仄暗い海の底から
肌全体に感じる冷たさにオオシマはぼんやりとではあるが意識を戻した。
目を開いてみても視界はぼやけて、体は何かに挟まったように窮屈に感じる。
一つ煌めく気泡が昇っていくのをみて、ここが水中なのだと分かった。
――ここは
全てがぼんやりとした中で記憶をたどる。
舟に乗って沖へ出た。リバイアちゃんと話し合おうとして舟が転覆した。海の中まで追いかけた。
海には地割れがあって、リバイアちゃんが飲み込まれそうになって。助けようとして自身が地割れに吸い込まれて。
――地割れ
この窮屈さは地割れの奥底にいるためだと分かった。
地割れに飲み込まれて全身が海底の岩壁に挟まって身動きを取れないでいる。
――息が
開いた口にしょっぱさを感じた。しかし、どうしてか呼吸はできないはずなのに苦しさが感じられない。
――死んだ、のか?
それにしては分岐点にいるわけでもないし、感じる五感にはリアリティがある。
――生きてる。まだ生きてるな。
苦しさはない。体には冷たさを感じるし、体が地割れに挟まれたせいで動けないイラつきがある。
薄暗い地割れの中で目の前に広がる海水の向こうにはわずかながら光が見える。
腕に力を込めた。
生きているのならばこんなところでチンタラはまっている場合ではない。
プーフたちはどうなったのか、一緒にいたトーマスは無事なのか、リバイアちゃんはどこにいったのか。
ぼんやりとしていた景色の中、はっきりと意識を取り戻すとオオシマはイラついてしかたなかった。
――呑気に寝てる場合じゃねぇだろうが。何やってんだ俺は。
壁を押しのけるように手に力を込める。
ミシミシとした音がなって壁からは砂と気泡が舞い上がっていく。
――まぁた俺はクソみてぇにぼんやりしてプーフ、リリア、シロを泣かせてんじゃねぇか?
――ったく男が廃るぜ。母が廃るぜ。
――テメェは一度くたばったのに、またくたばろうとしてたのか? 冗談じゃねぇ。
己に愚痴ると怒りがこみ上げてきて体中が唸りをあげるように力が入る。壁に亀裂が入ると両腕に一気に力を込めて壁を砕いた。
鬼姫となったオオシマは自分に向けた怒りを爆発させると挟まっていた地割れを粉々にして一気に上へと昇っていく。
魚よりも速く、リバイアちゃんよりも速いスピードで上昇すると見えていた光が徐々に拡大して日が昇っているのだとわかった。
――さっさと上がりやがれクソが。またプーたち泣かせてたら承知しねぇぞコラ。
自分自身にキレながら海面から飛び上がった。
巨大な水柱をあげながら空気中に舞い上がる。目の前には太陽の光が溢れて潮風が吹きつけている。
濡れた金髪を舞わし水滴を吹き飛ばすと宙に浮いたまま海岸を見つめた。
「クソが。随分流されてんな」
宙に浮いていた体が降下して飛沫をあげながら水面へと着地する。
「ん? あれ?」
オオシマの足は水面につくとそのまま体を沈めることなく、地面に着地するように海面に足をつけた。
波に揺られてはいるが、体は沈むことはない。
足裏を確認してから再び水面に足をつけるが、地面を踏みつけるように足は水面を踏みつけて沈むことがない。
その状態に疑問を抱いたが、それよりも早く娘たちに会わなければならないと思うと海面を駆けた。
これも女神の言っていた異常の一つなのだろう。
だが、今はそれがありがたかった。泳いでいては時間がかかるが、海の上を走れるのならば大幅に時間を短縮できる。
走りながら吹き付ける風に冷たさを感じた。
昼間感じた暖かさがない。それが朝の風だと分かるとオオシマは一発自分の顔を殴りつけた。
「一晩経ってんじゃねぇかこれはよぉ。俺は本当にバカな野郎だ。一晩も娘ほったらかして何やってんだクソが」
苛立ちも疑問もある。そして何より早く娘たちに会いたい。
きっと一晩も時間を空けたせいで娘たちは悲しさと寂しさと不安に包まれて泣いている。
三人の泣き顔が思い浮かぶと自分の不甲斐なさに歯を食いしばった。
「猪のときから成長してねぇなぁ俺は! こんなんで母親が務まんのか、アァ!?」
普段のソプラノボイスからは考えられない野太い声だった。
鬼の形相とまではいかないが、表情には怒りが満ちている。自分の情けなさ、自分の不甲斐なさが嫌で仕方ない。
ヤクザとして男として母として。全ての面子が潰れてしまっている。
指を詰めてもいいと思えるくらいに情けなくてオオシマは思いを駆ける足に込めた。
「気合いれろやクソがあ!」
蹴りつけた海面が大きな飛沫をあげた。
*
浜辺を歩いていた三人は波の音に混ざって聞こえる異音を感じると海へと目を向けた。
遠くのほうで大きな飛沫があがり海岸へと向かっている。
「あれ…なんだろう」
シロが波打ち際まで駆けるとそれが何かと目を凝らした。
飛沫のせいでよく見えないが何かがこちらに猛烈な勢いで迫ってきている。
「ママ…ママ!?」
プーフが叫び声をあげるとシロもリリアもそれがオオシマの姿ではないかと目を凝らした。
徐々に大きくなっていく飛沫は三人のほうへと一直線に駆けている。
「きっと、きっとオオシマだよ! あんなのできるのオオシマくらいしかいないよ!」
「ママー!」
「ママ…ママだよ。きっとそうだ!」
三人はそれがオオシマであると願いながら波打ち際へと駆けだした。
海面に飛沫をあげながら突進しているそれはきっとオオシマに他ならぬと思うと必死に叫び声をあげた。
期待に涙を流しながら、何度も叫んだせいで痛くなった喉から声を張り上げながら。
「娘残して死ねるわけねぇだろうがァ!!!」
咆哮のような叫び声を聞いていよいよ三人はそれがオオシマだと確信した。
あんな気迫のある声を出せるのを一人しかしらない。あんな馬鹿げたことをできるのは他にいるはずもない。
飛沫の中に金髪が見えると三人は少しでも近づこうとさらに海へと足を踏み入れた。
「マ゛マああああああああああ!」
「オ゛オシマああああああああああ!」
「マ゛マ゛あああああああああああ!!」
悲痛だった叫び声は期待とありえない奇跡を目にする驚きの声に変わっていた。
海面を駆けるオオシマの姿が目に映った。ブチギレたような顔をしながら全速力で海面を走っている。
目の前に迫るオオシマは鬼姫になっていて一目見れば恐怖しそうな気迫と形相をしているのに、プーフたちにはその姿が愛おしくて嬉しくて生きていたという現実が粉々になった心を戻すとたまらない気持ちが一気に湧き上がった。
「プー! リリー! シロ!」
名前を呼ばれて三人は大声で泣き声をあげた。
オオシマは視界に三人の姿を見るとその足をさらに加速させて近づいてくる。
「俺はまだくたばってねぇぞコラあああああああああああああああああ!!!」
目の前に手が伸びた。
オオシマの伸ばされた手に小さな手が3つ伸びるとそれぞれがオオシマの手を握った。
「ママ」
瞬時に三人の体を抱えるとオオシマは勢いを止められずに砂浜に長い線を残しながら倒れた。
子を守るように背から倒れ、胸の中に三人の娘が泣いている。
「帰ってきたぞチクショーが!」
肩で息をしながら抱きしめる腕に力を込めた。
胸にある頭を引き寄せると顔をつけて何度も娘たちの存在を確かめる。腕の中にはプーフがいる。リリアがいる。シロがいる。
三人は声も出さずに泣くとオオシマの体に必死に捕まって顔を埋めている。
「ハァ…ハァ…こんな所で…くたばってられるかクソが…ヤクザ舐めんじゃねぇよ」
もう全身に痛みを感じながらも必死に娘たちを抱きしめた。
「ママ…生きてた…やっぱりママ生きてた…」
シロは顔をあげるとオオシマの顔を涙を零しながら見つめた。
その顔は鬼姫から母になっていて、どうしようもなく疲れた顔をしているが愛しくて愛しくて。
「ったりめぇだ。娘三人もいんのに…ハァ…死んでられるか」
シロはオオシマの顔に飛びつくと顔中に口づけた。
頬に、額に、鼻に、口に。何度も何度でもキスをして存在を確かめた。
キスの雨を降らせるシロの後頭部を掴むとオオシマは額に思い切り唇を押し当てた。
プーフにもリリアにもくちづけするとやっと安心できてオオシマは大の字になって砂浜に体を預けた。
「情けねぇかーちゃんだよな。オメェら…心配かけた…ふぅ…もう大丈夫だ」
「ママちゃんといきてた。いきてたの!」
プーフも顔をあげると小さな手をオオシマの顔に這わせた。
「オオシマ死んじゃったかと思った。もう会えないって思ったんだから!」
リリアも顔をあげると拳を握ってオオシマの胸を叩きつけた。
「こんなとこで死んでられるかよ」




