ep9「ヴァージン・ドラッグ」
真夜中の墨田区、住宅街。幻也は古びたアパートの窓から、すっかり静まり返った夜道を見下ろしてみる。
尾行対象、無し。
幻也は細く開けていたカーテンを閉め切ると、ふぅと再び椅子に腰掛けた。昨晩試しに買ってみたアンパンは、封も切られないまま足元に転がっている。
監視を開始してから早くも二十時間。
一年振りに目覚めてからというもの、彼は一度も空腹を感じていなかった。
「こんな身体では腹も減らないか。今はありがたいが」
ここは、宗教法人〈神籬社〉の礼拝所近くに借りた一室。
礼拝へ向かう信者たちを監視するために、窓の外には常にカメラのレンズが向けられてもいる。何か怪しい動きがあれば、即座に検知して記録できる構えだ。
幾つか用意されたポイントでは、実働部隊の面々がそれぞれ同じようにして監視を続けている。
だが、発見報告はまだない。
「……教団幹部イチイの礼拝、本当に今晩行われるのか?」
幻也は作戦要綱を思い返すと、自分が何のためにここにいるのかを反芻していった。
第二位の教団幹部、イチイと呼ばれる男の暗殺。それこそが今回の作戦の目標だ。
幹部イチイは特に信仰に篤い信者であり、首都圏における布教活動を熱心に推進したとされる。
通称、狂信者。
――墨田区方面の礼拝所で大呪術が決行されようとしている――
公安霊装がイチイの暗殺を急ぐ理由は、教団内部からその情報を得たからだ。
教団内部からリークされた情報からして、生贄を伴う大規模呪術が発動する可能性は高い。そして捧げられた血を以て、"奇蹟の人型"なる何らかの呪物を呼び出そうとしている、らしい。
それ以上の事は、現時点では不明。
ただし、それが呪操槐兵である可能性も捨て切れない。
――――こんな情報が出て来るという事は、教団も一枚岩ではないのか。
幻也は教団幹部との対決を前に、落ち着かない気分を自覚していた。眼下の夜道から視線を外さぬまま、半ば無意識に懐の煙草を弄ぶ。
いよいよとなれば、また槐兵戦をしなければならないのだ。
あのアラトが操る〈影光〉と戦った時のように。
「第三位の幹部アラト、あの男は何を知っているんだ」
結局、アラトについては何もわかっていない。
教団幹部三位、神明官の地位が与えられた仮面の男。それ以外は一切不明の若年幹部。犬山からはまともな情報を聞けずじまいだった。
狂信者、イチイ。
仮面の男、アラト。
今回の暗殺任務で対決するかも知れない男たちの名を呟き、幻也は時計を見やる。
教団の協力者から得られた事前情報では、夜中に礼拝が行われるはずだった。そろそろ動きがあってもいいはず、そう予感した幻也はようやく人影を見付けていた。
手元の無線機を手に取り、囁くように報告を吹き込む。
「監視対象を発見。礼拝所へ向かう信者の一人と思われる」
『こちらも発見。尾行を開始しろ』
「了解」
夜道を歩く信者は一人、二人と増えて行き、真夜中だというのにまばらな足音が連なり出す。
幻也は上着を着込んで立ち上がると、予め渡されていたアルミケースを開けた。中には使い捨て注射器とアンプルが一セット。
彼は手早く薬液を注射器に満たすと、自らの静脈に針を突き立てた。そうして着実に血中濃度を高めていくのは、劇薬に分類される幻覚剤の一種だ。
――――これだからカルトへの潜入任務は。
それもこれも、信者に紛れる形で礼拝所へ潜入する為だった。
礼拝では、日常的に違法な幻覚剤が用いられている。薬物の強烈な中毒作用を緩和するために、こんな劇物を事前に打っておく必要があるのだ。
しかし、犬山曰く、これにはこれで多少の幻覚作用がある。
「本当にこんな身体で効くのか」
内心の疑問を押し殺しながら、幻也はアパートの一室を後にする。道に出てしまえば、尾行対象の背は簡単に見付けられた。
同じ信者を装えば、尾行するには困らない。
幻也は出来る限り専門家としての気配を殺して歩き始める。
しかし、違和感があった。じりじりと背を焦がすような違和感は徐々に高まって行き、遂には彼に足を止めさせる。
「誰だ、出てこい」
間違いない。自分が尾行されていた。
幻也は確信を以て振り返ると、街灯に照らされた道の向こうに視線を向ける。
相手からは、気配を隠そうとする様子が感じられない。
知られていると分かっていて追って来るのは、明らかな挑発。あるいは荒事になっても構わないという意思表示だ。
――――厄介な事になったな。
暗殺任務を前にしてのトラブルに、冷たい汗が額を伝って行く。懐にしまった拳銃がずしりと重たくなったように感ぜられた。
――――いや、こんな時に撃つ訳にはいかない。
撃つか、撃たないか。逡巡する間にも状況は悪くなる。
尾行者は物陰から顔を出し、まっすぐこちらに向かって来ていた。
「ぱぱー!」
心臓が止まった、ように感じた。
電柱の向こうから駆けて来る小柄な人影、そして無邪気に名を呼ぶその声音。ふらり、と揺れ出した視界には、十年前から変わらぬ少女の姿が映り込んでいる。
「かなえ……?」
ふらつく視界。混乱に打ちのめされた身体は、しばし何が起こっているのかも分からずにかなえを抱きとめようとする。
だが、次の瞬間には、皮肉な笑みがこぼれ出していた。
――――俺は、さっき何を打ったと思っている。
無邪気に抱き着いて来たかなえからは、しかし重さを感じられない。街灯に照らされているというのに、地面には幻也の影しか落ちていない。
幻覚作用だ。
何が起こっているのかを理解してしまえば、こういった薬物がなぜ禁じられているのかも分かって来るようだった。頭では違うと分かっているのに、心はどうしても目の前に佇むかなえを拒否できない。幻だと、認められない。
「ぱぱの後をついてきました」
「いいか、パパはこれから……そう、危ない場所に行くんだ」
「かなえも行きます!」
深層心理と幻覚作用が造り出したかなえの虚像は、幻也が記憶している通りににこりと微笑む。
当然だ。己の記憶が造り出しているのだから。
己の現実逃避でしかないかなえの姿は、薬が一定の血中濃度を保っている間だけ見られる夢だ。それならば、と心の中で甘い囁きが呟かれる。
――――今だけは、許してくれ。
幻也は手を差し出すと、かなえと共に歩き出していた。重さも熱も感じられない小さな掌は、残酷なほどにそれが夢幻であると告げている。
娘の幻覚と手を繋ぎ、暗殺に向かう。
これ以上に滑稽な任務風景があっただろうか。
十年前、かなえと手を繋いで歩いた夜を思い出しながら、幻也は過去に溺れる己の脆さを嗤うしかない。
浮世と常夜の狭間を潜り抜ける間に、どうやら正気の殺し方にも慣れてしまったらしかった。予想していた以上に、現と幻の狭間は狭く浅い。
かなえをすぐ傍に感じられる。
たったそれだけで、その境を自ら踏み越えられてしまうほどに。
「かなえ、行こうか」
「はいです!」
後をつけていた信者たちは、寂れた通りの角に消えて行く。
現刻を以て任務開始。教団の礼拝所はもう近くだった。
<カクヨムにて先行連載中>
https://kakuyomu.jp/works/1177354054885880520/episodes/1177354054887773151