ep30/36「魔都に願いを」
――――奴はまさか月を撃ったのか。
幻也の手はいつしか震え出していた。まさに畏れと呼ぶべき感情が、根源的な恐怖で思わず指先を震わせていた。
しかし、それだけではないはずだと直感が囁く。
何の意味も無く、〈神籬社〉がわざわざ御神体と崇める機体を動かすとは思えない。レゴリスでぼんやりと輝く月を見上げていた幻也は、しばらくするとその意味に気付いていた。
「そうか、奴らは月を撃ち星の運行を変えた……そういう事だったのか」
星の運行は、世界各地に伝えられる占いと不可分の概念だ。
天に異変が起こったのならば、占術によってその秘められた意味合いを読み解くことが出来る。幻也はおもむろに懐から銀のライターを取り出すと、ぼっと揺らめく炎を出していた。
「アマハラニチギタカシリテスメミマノミコトノミヅノミアラカツカヘマツ――――」
口では大祓詞を唱えつつ、蒼白い炎でややくすんだ窓ガラスを炙り始める。こんな場所では穢れ無き火種など用意できない、ライターはあくまで忌み火の代わりだ。
数秒後。
脆くなったガラスを軽く殴り付けると、鋭い音と共に夜景が白く曇る。一面に蜘蛛の巣のような亀裂を刻まれた窓ガラスを見つめつつ、幻也は呪術師としてその意味を読み解いていた。
「なるほど……〈神籬社〉の連中も手の込んだことをしてくれる、脅しも兼ねているつもりか」
それはつまり、太占の方法論だ。
古く国内においては鹿の角や肩甲骨を焼き、亀裂の入り方によって吉兆を占ったという。同じ原理を用いた占いにはウミガメの甲を使うものもあれば、牛や馬の肋骨を火にくべるという様式もある。
読み取れるのならば仔細は問わない。今は硝子で充分だった。
「ぱぱ、これはなんです?」
「心配しなくていい、俺が守るからな。必ず」
窓ガラスに入った亀裂に触れるにつれ、幻也の表情は氷のように強張って行った。
示されているのは凶兆だ。
脳内に思い浮かべた地図を重ね合わせれば、その源は公安霊装の庁舎ビルが建っていた目黒区方面だと分かる。あの場所に赴かなければ東京全域に何らかの災いが降りかかる――――その兆しを読み取った幻也は指を止めた。
「明治神宮に降りかかった災いが再現される凶兆、だと」
思い浮かぶ節があった。
今や明治神宮に在った鎮守の森は死に絶え、代々木公園も含めて枯れ木が立ち並ぶだけの死地となっている。そんな災いをもたらしたのは他でもない、およそ一か月前に彼の地へ撃ち込まれたたった一本の矢だ。
「犬山が作った疑似神呪兵装のことか」
疑似神呪兵装、御木之羽々矢。
それは公安庁舎を攻めた際、公安側が試射と恫喝の為に代々木公園へと打ち放った矢の銘だ。呪術的な防御が張られていた鎮守の森さえ枯らし尽くし、聖地ミケをも殺し切れると語られた稀代の呪具。
幻也の脳裏に、犬山の口にした言葉が蘇る。
――私が疑似神呪兵装なんていうものを作ったのも、全ては〈森羅〉を殺す為だった……東京を……潰させるな、あんな怪物に――
御木之羽々矢は〈森羅〉すら殺す。
ならば、〈森羅〉に似た性質を持つかなえが巻き込まれたらどうなってしまうのか。
もはや考えるまでも無かった。植物の異常成長と枯死をもたらす呪いを受けたなら、神木と同化したかなえは間違いなく。
「くそ……ッ!」
〈神籬社〉が届けて来たのは殺害予告だ。
もしもこちらが公安庁舎跡まで赴かなければ、かなえにとって致死性の矢が東京全域に降り注ぐというメッセージに他ならない。閉じ込められた密室にガスを流し込まれるようなものだ。
――――教団はかなえを確保したかったはず。
だが、と幻也の耳元に反駁の声が囁かれる。
かなえを手に入れられないのであればいっそ殺してしまえ。教団がそう考えていないとどうして言い切れるだろうか。
ただの脅しならば無視していても構わない。
しかし、〈神籬社〉が本当にかなえを斬り捨てるのだとしたら。万が一にもその判断を下したのだとしたら――――。
重苦しい沈黙。幻也は心配そうに覗き込むかなえに向けて、喉の奥から絞り出すような声を上げていた。
「かなえは逃げてくれ」
「ぱぱはどうするのです?」
「パパはな、行けなくなったみたいだ」
「えっ」
たったの一周、たったの13分間でさえ最後まで過ごす事は叶わない。幻也はかなえの身体を掬い上げると、回り切れなかったゴンドラから自ら飛び降りていた。
ふらつく脚で地面を踏み締め、立ち上がる。
幻也は何か問いたそうなかなえの視線を浴びるまま、黙って手を繋いでいた。誰もいない遊園地に歩みを進め、観覧車から少しずつ遠ざかって行く。
一歩。
惜しむようにまた一歩。
二人で目指すのは出口だ。夢の終わりを告げるゲートは近付いて来て、やがて五分と歩かない内に辿り着いてしまっていた。
幻也はそこで初めて跪くと、ぬいぐるみを抱き締めるかなえに視線を合わせる。柔らかい生地にぎゅっと食い込むかなえの指に触れ、彼は問うていた。
「かなえ、ぬいぐるみを渡してくれるか」
「わんわん、です」
「分かった。わんわんを貸してくれるかな」
何をするのか、と不安に揺れる瞳でかなえがわんわんを差し出す。
幻也は渡されたぬいぐるみを手に取ると、背に設けられた縫い目にそっと指を差し込んでいた。自身の外套から取り出した何かを埋め込み、ぶつぶつと祝詞を唱えた後に、彼はデフォルメされたぬいぐるみを地面に置いてみせる。
幻也とかなえ、わんわんは二人の視線に晒される格好となった。
そして、幻也が静かに語り掛ける。
「そろそろ起きろ、犬山」
『……人使いが荒い奴だ』
誰も触れていないぬいぐるみが、ひとりでに小さな足を踏み出す。
脳裏に直接響いて来る声は、玩具がまるで自らの意思で発しているかのように二人の耳に届いていた。否、実際に目の前でそれが起こっているのだ。
わぁ、とかなえはぽかんと口を開けて見守っている。
「わんわんがしゃべりました……」
『わんわんだと? 私が?』
困惑した声を上げるぬいぐるみは、その場でてくてくと回り始める。そうして器用に自らの身体を眺めるとようやく状況を把握したようだった。
地上数十cmから幻也に向けられた視線は、ビーズの代わりに嵌め込まれた小さな銅鏡から発せられている。
『なるほど、私はお前の式神として召喚された訳か』
「いや、俺じゃなくかなえの式神として召喚した。お前を撃ち殺した呪装徹甲弾を核にして、細工したぬいぐるみに召喚術式を組んである。それが今のお前の身体だ」
『まぁ確かに形代は何でも良いが……ぬいぐるみとは。死んだ私を式神にしてくれるとはとんでもない事をしてくれる奴だよ、お前は』
死人の召喚、その為に必要な条件は複雑怪奇極まりない呪術理論によって記述される。どんな形であれ、黄泉平坂を超える為には強固な縁が不可欠だともされていた。
不可欠なのは、殺し、殺された者同士の縁を証す儀式。
最たるものは、死の直前で互いに交わされる合意だった。
「俺もお前も死ぬ直前にそれを了承した、だからこんな事が出来たんだろう」
『そうだったな。私は人の為に呪術を使うと誓った、けれども死んだ今となっては……もう、いいさ。今もそう呼んでくれるのなら、私はお前の戦友だった只の馬鹿な男だ』
幻也と犬山。視線を交わす二人の脳裏に浮かぶのは、公安庁舎の奥で犬山を撃ち殺した場面のことだった。
ぬいぐるみには式神が憑依している。
つまり、かなえの式神として呼び出された犬山の魂が宿っていた。神木製弾丸が形代として埋め込まれており本体はあくまで神木片の方だ。
『そしてお前は公安を裏切った末に、〈神籬社〉にも与することなくここまで逃げおおせて来た。だが結局は追い詰められて私を呼び出す事になったという事だな、違うか』
「その通りだ。俺が死ぬ前にお前を呼ぶつもりだった」
『水鏡、お前はこれからどうするつもりだ?』
「このまま放って置けば〈神籬社〉の連中はかなえを殺すだろう、そうでなくとも俺はもう長く保ちそうにない……だから俺は行く、今からでも〈森羅〉を殺し切れば教団の目的は潰える」
自分が何を言っているのかは、分かっているつもりだった。幻也はこちらを見上げてくるぬいぐるみに向け、決意の色を帯びた眼差しを向ける。
――せいぜい苦しんで生きてみろよ――
犬山が死ぬ前に遺した言葉が、今になって心を掠めて行く。公安を裏切ってからの一ヶ月と少し、二人で過ごした時間に意味はあったのかと。
かなえの誕生日を祝えたのなら、答えはきっと一つだった。
「犬山、俺はもう生きたよ。あとはやってくれるか」
『私がお前と娘にした行いは必要だった、が、許される事じゃないとも分かっている。そんな私に選択肢はあるとは思いたくないな』
「俺はお前を殺した。おあいこだ」
『すまない』
「気にするな」
あるいはそれだけで十分だった。
幻也の視線の先にいるのは、一匹の犬のぬいぐるみ。そしてかつては寂れた居酒屋で理想を語り合い、遂には道を違えた唯一の友だ。
死してようやく友に戻れたというのなら。
これが答えなのだと、多くを語らずとも理解してくれる。
「そういう事なんだ、かなえ。もう時間が無いけどこれからパパの言う事をよく聞いてほしい」
「うん……っ」
そして幻也はぬいぐるみを抱き上げると、再びかなえに手渡していた。
きっともうおおよその事情は分かってしまったのだろう。幻也を見上げるかなえの眼はすっかり潤み、深い緑色の瞳に涙をいっぱいに浮かべている。それでも肩を震わせながら必死に、こちらの言葉を待ってくれていた。
「パパにもな、一人だけ友だちがいたんだ。それはもう堅苦しくてひねくれた奴だったし、冗談だって上手くなかった。とことん不器用な奴だけど、こいつは必ずかなえを守ってくれる」
『ぱぱは、わんわんとお友だちだったのですか?』
「まぁ昔からわんわんっていう訳じゃなかった……けど、今はそうだ。かなえの好きなぬいぐるみだ。ずっと前にも誕生日で欲しがっていただろ?」
幻也が伸ばした手は、かなえの銀髪をそっと撫でて行く。
「だからもうこれで寂しくない」
「かなえは……かなえは、いやだよ!」
叫びと共に、幻也の手は勢いよく振り払われていた。
他ならぬかなえの手によってだ。かなえは息を荒げるがまま、初めてと言っていい程に苛烈な視線を幻也に向ける。その表情の奥にあるのは怒りか、あるいは訳も分からぬままに爆発した寂しさか。
しかし、それも長くは続かなかった。
激情に張り詰めていた表情はすぐにくしゃくしゃと歪み、大きな瞳からはぽろぽろと涙が溢れ出す。ぬいぐるみの顔が歪むほどにぎゅっと抱き締める。
「ぱぱは、かなえにやくそくしました……これからはずっといっしょだって、もうどこにもいかないって!」
「そうだな」
「ぱぱは……うそつきです」
「そうだな」
「かなえはね、ずっとずっとまっていたんだよっ! なのに、またおわかれなの。かなえをまたひとりぼっちにするの……いかないでよ、ねぇ」
遂に堪え切れずに泣き出したかなえは、ぬいぐるみを抱き締めたままその場に立ち尽くす。幻也はもう一度だけ手を伸ばそうとして、しかし触れられぬままに止めていた。
これからはずっと一緒だ、と。
叶えられないと分かっていて約束したのは自分だ。
――――初めから叶えられない約束は、約束じゃないか。
とても残酷なことをしてしまったという自覚はあった。
それでも他に涙を止める方法を知らなかった。
だから、幻也は泣きじゃくるかなえに精一杯の自信を込めて笑い掛けてみせる。今度こそ躊躇いなく頭を撫でてみせる。
最後にもう一度だけ、約束に賭けてみたいと願いながら。
「パパも必ず後で行く、だから心配しなくていい」
「ほんとうに?」
幻也は小指を差し出していた。
おずおずと伸ばされたかなえの指が、そっと絡み合う。
「ああ、約束だ」
「やくそく、です」
最後に交わす指切りの約束。
指を解いた幻也は、精一杯の虚勢が崩れない内にかなえを抱き締める。今の表情を見られたならきっと不安がバレてしまう、果たせるかどうかも分からない約束なのだと伝わってしまう。
だから、この数秒間がどうしても必要だった。
命を賭しても守りたい、たった一人の家族。
触れれば折れてしまいそうな身体を抱き締め、己が何の為に生きて来たのかを改めて心に刻み付ける。もはや言葉はいらない。永遠に思える数秒が過ぎ去った後に、幻也は腕を離していた。
顔面には自信に満ちた笑みを張り付けながら、ようやく泣き止んでくれたかなえと向き合う。涙を止められただけで、価値はあったのかも知れなかった。
「いってくる」
「いってらっしゃい、です」
「明日の朝には帰って来るよ」
「まってます。ぱぱにおはようっていうまで、ずっと!」
幻也はその場で立ち上がると、ぬいぐるみたる犬山を一瞥する。背に浴びせられるかなえの視線を感じながらも、決して振り返りはしない。
振り返れば、もう歩けないと分かっていた。
途端に一歩、背後で脚を踏み出す音が聞こえて来る。あるいはかなえが駆け寄って来るかも知れないと身構えた幻也は、しかし、犬山の声を聞いて再び足を踏み出して行く。
『娘、行くな』
「わかってます……ぱぱとのやくそく、だから」
きっと犬山はかなえの手を繋いでくれているのだろう、と思えた。
生涯で唯一の戦友であった男なら任せられる、人ならざるかなえがこの呪われた街で生きて行く為の支えになってくれると信じられる。
なにしろ、呪い殺し合った仲なのだ。
互いに託したモノの重さは、これでちょうど同じくらいになったはずだろうと。幻也は不可思議な笑みを浮かべながら、語り得ぬ友への感謝を胸に歩み続けた。
これから赴くのは終わりの戦場だ。
東京から逃れられないかなえに、明日をあげる為の戦いだ。
かなえにおはようと言うまでは、まだ死ねない。
「絶対に帰る、生きて明日に辿り着くんだ。俺たちは」
虚空へ語り掛けると同時に、突風が外套を弄んで行った。
黒ずくめの男に、鏡写しのような漆黒の槐兵。夜景を見据える幻也のすぐ後ろに、半身たる愛機が音も無く降り立つ。
「これが最後だ、来い――――〈御霊〉」
そして幻也を掌で掬い上げると、主を収めた神木製巨人は遊園地から飛び去って行った。決して振り返らぬままに夜空へ溶け去った巨人は、まるで自らの居場所へ還るかのように魔都へ飛び込む。
己の全てを懸けてでも、叶えたい約束を乗せて。
呪われた夜へ。
一つの未来を紡ぐ為に、男の戦いが始まろうとしていた。
<カクヨムにて先行連載中>
https://kakuyomu.jp/works/1177354054885880520/episodes/1177354054888228617




