ep29/36「終着の遊園地」
「かなえ。今から誕生日パーティーをやらないか」
かなえにそう問うたのは、つい30分ほど前だっただろうか。
操縦桿を握り込む幻也は今、〈御霊〉のコックピットシートに身を預けていた。膝の上に乗せたかなえは、槐兵に乗り込んでからというものそわそわとして落ち着きが無い。先ほどからずっとこの調子だった。
彼女の誕生日は今日ではない。
そんな事は本人だって知っている。
それなのに、「今日が新しい誕生日です」とあっさり受け容れるくらいには、この申し出を喜んでくれたのだ。
「ぱぱ、まだこうしていなきゃダメですか?」
「まだだよ」
「むぅー、ぱぱのいじわるです」
目を瞑ったかなえが、不満に小さく口を尖らせる。
彼女がそれでも律儀に瞼を閉じているのは、隠れ家を出る前にそうして欲しいと頼んだからだ。何処へ行くかは着くまで秘密にしたいから、と。
くすくすとささやかな笑い声を上げる二人を乗せ、空高く跳躍した〈御霊〉は、夜空に見えざる放物線を描いて行く。
「ぱぱといっしょにおでかけするのは、ひさしぶりです」
かなえの言う通りだった。
久しぶりに二人で乗り込んだコックピットは少々手狭に感じられて。顎をくすぐるかなえの花冠がくすぐったくもあり、少しばかり懐かしくもある。
自由落下中の無重力感は、膝の上に載せた彼女の体重をも羽のように軽くさせていた。〈御霊〉は既に放物線の最高到達点へと達し、ゆるやかに落ち始めている。
眼下に広がるのは多摩丘陵。もうすぐ着地地点に着くのだ。
「ほら、もう着く」
「めをあけていいですか? いいですか??」
着地。遊園地の敷地内に、漆黒の甲冑を纏った人型が音もなく降り立つ。
他に動く者は無い。
まばらな監視カメラの視線が無人の遊具に浴びせられるばかりで、既に閉園時間を迎えた園内には誰もいなかった。警備システムの類は霊障の影響を受けており、幻也が何もしなくとも動作不全を起こしている始末だ。
〈御霊〉が降り立ったのは、よみうりランド。
今も変わらずに営業を続けている遊園地の一つだった。
「ぉお……!」
〈御霊〉のコックピットハッチが静かに開くにつれ、かなえは無人の遊園地を舐め回すように眺めて行った。心なしかその身体は小さくぷるぷると震えている。
そして彼女の頭頂を飾る花冠には、ぽっぽっ、と小さな花が咲き始めた。
「ここがゆうえんち、ですか! ぱぱもはやくです!」
「焦らなくても遊園地は逃げないんだからな」
嬉しさを全身に巡らせているかなえは、放って置けばそのまま飛び降りかねない勢いだ。そんな彼女をひょいと両腕で捕まえた幻也は、ちょうどお姫様抱っこの要領で抱えたかなえと共に地面へ降りる。
二人の背後には、その場に跪く〈御霊〉。
正面には、黙して動かぬ大観覧車がそびえ立っていた。
――――俺もここには初めて来るな。
以前、「何処に行きたい?」とかなえに聞いてみたことがあった。
すると、かなえは難しい顔でしばらく迷った末に、観覧車に乗りたいと言い出したのだ。
無論、都内を逃げ回っている最中に、人で賑わう遊園地など連れて行けるはずが無い。それでもいつかは、いつの日にかは、全てを決着させてからかなえを連れて来てやりたいと思っていた。
少し早いが、それが今晩になってしまった。
幻也はどこか寂し気な笑みを浮かべながら、かなえの背を見守る。
「でも、かんらんしゃ、いまはうごかないです」
「もう夜だからな」
「そうですか……」
先ほどまではしゃいでいたはずのかなえは、みるみる内にしょぼんと肩を落として行く。きっと本人とて動かない事は解っていたのだろうが、その小さな背はいかにも気落ちした様子だ。
だから、幻也はにやりと小さく口元を歪める。片手でそっとかなえの目を覆い隠すと、もう片方の手は人差し指と中指を揃えていた。
「ぱぱ、なにもみえません」
「良いものを見せてあげるからな」
かなえの目を覆ったまま、幻也は静かに印を切っていた。
途端に、背後から身の丈に匹敵するほどの掌が伸びて来て、観覧車の古びた制御盤へと導かれて行く。魂呼ばいを使う要領で遠隔操作された〈御霊〉は、跪いた姿勢のままで器用に制御盤を開けてみせた。
そしてサイズに見合わぬ器用さで、〈御霊〉が指先を押し当てる。
枯れ枝のような指先から伸び出した根は、瞬く間に制御盤を覆って行った。ぱちちち、ぱちち、と線香花火のような漏電の火花が弾けるも、やがて落ち着く。
何をするのですか、とかなえが腕の中で小首を傾げた。
「もういいよ」
「……? なにもないです」
「パパからの誕生日プレゼントだ」
幻也は少々芝居がかった様子で、小気味よく指を鳴らす。
ぱちん。鋭く弾けた音が辺りへ溶け去って行くと同時に、目の前にそびえ立っていた観覧車からはギギィという異音が上がり始めた。
つまり、回り始めていた。
直径60mに及ぶ鉄輪が、確かにゆったりと回転を始めたのだ。
「すごいです……」
「光らせるのは流石に危ないから無理だ、ごめんな」
いかに警報装置の類を殺しているとはいえ、観覧車を光らせでもしたら敵に狙って下さいと言わんばかりの間抜けでしかない。
電飾一つ灯っていない観覧車などはっきり言ってかなり地味だ。しかし、かなえはそれでも純真な喜びを湛えた瞳で、大観覧車と幻也を交互に見つめて行った。
今、こうして観覧車が回っているのは、〈御霊〉からの電力供給を行っているからだ。
槐兵の高度な運動性を支える木質性人工筋繊維とは、つまり光合成型の燃料電池システムそのもの。歩く発電機である槐兵の発電能力を考えれば、やや強引にでも観覧車を動かすのは容易い事だった。
〈御霊〉が観覧車に掛けたのは、ほんのささやかな呪術だ。
「きょうはよふかしです! ぱぱ、はやく!」
かなえはその場でくるくると回るやいなや、ゴンドラの一つに向けて走り出していた。幻也も追いて行かれぬようにと駆け出し、二人揃ってゴンドラの中へと身を滑り込ませる。
ちょこんと席に座ったかなえ。
ちょうど彼女の正面に、幻也も腰を落ち着ける。
観覧車がゆったりと回転するにつれて、景色は徐々に下へ下へと遠ざかって行く。地上の〈御霊〉も米粒のようになりつつあった。
一周回り切るまでの時間、13分間を刻む時計と化して観覧車は回り行く。
視線を上げてみれば、彼方に見えるのは約50km先の地平線。絶えぬ街灯りに縁取られた、魔都東京の輪郭が見て取れる。
「こんな景色、何度も見ているはずなのにな」
「くらいから、とってもとおくまでみえます」
このゴンドラが頂点に達した時の標高はおよそ160mに達する、らしい。槐兵で跳躍した時に見下ろせる光景と大差ないのも確かだ。
しかし、幻也にとっては違う景色だった。
秒速20cmにも満たない上昇速度で見る東京は、身を押し潰すようなGに晒されながら見下ろす東京とはまるで違う。こんなにゆったりと眺める夜景は、本当に久しぶりだと感じられた。
いや、初めてかも知れなかった。
「ぱぱ、みてください!」
「……ああ、見てるよ」
かなえが窓に張り付くようにしてはしゃいでいる。
今この瞬間に全ての時間が止まったなら、と幻也はその横顔に祈るような視線を注いでいた。ちょうど半周分を回り切った観覧車が、このまま永遠に回り切らなければいいとさえ願う自分が居た。
――――これが最初で最後、か。
幻也はかなえには気付かれないよう、外套の下で人知れず拳を握り締める。やり切れぬ想いが胸を引き裂きそうだった。
全てに決着をつける事は、まだ出来ていない。
〈神籬社〉は未だに健在で追っ手が止むことも無い。それでも、この奇蹟のような時間を終わりにするしかないのだ。
もう時間がない。
幻也は弱弱しく、不規則な鼓動を続ける心臓に手を当てながら、じきに訪れるその瞬間を確信する。
――――動いていられるのも明日辺りまでか。
カウントダウンのように刻まれる鼓動は、どこまでも冷酷に終わりの瞬間を告げようとしている。どれだけ誤魔化してみても心臓はあと数日も保ちそうにない。
このちっぽけな命を賭してみても、敵を殺し切るにはまだ足りなかったのだ。
だから、今晩にするしかなかった。
たとえ全てを終わらせられなかったとしても、本当にあげたかった物にたとえ手が届かなかったとしても、せめて最後だけはかなえの願いを叶えてやりたかった。
「ぱぱ」
いつしか俯いていた幻也の頭上に、かなえのか細い声が降って来る。思わず顔を上げてみれば、心配そうな笑みを浮かべるかなえと目が合った。
彼女の銀髪は不安げに揺れ、深緑の瞳はただ幻也だけを映している。
「ぱぱ、さいきんはさみしそうでした」
「俺が?」
「いまは……なきそうなおかおです」
そして、かなえが小さな腕で抱き締めて来る。
いつしか幻也がかなえにそうしたように、今は彼の方が腕の中に包まれていた。元気を出して、と華奢な細腕からは精一杯の想いが伝わって来る。
「かなえはじゅじゅつもつかえないけど、ぱぱがさみしいならそばにいます。だからね、ぱぱもわらってください」
「そっか、パパは笑えていなかったか……」
幻也はかなえの腕の中で、いつの間にか小さく笑っている自分に気付いていた。娘に励まされる自分が情けなくて、堪らなく可笑しかった。
最後の夜くらい強い父親で在りたかったというのに、唇からは封じていた想いが止めどなく溢れて来る。
「……かなえは本当にパパといられて良かったか? パパはきっと何もしてあげられなかった。かなえが行きたかった街にも連れていけなかったし、多分、我慢ばかりさせて来たと思う。最近はなかなか傍にもいてあげられなかった、それでも俺は――――」
「はい!」
何の迷いもない答えが、あるいは全てを肯定してくれた。
本来は誰でも無かった男の、何も成せなかった人生を。
「……そうか」
「そうですっ!」
そっと離れて行ったかなえは、夜空を背景にしてにかっと笑って見せる。まるで月光をより合わせたかのような銀髪が数多の軌跡を描き、その人ならざる可憐さは鮮やかな黒と銀のコントラストを作り出す。
それでも、浮かべる笑顔だけは十年前と何も変わっていなかった。
前の誕生日パーティーで見せてくれた表情そのままに、今もこうして笑ってくれるかなえがいた。
「かなえは、やっぱり優しいな」
「かなえはうれしいです、ぱぱとこんなけしきをみられて」
しばし、二人は言葉も無く夜景を見つめていた。
こんな呪われた街だというのに、離れたくても離れられない忌々しい街だというのに、その夜景はあまりにも儚く。魔都たる東京は、数多の星が浮かべられた夜空を映し出す水面の鏡だ。
静けき夜空を侵す暴力的なまでの煌めきさえも薄められて、今だけはまるで幾万もの蛍が集う水面のようにも見えていた。
これまで東京で目にして来た悪意の数々が、この夜景の中に混じっているとは信じられないほどに。ただ、どうしようもなく美しかった。
――――けれども、この街がかなえを殺す。
本来は人を殺し、呪う道具でしかない呪操槐兵によって観覧車を動かす。そうして目にした夜景の中に東京の美しさを見る、それを皮肉と呼ばずして何と呼ぼうか。
次なんて無い。
ここにはもう来られない。
観覧車が回り終わるまでの13分間、掛けた魔法もじきに解けてしまうのだ。頂点を過ぎて下降し始めたゴンドラの中で、幻也はやや膨らんだ外套のポケットに手を伸ばしていた。
「かなえ、もう一つプレゼントだよ」
「はいです?」
幻也の指先は、外套にしまい込んでいた煙草を避けて一つの袋を探り当てた。そうして取り出した袋を、驚きに口を開けているかなえに渡す。
さほど大きくもないし、重くもないプレゼントだった。
「かなえにずっと渡したかったんだ。開けてごらん」
「わぁ……ぱぱ、これって!」
「もうどこにも売っていないと思ったんだけどな、やっと渡せた」
かなえが開けた袋の中からは、犬のぬいぐるみが顔をのぞかせている。
ややくたびれた質感のそれは、今から十年以上前に流行ったぬいぐるみだった。そして十年前にかなえが欲しがり、遂に渡せなかったプレゼントでもある。
つい先日、古びた雑貨屋でなんとか見つけられたのは、ちょっとした奇蹟としか思えない。
だから、伝えるべきはあの夜にも伝えた言葉だ。
「誕生日おめでとう、かなえ」
「ありがとうです、ぱぱ!」
そして今、かなえは再び見せてくれる。
最高の笑顔を。最期の写真に収めたあの屈託なき笑みを。
犬のぬいぐるみを愛おしそうに抱き締めるかなえは、んー、と声にならない喜びの声を漏らしていた。それは幻也が十年前に見たいと願い、遂に果たせなかった光景に他ならない。
――――ありがとうな、かなえ。
全ての敵を葬り去れずとも、きっとこれまでの戦いは無意味では無かった。思わずそう思えてしまう笑顔に、幻也の視界は自然と滲んで行く。
まだ何も果たせていないのだ、まだ何も。
それでも、どうしようもなく胸が満たされて行く。
自分が本当に求めていた夢が、ずっと求め続けていた安息が、たとえ一時でも心を温かく満たしていく感覚には抗えなかった。
――――帰りにはケーキを買って帰ろう。
ほんのささやかな、どこにでもあるケーキでいい。
――――二人の家に帰ろう。
食べられなくても、あの日のようにテーブルに置くだけでいい。
家に帰ってからの誕生日パーティーを思い浮かべてみても、浮かんで来るのはどこまでも陳腐な発想でしかない。だが、やりたい事などきっとそれくらいだったのだ、と幻也はようやく気付いていた。
観覧車は既に3/4を回り終え、地上は徐々に近づいて来る。
ささやかな夢を見るように過ごす時間はもうじき終わる。時間はやはり止まってはくれなかったのだ、と幻也は一時の夢想を手放していた。
もう帰るべき時だ。
「かなえ、今日はもうそろそろ……」
閃光。視界が真っ白に飛ばされたのは、その時だった。
幻也が夜景から目を離し、かなえに向けて両腕を広げたその瞬間。眼下に広がっていた夜景は瞬く間にホワイトアウトし、闇を剥がされた高層ビル群は早過ぎる夜明けに晒される。
これほどの発光量は落雷などではない。
「ぱぱっ!」
夜を暴くほどの閃光に横顔を照らされつつ、幻也は咄嗟にかなえを抱き止めた。そして鮮烈な光に視界を焼かれながらも、もはや夜景とは呼べない景色に目を凝らす。
「これは……ッ!」
幻也の隻眼に映り込んだのは、天にそびえ立つ一本の光柱だった。人智の域を超えた高出力によって光跡を浮かび上がらせるそれは、大気中に舞う僅かな塵さえ焼き尽くしてプラズマと変える。
空へ放たれたのは、超々高出力レーザーの一射だ。
それはもはや呪術でも何でもない純然たる災害の暴威、こんなことが出来る存在を幻也は一つしか知らなかった。
「〈森羅〉だと!」
さしたる轟音も衝撃も無く、天を貫いていた閃光はやがてすぅっと消え去って行く。夜景は再び闇を取り戻し始め、街は何事も無かったように元へ戻っていた。
変わったのは、月だ。
ちょうど光線の先に在ったはずの月は、今やダイヤモンドダストに包まれたかのようにきらきらと輝く薄雲に包まれている。されど今夜は快晴だったはずと気付いた時、幻也の背には戦慄が走って行った。
――――奴はまさか月を撃ったのか。
文字通りに天上の世界を貫き、一瞬にして夜を暴いた一撃。月への三十万km近い距離を貫いた光柱は、地の底から天へ還ろうと伸ばした手のようでもある。
天より降り、天への帰り方を忘れた巨樹の神。
魔都へ堕ちた独り神は、今また目覚めを果たす。
それはまさしく神たる者の声なき叫びに他ならなかった。
<カクヨムにて先行連載中>
https://kakuyomu.jp/works/1177354054885880520/episodes/1177354054887615770




