女神辞めるってよ。
いつかいた分岐点に女神が居心地悪そうな顔をして椅子に腰かけていた。
両手を足の間に挟むと視線を落として顔をあげられずにいる。
その対面に腰かけるのは腕組みをして神妙な面持ちをする白髪に長い髭面をした老人である。
女神同様に古代ローマ衣装のような服に身を包み、年は経ているが通常の老人のような弱ったような様子はなくその雰囲気には気迫があり、伸びた背筋はむしろ修羅場をくぐりぬけてきたものが持つ独特の雰囲気が感じられる。
「ミーナ、私が言いたいことは分かっておるな?」
「はい…」
その問いかけは女神を追い詰める一言である。
責めているわけではないが、女神ミーナは自分が責められているような気がしてさらに居心地を悪くした。
オオシマの転生を担当したミーナは本来転生を終えた後は経過観察などは行っても度重なる干渉は許されていなかった。
神であるが故に過度に干渉すると世界に影響を及ぼしてしまう。それこそ世界の歴史が変わるほどの事態も考えられる。
そうしたことを配慮してミーナの上司に位置する神ムゥは転生させた後は過度の干渉を禁じていた。
その禁忌をミーナは犯していた。
幾度もオオシマの前に現れるだけでなく、怪我をすれば傷を治し、共に酒を飲み、あげく転生者と酔った勢いでキスまでしている。
その全てを把握しているムゥにとってはもうそれは捨て置けないことであった。
「過度な干渉は世界にどのような影響を及ぼすか知らぬわけではあるまいな?」
「はい、承知しております…」
「ただでさえミーナの担当する転生者は能力を与えてもいないのに通常の人間とは離れた力を宿している。お前自身転生者の異常をまだ把握していないのだろう?」
「はい…」
ムゥは溜息をついて目を閉じた。
「能力や容姿の自由を拒否するだけでも異例だ。欲深い人間は力を欲しがるもの。なのにオオシマはそのどちらもいらないと言った。そしてお前も能力を授けなかった」
「はい…」
「なのにどうしたことか、ベヒーモスを素手で倒し人間離れした力を発揮しただけでなく、海中に沈んで死ぬかと思えば、その環境に適応して復活した。全くもって意味がわからん」
ミーナからの報告書に目を通していたムゥはこれまで起こった幾つもの奇跡ともいえる事態を重く見ていた。
「オオシマはアノマリーである可能性が高い。人間でも魔族でも獣人でも神でもない何か」
「そう思います…」
「転生者は異常だし、お前は過度にオオシマに接触をしている。まだ様子をみるという体ならばわかるが、お前は酒を口実に担当と唇を重ねたな?」
それを言われてはミーナは何も言えない。
ミーナは担当しているオオシマを見ているうちに、いつしか心惹かれていた。
ただの担当と転生者という枠組みを超えて恋心を抱いてしまっている。そしてその感情は上司であるムゥにバレてしまっている。
「かつてアノマリーはその絶大な力で神すら脅かした過去がある。我々も多大なる被害を受けながら何とかアノマリーを無力化した。オオシマは前世は任侠だったのだろう? もしその荒々しさから我々に牙を剥いたらどうするつもりだ?」
ミーナに答えは無い。ムゥの言葉の一つ一つに胸を苦しくさせるとただ沈黙するしかなかった。
「残念だが、お前をオオシマの担当から外す。また過度な干渉をした罰も与える」
「……」
担当から外される。
ミーナはもうオオシマに会えないのかと思うと胸が痛かった。不安と痛みだけが心を埋め尽くすと目が熱くなって涙が溜まっていくのがわかった。
「ミーナ、お前は今一度地上に戻り一からやり直せ」
「……かしこまりました」
ムゥは目を開いて溜息をつくと涙を零すミーナを見つめた。
女神という立場であるがムゥの目の前にいる姿はただ上司に怒られる若い女だ。
恋心を抱いているというのはわかっているが、その恋心を優先させることはできない。
「オオシマは他のものが担当する。今日中に地上に降りて自分の振る舞いと過ちを見直すがいい」
「……はい」
「今日をもってミーナは女神を解任とする」
***
そろそろ深夜に差し掛かりそうな時間帯。
アンティーク調のトランクケース一つ持った女神は地上に降り立つと暗い野原を歩いた。
もう女神ではない。ならば自分はなんなのだろうと考える。
女神の役割を解かれたことで神としての力はもう発揮できない。魔法などは使えるがそれでも人間や魔族よりも少し頭が出たくらいである。
今ミーナにあるのはトランクケースに詰まった衣類と少しばかりの雑貨品のみだ。
地上に降り立ったはいいが、金もない住まいもない頼る神もない。
「はぁ……もう死のうかな…」
思ってもないことをぼやく。
過度な干渉をしたことは自身でも負い目ではあった。しかし、負い目に感じてもオオシマに会いたいと思ってしまう。
恋心は会えない分大きくなり、唇を重ねたことでさらに思いは溢れてしまっていた。
ミーナの足は一つの目的地を目指していた。
野原の向こうには小さな平屋が見えている。静かな野原の中に佇む家。近くには川があるのだろうか、水の流れる音がしている。
自分のことをバカだと思う。
しかしミーナには頼れる人も住んでいける場所もない。今唯一頼れるのは担当していた転生者だけだ。
こんな夜遅くに来てしまって対応してくれるだろうか。拒否されないだろうか。
はたまたまた干渉したとお咎めを受けるのではないだろうか。
そんなことを考えても足は目的地へと向かってしまう。
「もうあたし女神じゃないしな…別にいいよね…」
野原にある平屋の前に来ると控えめに扉をノックした。
反応はない。やはりこんな時間に尋ねてきて対応してくれるはずもないだろう。ミーナは溜息をついて家に背を向けた。
涙が流れる。
それは女神の役割を解かれたから、こんな現状を受け入れられなくい悔しさと寂しさから。
女神でなくなったミーナには何も無いと思うと、無情な涙が零れた。
無表情な顔に流れる涙はこれからのことなど考えられずただ頬を伝う。
「あーぁ、私って駄目だなぁ…神様としても女としても。どうしようもないな」
足は宛もないままに歩きだした。
少し遠ざかったところで家の扉が静かに開いた。
開いた扉の中から金髪の少女が現れると寝惚け眼を擦りながら家から遠ざかるミーナを見ている。
「どうせなら…ちゃんと好きって言えば良かったな。このまま終わるなら、一回くらい抱いてもらえば良かったなぁ」
「オメェは深夜に何言ってんだ。また酔ってんのか?」
後ろからかけられた声にミーナははっとして振り返った。
そこには欠伸をしながら頭をかくオオシマの姿がある。扉に背を預け腕組みしてミーナを見ると涙を流す顔に何かしらあったのだと察した。
「オオシマさん…」
「こんな夜中に何やってんだよオメェは」
「いえ…ちょっと顔が見たかっただけです…」
トランクケースを抱えて涙を流すミーナを見れば『ちょっと顔が見たかった』だけの理由ではないことなどすぐにわかる。
オオシマにとってミーナは自分を異世界に飛ばし、望んでもない女にした元凶である。
しかし、今となってはそこに感謝もしている。女になったおかげでプーフたちに怖がられることはない。それに前世では味わえなかった幸せを噛みしめている。
そんなミーナがどういうわけかオオシマを訪ねている。ならば放っておくことなどオオシマにはできない。
「ごめんなさい…顔見れて良かったです……それじゃぁ」
流れる涙を見せたくなくてミーナはオオシマに背を向けた。
涙を流す女を『はいそうですか』とそのまま帰すことなどオオシマにはできるわけがなかった。
「はぁ」
オオシマは大股で歩き出すとミーナの手を掴んだ。
白い手は震えていて、立ち止まりはしたもののオオシマに顔を合わせようとしない。
「泊ってけ」
「……私、もうオオシマさんの担当じゃないんです…」
「そうか。で、女一人こんな深夜に宛もなく彷徨うつもりか?」
「……」
「いいから今日は泊ってけ。とりあえず朝になったらどうするか考えろ」
「私……もう女神じゃないんです。オオシマさんの担当じゃないんです」
オオシマにその言葉の経緯はわからない。
しかし、ミーナのこんな表情も見たことはないし弱気な言葉も聞いたことがない。
いつもふざけた様子の女神の姿はなくて、ただ傷ついた少女が助けを求めてここまでたどり着いたのだろうと思えた。
「私…もうどうしていいか分からなくて…」
いつまで経っても振り向かない顔に痺れを切らしてオオシマはミーナの前に立った。
泣いた顔を見られないように顔を背けるミーナは無表情なのに悲しさが溢れている。
「分からなくていい」
「え…」
「オメェに何があったか知らねぇが、泣いた女をそのまま逃がすなんてしねぇよ」
「…オオシマさん。私…」
ミーナの体を両腕で包んだ。
体を自分のほうへと引き寄せると頬をつけて頭を撫でる。
「そういう時は素直に甘えろよ。隣にいるぐらいならしてやれる」
「……」
顔を離して互いの顔を見つめ合った。
月明かりに照らされる二つの顔。涙に濡れる顔と優しく微笑む顔は視線を絡ませると少しずつ距離を近づけた。
「元気だせよ」
いつかミーナはオオシマに一つ願い事をした。凹んでいたミーナはそれをしてもらえれば元気が出ると言って。
オオシマはミーナと酒を飲んだ日を思い出すと、その時ミーナが願ったことを叶えた。
今もこれで元気になるかどうかは分からないが、それでもオオシマは涙を流すミーナを見れば愛おしい感情がほんのりと湧き上がった。
重なった唇はほんの少し涙の味がしていた。