蘇る鬼姫
やっと視界に家を捉えたオオシマは嫌な予感が現実のものとなっているのを見た。
家の中からは泣き声が聞こえて、家の周囲には大きな黒い塊がある。
黒い塊は立ち上がるようなそぶりをすると、壁に向かってぶつかっている。
徐々に近づいていくとそれが猪だと目視できた。
黒い巨体は少なくとも2メートルはある。細長い尾を豪快に揺らしながら壁に鼻を押し付けたと思えば、再び壁へと前足を叩きつけている。
歯をくいしばった。
何故離れてしまったのか、獣がいるとわかっていたのならば二人を残して離れるなんて論外だったはずだ。
自分の行いに反吐が出る。
今こうして獣が家を襲っているのは外ならぬ自分のせいだと思えた。
きっと家の中の二人は恐怖に心を染めていることだろう。
一刻も早く何とかしなければならないとオオシマは拳を握ると豪快に金髪を揺らしながら家へとかけた。
「テメェコノヤロウ! うちの娘ビビらせてんじゃねぇぞコラァ!」
叫び声をあげると猪は走るオオシマへと顔を向けた。
シワの刻まれた皮膚の厚そうな顔がオオシマを睨みつける。その口には湾曲した太く鋭い白い牙が天を向いている。
猪は足を踏み鳴らすと雄たけびをあげて走るオオシマへと突進した。
自慢の牙をオオシマの胴体に向かって突き刺さんと猪突猛進する。
「上等だテメェ! かかってこいコラァ!」
常識的に考えればこれほど巨大な猪に若い女が正面からぶつかりあって勝てるはずなどない。
しかし、オオシマはそんなことは構わずに向かってくる猪に正面からぶつかろうと駆ける足を速めた。
いつか見た鬼の形相がそこにあった。
奴隷商をボコボコにしたときの怒りにそまった顔。人ならぬ鬼の顔が牙をむき出しにして猪へと向かっている。
目の前に迫った猪にオオシマはぶつかる直前に目玉に向かって右フックを叩き込むと、圧倒的な体格差があるはずなのに、猪の巨体はオオシマの一撃に殴り飛ばされていた。
猪も負けてはいられないとすぐに立ち上がると再び牙を突き出してオオシマへと突進する。
迫った猪を避けようともせずに鼻へと足蹴りを浴びせると、猪の体はまたも簡単に蹴り飛ばされた。
自分よりも小さいはずの相手に攻撃が通じない。
通常ならば体当たりすれば大抵のものは壊せたし、倒せた。なのに目の前にいる若い女にはそれが通用しない。
自然の摂理に反する状況に、猪は次第に恐怖心を抱くようになっていた。
かといってオオシマはもう絶対に猪を逃さないと燃え上がっている。
猪が困惑している間に距離をつめると自慢の牙を掴み、思い切り力を籠めると黒い巨体を一気に持ち上げた。
まさか自分がこんな小さい相手に持ち上げられるなど思いもしなかった猪は目を丸くして足をバタつかせている。
「舐めてんじゃねぇぞクソ豚がぁ!」
振り上げた巨体を地面に叩きつけた。
全身を地面に叩きつけられた猪は意識こそあるものの、あまりの事態と全身を打った痛みに身体を硬直させると動けずにいた。
未曽有の恐怖が猪を支配していた。何故こんな若い女にこうもあっさりと倒されてしまったのか。
考える猪に鬼の影が重なった。
怒りに燃える顔は牙をむき出しにして猪を睨みつけている。
「テメェよぉ。うちの娘に手ぇだしてタダですむと思ってんじゃねぇだろうなぁ? ケジメつけろやコラァ!」
銃弾のような拳が猪の脳天に直撃した。
その一撃を最後に猪は一切の動きを静止させると舌を出して二度と動くことはなかった。
猪を倒したことを確認すると、オオシマの顔からは鬼の形相が消え去っていた。
家のほうへと顔を向ける。泣き声は止んでいるが、それが余計に心配に思えた。
何か怪我はしていないか、恐怖に気を失ったりはしていないか。
きっと二人はいきなり現れた猪にどうすることもできなくて、恐怖でいっぱいになっていることだろう。
重い巨体を殴ったり蹴飛ばしたせいで全身が痛んでいた。
身体の芯を揺さぶられたような衝撃に骨や筋肉など全ての部位が痛む。正面から向かってきた鼻を蹴り飛ばした足は感覚がなくなって痛みすら分からない。
足を引きずりながら家へと急いだ。
プーフは、リリアは。二人は無事だろうか。
自分がいなくなってしまったせいでこんなにことになるなんて。後悔しても遅いが心は悔やんでしまって仕方なかった。
早く二人の顔が見たい。早く二人に顔を見せて安心させてやりたい。
ぼろぼろの体を引きずりながらオオシマの足は家へと向かった。
痛む拳を乱暴に叩きつけて扉を開いた。
ベッドの上には毛布を被った二人分の膨らみが小刻みに震えている。
「プー、リリー、俺だ。帰ったぞ」
オオシマの声がすると震えが止まった。
毛布の中から二人の顔が覗くと、その顔には涙が幾重にも伝っている。
「ママ…ママあああああああああああああああ!」
「オオシマあああああああああああ!」
毛布を取っ払って二人がベッドから飛び出した。
涙を流した小さな身体二つはオオシマの胸へと飛び込むと、痛む身体は二人の体を受け止めきれずに後ろに倒れた。
戻ったオオシマに二人は力いっぱい抱きしめて涙の流れる顔をこすりつけた。
「ママああああああああああ! ごめんなさああああい! プーがいうこときかなかったから……ごめんなさああああああ」
「オオシマあああああ怖かったよおおおお」
「猪はもう倒したから大丈夫。もう大丈夫だ」
「プーこれからはちゃんということきくから!いうこときくからあああああ……ごめんなさあああああ」
「俺も大きな声で怒って悪かった。ごめんなプー」
「プーがわるいの。プーのせいでママがあああああ」
てっきり食べられてしまったと思ったオオシマが現れて、プーフは感情がどうしようもなくなっていた。
戻ってきた嬉しさ、食べられてしまったと思っていた悲しさ、謝罪しなければならないと思っていた気持ち。それらが同時に湧きあがって涙が流れて止まらなかった。
二人は小さな手でオオシマの体にしがみつく。
オオシマも両腕で二人を抱きしめると頭を引き寄せて自分の顔をこすりつけた。
「オメェらが無事で安心した」
「ママたべられちゃったかとおもったの! プーのせいでたべられちゃったかとおもったの!」
「ふざけんじゃねぇよ。オメェらがデカくなるまで、くたばるつもりは無ぇ」
気張るようにオオシマは二人の頭を乱暴に撫でた。
二人のことを存分に感じられるように顔を何度もこすりつけた。
二人の顔を見れば痛みなど何処かへと消え去っていく。泣きじゃくる顔はどこまでも愛おしくて抱きしめる力が強くなる。
「ママ、プーのこときらいになってない?」
「嫌わねぇよ」
「リリーのことは?」
「リリーもだよ」
「ママああああああ」
「オオシマあああああ」
嫌われてないと分かると、また涙が零れる。
オオシマの胸元は二人の涙でずぶぬれになっていたが、そんなに顔をぐしゃぐしゃにしてまで自分のことを思ってくれる気持ちが素直に嬉しかった。
「オメェらは俺の娘だ。何があっても俺が守ってやる」
決まった腹を二人に曝け出した。
この二人を何がなんでも守り通す。二人がデカくなって独り立ちできるようになるまで面倒を見る。
いや、自分が死ぬまで面倒を見切る。
それがオオシマなりの筋の通し方だった。