ep4「悪夢醒めて、悪夢」
「誕生日おめでとう、かなえ」
「ありがとうです、ぱぱ!」
そう言うと、かなえはケーキを前ににかっと笑って見せた。七歳の誕生日祝いのことだった。
その屈託のない笑顔を目にした途端に、幻也は自分の中の時間が止まったことを憶えている。ほんの一瞬、ろうそくの炎でさえも固まって見えた。
かちり、と。
気付けばシャッターボタンを押し込んでいた。
かなえの笑顔を逃すまいと思った時、既にカメラのレンズを彼女に向けていたのだ。
そして撮れた、最高の一枚を。最期の一枚を。
「かなえ。誕生日プレゼント、今から買いにいかないか」
二人で細やかなケーキをたいらげるのはあっという間だった。
テーブルの上から夕食が消えた後、かなえに聞いてみる。
「へ?」
「ごめんな、パパにはその……かなえが欲しがっていたやつがよく分からなかったんだ」
嘘だった。本当は知っていた。かなえが欲しがっているのは犬のぬいぐるみ、熱心にチラシを眺めていた姿だって憶えている。
普段は忙しくて構ってやれないものだから、今日くらいは一緒に出掛けたかったのだ。だから自分はズルい父親に違いない、と内心で笑う他にない。
かなえは目を丸くすると、まるで信じられないことが起こったとでも言うかのように口をぱくぱくさせる。
「うん、ぱぱといきます! 急ぎます!」
「焦らなくていいよ、じゃあ着替えたら行こうか」
近所の店にはもう、プレゼントの予約を入れていた。
あとは二人でゆっくり取りに行けば良い。
父一人、娘一人。かなえを連れた幻也は、久しぶりに手を繋ぎながら夜道をゆっくりと歩く。この年になっても嫌がられないのは、ちょっとした奇蹟だ。
「それでね……ぱぱ、聞いていましたか?」
かなえも今日で七歳。もうすっかり慣れて来たらしい小学校の話を、いつも以上に熱心に話してくれる。
それが嬉しい反面、幻也の裡に自省の念を呼び込んで来る。
かなえも少しずつ成長していて、いつの間にか大人になっていって――――知らない内に背だって伸びていたのだ。
かなえと繋いだ手に、少しだけ力を込めてしまう。
これからは、一緒に居られる時間を増やしてやりたかった。
「ぱぱ、お店みえてきました!」
近所の店が見えて来た途端、繋いでいた手がするりと解ける。
交差点を渡れば店はすぐそこだった。
赤信号から青信号へ。そして左右から車が来ていない事を確かめると、かなえは横断歩道に足を踏み入れていた。
「ぱぱ、早く!」
「急がなくても大丈夫だから――――」
言い終えるよりも先に、幻也は正体不明の圧に押し倒されていた。
転倒。その瞬間に響いたのは、ぐしゃり、という粘着質な衝撃音。目の前からかなえが消えている、その事実に気付いたのはまるまる数秒経ってからの事だった。
「かなえ?」
いない。かなえが居ない。
名を呼んだ、振り返ってもみた。そして呆然と足元に視線を落としてみれば、黒々としたアスファルトの上にべったりと赤い痕が引かれている。
交差点の向こうまで、赤黒い線は続いていた。
「ああ……あああぁっ」
数十mも離れた場所に転がる何か。街灯に照らされているモノの正体を悟った時、幻也の時間は今度こそ凍り付いていた。
2018年。世田谷区内にて交通事故発生。
被害者一名、病院に搬送されるも死亡を確認。
容疑者――――不明。
目撃車輛――――無し。
事故発生当時、車など一台もいなかったという証言は聞き入れられることなく、その一件は交通事故として処理されるに至った。
* * *
「……またか」
網膜を突き刺して来る太陽光線。幻也は重たい瞼を開け、何度見たとも知れない夢から目覚めていた。
あの夜から変わらぬ悪夢、決して慣れることの無い責め苦だ。
「ここは、どこだ」
ベッドから身を起こしつつ、幻也は辺りを見渡す。
置いてあるのはベッドが一つ、赤く照らされた殺風景な大部屋だった。すっかり斜陽に染められた窓の外には、スカイツリーがそびえ立っている。
――――スカイツリーは、まだ紅葉していないか。
樹高600mを超える、信じ難いほどの巨木と化した塔。スカイツリーの根元から先端にかけて茂った葉は未だ青く、紅葉も落葉もしていない。
つまり、まだ秋ではない。
あの神社へ踏み入ったのと同じ、夏の夕暮れだった。
――――そう、俺はあの神社でかなえと……!
記憶が蘇って来るにつれ、幻也は全身に力を込めて行った。
痺れる身体、朦朧とする意識の狭間。彼はそれでもベッドから抜け出すと、点滴スタンドを引き倒しながら床を這って行く。
「かなえ! 何処だ、かなえは……!」
もう一度会えたのだ。もう離れ離れになってなるものか。
その他には何も考えられぬまま、幻也は力の入らない身体で強引に前進して行く。床上数十cmの視界に、こちらへ近づいて来る革靴が見えた。
つかつかと病室へ入って来たのは、一人のスーツ姿の男だ。
「止めておけ」
男は強引に幻也の身体を引き起こすと、突き放すようにベッドに戻していた。
幻也の腕に走る微かな痛み。素早い静脈注射だった。一体何を打たれたのかは分からないが、ゆっくりと男の方へ焦点が合って来る。
三十代後半、眼鏡、スーツ、それらを包む紫煙の輪郭。
煙草を咥える男の姿には、見覚えがあった。
「記憶に混乱があるようだな。落ち着け、水鏡」
「犬山……なのか?」
「久しぶりだな、お前は少しやつれたか」
言いつつ、犬山はうまそうに煙を吐き出す。
幻也の眼前には、共に警察学校時代を過ごした同期が立っていた。
言うなれば戦友。公安霊装に配属されるにあたって、共に呪術教練過程を受けた身でもある。
にこりともしない表情の奥には、しかし、再会を懐かしむような色があった。
――――いや、今はそんな事より。
幻也は胸の裡に燻る執念のまま、ベッドからふらりと立ち上がって行った。
かなえに会わなければ。
一緒に家へ帰らなければ。
それから今度こそ誕生日プレゼントを贈って、抱き締めて――――脳髄を占めるのは、思わぬ形で再開を果たしたかなえの事だけだった。
「……俺の邪魔をするな」
「邪魔するとも。お前は何を探しているんだ?」
「かなえだ、昨日かなえに会ったんだ……あの神社で!」
再び立ち上がって病室のドアへと向かおうとする幻也を、犬山は止めるでもなく冷酷に言い放つ。
「水鏡、よく聞け。あれは一年前の任務だ」
廊下へ出ようとしていた足が止まる。言葉も出なかった。
「先ずここは公安霊装の庁舎ビルだ。お前は槐の呪いを受けて一年近く昏倒していたんだよ。病院も駄目だったから、非公開の庁舎に置かれている」
「なら、あの任務はどうなった?」
「お前たちの後に踏み込んだ解呪班も、任務後から一か月以内に全員死亡。今でも一帯は封鎖されているよ。お前が唯一の生き残りだ」
「理由は?」
「知らん」
槐の呪いによる呪殺。
それはつまり、あの樹高600mを超える大樹と化したスカイツリーと同じように、呪いに侵されて木へ変えられたという意味だ。大抵の場合は、その前に激痛でショック死するのだが。
幻也の前に、一枚の写真が突き付けられる。
「これを見ろ」
死亡する直前の解呪班が遺したらしい、現場写真だった。
見覚えのある本殿、身体を根に突き破られながら息絶えた男達。そして中央には一本の神木が映り込んでいる。
死体に囲まれた神木には、呪詛汚染源と書き込まれていた。
「あの現場に残されていたのは、これだけだった」
「見落としは無かったのか」
「信じたくないか。だがな、これが現実だ」
写真と紫煙を挟み、二人はほとんど睨み合うように向かい合う。
その時、足元がぐらりと揺れた。くぐもった爆発音が鼓膜を殴り付けたかと思えば、やがて幾重もの発砲音が遅れてやって来る。
――――何が起こっている?
目の前の犬山は、動じる気配も見せていない。
だが、どう考えてもただ事では無かった。
ざーっというノイズがスピーカーを震わせる。庁舎内部が非常電源へと切り替わると、二人のいる部屋にまで緊急アナウンスが流れ始めた。
『現在、庁舎内部に教団の構成員が侵入している。射殺を許可する、構成員を即刻排除せよ』
お前も聞いただろう、と犬山は煙たくなった背を向ける。
廊下へと出た彼は、スーツの懐から既に人形札を取り出していた。
「非公開のはずの所在地も、連中にはバレたという事だ。今から私と地下に来い、人を守る為にお前の力が必要だ」
「犬山、お前は」
「私たちの使命は何だ。やるべき事をやれ」
彼が口にした言葉には、公安霊装としてのプライドがあった。かつて共に学んだ教えを、犬山はこの期に及んで忘れようとしていない。
そう悟った幻也は諦めたように、問いかけた。
「敵は何者なんだ」
「自称古神道系の新興宗教法人、知っているだろう。〈神籬社〉だ」
答えは、しかし分かり切っていた。
2028年東京。公安に仕掛けられる教団など、他には存在しない。
<カクヨムにて先行連載中>
https://kakuyomu.jp/works/1177354054885880520/episodes/1177354054887659989