の集団だった。今から探しても無駄だろう。ギルドにもそう言われた」
アリアが身を引き裂くような声を上げた。普段の彼女からは考えられない、金属を引っ掻いたような、金切り声だった。
「うそ、うそ。そんな……っ」
「先ほど、ギルドからそのように通達を受けた。最近、この大陸で噂の集団だったらしいね。――運がなかった。まさか、詐欺集団と契約を交わしてしまったとは……」
事前情報では別の地方にいるとの情報は得ていた。決して油断していたわけではない。
しかしどうやってか、ギルドの審査もその事前情報もすり抜け、詐欺をやってのけた。界隈では最悪の集団とのこと。
重々しい空気が、より一段と強くなった。まるで重力の魔術でも受けたかのように、誰も、何も言うことが出来ない。
「……お、お父様、でもまだ大丈夫よ。だってお屋敷の全てから、お金がなくなったわけでもないもの」
男爵は力なく笑いを浮かべた。
「そう……だね。私の財産は、まだ大丈夫だ。そう、大丈夫なんだ……」
彼は、憔悴しながらも努めて明るい声音でそう言った。
† †
しかし――五日後。
「と、盗賊が忍び込んだって!?」
エルデリウス男爵は朝起きて開口一番、そのようにして叫んだ。
執事である壮年の男性が言う。
「はい。昨夜のことでございます。私が見回りをしている最中、妙な音がしたため一階を調べてみました」
壮年の執事は、緊張と狼狽もあらわに続ける。
「そうすると……複数の人間の痕跡がありました。朝方になるまで調査をしたのですが……その、金庫から、財産が……」
男爵は頭を抱えわめきながら怒鳴り散らした。
「なぜもっと早く言わなかったんだ!? すぐに私を起こせば対処出来た! それを――」
「賊は、一階と二階以降を遮断する『魔術』を使っておりました。……衛兵ともども調査したときには、賊はすでに……」
「――く、まさかそんなっ」
男爵は動揺と怒りのあまり激しい口調となった。
「なぜ、私のところばかりにこんな! 先日のことと言い……なんて不運な……!」
探索者パーティ複数による詐欺。そして今回の強盗。あまりといえばあまりの不運だ。
さすがの男爵も感情を抑えきれず、憎しみの余り周囲の物に当たる。
広間の飾りとして設けられていた花瓶が落ちて甲高い音と共に割れた。
「被害総額は? どの程度になる?」
「目下、衛兵と使用人の複数で調査をしております。……が、金庫の中はほぼ空。取り外し不能な絵画や一部の複製品を除き、価値あるものはほとんどが奪われました」
「く、ううううう!」
男爵が魂の底からのような雄叫びを解き放った。
何度も広間のテーブルを叩き、わめき、狂おしいまでに絶叫をして辺りに八つ当たりを行っていく。
「く、くそ……どうして……っ!」
「お父様……」
呆然と、その様子に凍り付いているのはアリアだ。
彼女はいつもの明るい笑顔も消え去ったまま。何もすることが出来ない。それでも気丈にも、提案を述べる。
「で、でも……まだ取り戻せるんでしょ? 街の衛兵や、ギルドとかに知らせれば……」
「いや。今朝方、ギルドから連絡があった。すでに私の財産は、この地域を離れ遠い異国に向けて移動させられていると。それでおかしいと、屋敷に戻ったらこのざまだ」
誰もが絶句していた。アリアも、アーデルも。目の前で告げられた現実に、理解が追い付けない。
男爵は一気に十歳も老け込んだようだった。
「私は、実質的に破産した。執事長……諸君らを雇う金も目途もない……。金庫にはいざというときの隠し金庫もあった。……が、それも開けられていた……。もはや、私にはこの状況を打破出来る手段がない」
日頃の優しい風貌は全て消え去っていた。
あるのは周到で狡猾な探索者たちや強盗に対する強い怒り、恨み。
そして現状への失望だけだった。狂おしいまでの後悔や悲しみが彼を覆っている。
「お父様……嘆かないで」
アリアは隣に寄り添った。その手で優しく父の肌に触れる。暖かなぬくもりが父を癒やした。
「気になさらないで……まだ大丈夫……」
「すまない、アリア……母さんに託された金品も全て失ったのに……もはや私は男爵の地位すら危うい……。どうすれば……」
とっさにアーデルは言葉を添えた。
「ギルドや都市長に言って、対策を講じてもらえばいいわ。それでだめなら……」
「いや、多分、無理だ。似た例を知っている。――ギルドも都市長も、解決する術は持たないだろう。せめて半年の間は猶予を与え、再興するための手段を用意するくらいは、温情があるといいが……」
アリアは黙って父の手を握った。
数日前とは比べ物にならないくらいに憔悴し、疲弊してしまった父。
それを慰めるしか出来なかった。無力。そんな言葉だけが彼女の顔にこびりついていた。
† †
――二週間後。
方々に手を尽くし、何とか挽回を図ろうと奮闘したエルデリウス男爵だったが、徐々に疲弊は強くなる一方だった。
優し気な雰囲気はぎらついた目つきと荒い息に変わり、穏やかな気質は激しい口調や怒声に変わっていった。
主人が変わると、使用人や衛兵まで態度は変わってしまう。
常に殺伐とした空気が屋敷の至るところで感じられるようになった。
アーデルは、はじめの頃こそアリアと過ごす時間はあったが、次第にそれも少なくなっていった。
† †
そして四ヵ月後。
「アーデル、話とは何だい?」
ある日、すっかり使用人が減り、もの悲しくなった食堂で男爵が一人で紅茶の空きカップを見つめていると、アーデルが訪れた。
今では大半の使用人が解雇され、最低限の屋敷の管理のみが成されている。
都市長に融通を計らってもらい、しばらくは保護対象としてもらっているが、それもいつまで保つわけではなかった。
「今日はお願いがあって相談に参りました」
アーデルの声音がいつも違う。
どこかおっとりとして気丈さとは縁が薄い彼女だったが、言葉に力がある。
すぐさまそれを察した男爵は、ぴくり、と体を反応させて身構える。
「――わたしを売って、資金にしてください」
男爵は、悲しみとも、悔しさともつかない苦渋の表情を、浮かべていた。
食堂の椅子に座ったまま拳をぎゅっと握り締め、苦痛に耐えるような顔をする。
「なに言っているのアーデル!? そんなこと、駄目に決まってるじゃない!」
隣で一緒に来ていたアリアが、驚愕の面持ちで叫んだ。
「……聞いてください。このままではこのお屋敷は手放すことになり、ご主人様もアリアも、今の生活は続けられなくなります」
「それは……そうだが」
「ですがわたしは錬金術を使えます。……才能としては平均程度ですが、幸い、容姿は……それなりと言われています。『お金』になります」
「――――――」
その沈黙は、男爵とアリア、両方のものからだった。
アーデルがその決意をしたこと、そしてそんな決意をさせてしまったこと、悔しさと情けなさ、様々な感情が渦巻いている。
「錬金術師レクセイドは、わたしに戦闘用の技術を開花させるようにも施しました。傭兵、探索者、……あまり考えたくないですが愛玩兼護衛としても活躍は出来ます。付加価値は多いのです。わたしを売る――それこそが打開するための手段かと」
「それは駄目だ!」
アリアが叫ぼうとして――先に男爵が怒鳴った。
「君は、うちで引き取ると決めたんだ、それを売り飛ばす……? そんな残酷なこと、出来るわけがない!」
アリアも、気圧されつつも大声を張り上げた。
「そ、そうよ! いくらあたしたちの家が危機でも……アーデルが救うのは筋違いだわ! ……第一、あたし、そんなこと許せない……っ」
「ですが、他に方法がありません」
アーデルは理路整然と予め用意していた答えを述べていった。
「自力での復帰はもはや不可能……出来るとしても時間が必要です。わたしは……奴隷などの経験はります。耐えられないことはないです」
「でも! それは! 君に強いてはいけない選択だ!」
「そうよ、あたしたちのせいで、アーデルまで不幸に巻き込まれな――」
「いいのです」
アーデルは、たおやかな笑みですべてを断ち切った。
「奴隷商、悪徳錬金術師、襲撃者……様々な障害がわたしの前に現れました。でも男爵には……アリアには、とてもお世話になりました。じつの姉にも捨てられたわたしが、長く気を許せる場所。それがこの屋敷とあなた方なのです。……だから」
どうか、せめてもの『恩返し』に貢献させてください。
これは『売却』ではなく、『恩を返す』ための行為だと。決して、自ら不幸になる選択ではないのだと。
小さく、微笑すら浮かべてアーデルは告げる。
「……アーデル、君は」
「ううう……そんな、そんなぁ……」
男爵もアリアもわかっている。
口ではそれは駄目だ、と否定することは出来る。
けれど代替案もなく、復興するには時間が必要だ。どうしても火急の、ひとまず耐え凌げるだけの資金が要る。
そう、売れば助かるのだ。アーデルを、奴隷商に渡すことが出来れば。
十三歳の時点で美しく、さらに錬金術をたしなみ、精神的にも鍛えられている。
ある意味では理想の売却品が、その価値が、アーデルにはある。
皮肉にも一年以上、貴族の家で過ごしたゆえの気品も、かなり会得するに至った。
いかなる奴隷商も、アーデルを一級品として扱うだろう。
「……決意は、固いんだね?」
男爵が、拳を震わせながら、歯を食いしばった後、そう静かに尋ねる。
「はい。……駄目とおっしゃられても、勝手に抜け出します」
「……」
「お父様……っ」
アリアは、最後まで抵抗しようと口添えしかけた。
けれど――アーデルの剣幕と、その瞳、覚悟を決めた顔を見て、何も言えなくなってしまう。
「……うう、うう……」
両指が手のひらに食い込むくらい、アリアは苦渋に手を握り締めていた。
それが、これまで培った彼女からの親愛であると、アーデルは嬉しく思う。
「わたしは大丈夫です。それよりお二人の方が心配です。……三人ともこのままより、二人だけでも今の生活を。……どうか、お願いします」
男爵は、五分近くも黙っていた。
アリアも、隣で、体を震わせながら何度も言葉を紡ぎかけて、アーデルを見て口を閉ざす。
「すまない……すまないな……アーデル」
男爵はそうやって、白髪が目立つようになった頭を下げた。
アーデルはにっこりと笑って応じた。
「いいえ。大切な時間をありがとうございました。男爵様。そして……アリア」
アリアが泣きながらアーデルを抱き締めた。
その背中を、アーデルは優しく撫でていった。
† †
後日。
アーデルは、街に移動して、再び売りに出された。
十三歳であり、すでに可憐な少女となっていた。
さらには錬金術も使えるとう彼女は、まさしく一級品といえた。
そのオークション市場では最高値である――金貨10000枚という、破格の値段で売れた。
買ったのは、『ヴォルキア皇国学園』の学園長。
大陸において覇国とも言われる大皇国の学び舎の長。
権力者の第一人者とうたわれる、大金持ちの中の大金持ちであった。
お読みいただき、ありがとうございます。
次回の更新は5月4日、20時になります。





