第百四十七話 優しい貴族
「――大変、だったんだね」
アーデルを拾ってくれたエルデリウス男爵は、経緯を聞いて、そう告げた。
品のある佇まいに理性のある瞳。
久しぶりに見た安全な大人だった。アーデルはそれだけで、涙が出る。
「仲間と共に里で暮らしていたら、襲撃者に遭った。そして何もかも失って旅をして、たった一人に。……よく頑張ったね」
「アーデル、大丈夫?」
男爵の娘であるアリアが、咄嗟にアーデルを抱きしめてくれる。
思えば家族以外で抱きしめられるのは久々だった。
エデンの里の皆を除けば、おそらく初めてかもしれない。
「わた、しは……? どう、して……?」
「それは、私が説明しよう」
エルデリウス男爵が簡単に経緯を説明してくれた。
「日課の狩りに出かけている帰りにね。君を見つけてね。事情があって放浪しているのかと思って、連れてきた。……まさか、そのような出来事を経てきたとは思わなかったが……」
エルデリウス男爵は優しく、また感情豊かな男性らしかった。
軽くアーデルの話を聞いただけでも、同情の気持ちを向けてくれる。
娘のアリアも同じだ。
アーデルのことを抱き締め、その体温に少しでも自分の幸せを分け与えるように、優しく、しばらく抱いてくれていた。
「――アーデル。あなたはもう何も心配いらないわ」
アリアは悲しそうに、けれど元気を見せるように告げた。
威厳を見せて。貴族の誇りを見せつけるように。
「だってこの屋敷は平和だもの! 私と、父様があなたを守ってあげる!」
それはおそらく、その時点のアーデルにとって一番欲しかった言葉だった。
嬉しさにアーデルは、嗚咽しながら喜びの声をあげていた。
† †
優しい春の風が吹き、厳しい夏の日差しを終える。
やがて木の葉が舞い散る、秋が訪れる。
流転する季節の中で、少女は過ごす。失われた青春を取り戻すかのように。穏やかな時が流れていった。
初めてアーデルがエルデリウス男爵の屋敷に保護されてから。
一年の時が過ぎていった。
† †
香しい香りが辺りを覆っている。赤、青、黄、華やかな色とりどりの草木、
それらは広大な中庭の中で可憐に映えていて、その中を、二人の少女が軽やかに駆けている。
十三歳となったアーデルと、同年齢のアリアだ。
二人は、まるで姉妹のようの駆け巡る。
「あはは、待ってよアーデル!」
「もう、おやめください、アリアさん」
アリアの栗色の髪が躍る。
アーデルの前で緩やかにウェーブ掛かった長髪がきれいに陽光を受けて輝いているのがわかった。
広く色鮮やかな中庭で、いつも通りアーデルはアリアと戯れていた。
細いお嬢様の手がアーデルの腕をしっかりと掴み、悪戯っぽい笑顔が浮かぶ。
アーデルは苦笑しながら、それでもやんわりと振りほどこうとして出来ない様子。
それを見て、アリアはくすりと笑った。
「ふふ、捕まえたわよアーデル、動きわかりやすい!」
「……アリア様が早すぎるのです」
本音を言ったつもりだが、アリアはわずかに眉を寄せて不満顔だ。
「あー! また言った! もう、アリア『様』は無しって言ったでしょう?」
「……あ、すみません。まだ、慣れてなくて……」
長年、虐げられる日々を過ごしたのだ。様付けは癖のようになっていた。
アリアは花がほころんだように笑みを浮かべる。
「もう。なにそれ。一年も経つのに。アーデルったら、おかしいの」
「あはは……」
お腹を抱えてアリアは笑う。
赤いドレスがわずかに揺れて優雅に踊った。その在り様も、声も、すべてが洗練された貴族の所作だった。
「……ん」
ふと、アーデルは体をわずかにうずくませた。
黒い髪が釣られるように地面付近にまで流れると、アリアが少し心配そうな顔をして屈み込む。
「大丈夫? 調子、悪い?」
「……いえ。いつもの発作です。大したことはありません」
以前からあった、虚弱体質の弊害だ。
アーデルは一定以上の運動をすると呼吸器官や心臓に負担が大きく掛かる。
エデンの里から逃げるときは、錬金術でごまかしていた。
だがこう平和な時期が続くと、ふとした瞬間に対応を忘れてしまう。
「【錬成】――ポーション」
腰の麻袋から小さな小瓶を取り出し、中の水を回復薬に変える。
喉を過ぎ、嚥下された液体が体内に染み渡ると、体がわずかに発光して症状が改善された。
「これで……大丈夫です」
アリアは尊敬するような眼差しを向けた。
「……いつも思うけど、アーデルってすごいわよね。自分で自分の症状を直しちゃう。やっぱり憧れる」
「いえ、それほどでも。……あり触れた技術です」
アーデルは静かに笑った。
そう、今のは凄くも何ともない。
修練を積めば、誰でも出来る技術だ。
あれからアーデルは屋敷でいくつかの書物を読んだが、基礎的な技術は、修練すればすぐに習得できると知った。
かつて錬金術師レクセイドは、『その歳で……錬金術だと!?』と驚いていたが、あれは非常事態ゆえ。
当時五歳でしかなかったアーデルが、錬金術師を使ったことに対する驚きだ。
すでに十三歳である彼女にとっては、もう特別でも何でもない。
命の危機による一時的な能力の覚醒期間はとうに過ぎた。
平均的な十三歳の技能としては、中の下くらいだと思っている。
「でもそれでも、あたしは憧れちゃうな。あたし、ちっとも錬金術の才能ないし」
アーデルは思わず苦笑を浮かべるしかない。
確かにアリアは何かを作り出すような魔術などは苦手なようだった。
貴族令嬢としての作法などを学んでいるのもあるだろう。
取り立てて戦闘に応用できる技術もない。
平均程度しかないアーデルの錬金術でも、凄いことのように見えるのだ。
「あたしもアーデルみたいに凄い物作りたいなー。……出来るかな?」
「その……わたしは悪い師匠みたいな人がいたので……地獄みたいな経験があれば、おそらく」
アリアは笑った。花のような笑みだった。
「そうやって悪い冗談は言わないの。……でないと、こうだから!」
アリアがいきなりアーデルの口の端をむにゅっと引っ張ってきた。
痛くはないけれど、変な顔になるので勘弁してほしい。
「うふふ、おかしな顔ーっ! アーデルおかしい!」
「やめてふやひゃい。ありあふぁん。かおがふぇんになってしまいます」
「あはははは!」
アリアは、一年経って華やかな娘へと成長していた。
アーデルも十分に可憐な容姿。
二人していると、まるで妖精がいるかのようだ。たまに街に出かけると、よく声をかけられる。
ふと、柔らかな風が吹き、アーデルは顔を上げた。
「アリア。そろそろ屋敷に戻りましょうか。中でフリードリヒ様がお待ちかねです」
「――あ、もう出かける時間? もう、アーデルと一緒だとすぐに時間が経ってしまうわね」
「あはは……」
思わずアーデルは苦笑を浮かべる。
それは、自分のことを大切な友人と思ってくれているからこその言葉だ。
エデンの里のように、皆が暖かい言葉をかけてくれるのとは違うが――優しい。本当に染み渡る言葉だ。
何よりそれが、嬉しかった。
「わたしも、そう言っていただけると嬉しいです。ここに来れて、幸せです」
アーデルは、そう言ってアリアと共に屋敷へと戻った。
小鳥たちが楽しげに鳴き、華やかな草木が周囲を彩っている。
平穏な、日常だった。もう、これ以外は考えられないくらいに――。
お読みいただき、ありがとうございます。
次回の更新は4月13日、20時になります。





