ep17「求む命の代償に」
「貴様は何人目のミカガミゲンヤなんだ? 十年前にどこで何をしていた?」
廃ビルのオフィスで向き合う中、アラトが放ったのはそんな問い掛けだった。
意味が分からない。誤魔化すなと言おうとしたはずなのに、喉の奥に何かがつかえて言葉が出てこなかった。
正体不明の違和感に襲われる幻也は、十年前から全く色褪せることがない悪夢を、決して忘れられない日々を思い返してみる。
その内にじわり、と嫌な汗が全身を濡らし始めた。
――――嘘だろう。
「答えろ」
「……あの時はかなえと二人で住んでいた」
「娘がいたのなら妻はどうした? どこに住んでいた? 当時の仕事は? 貴様は全て思い出せないはずだ、そしてそれをこれまで疑問にも思わなかった。違うか」
そんなはずがない、そう信じようとした。
だが、徐々に痺れ始めた身体には、遅効性の毒のような絶望が染み込んで行く。何もかも鮮明に覚えていると信じていたはずの過去は、わずか一言分しか思い出せなかった。
かなえと暮していた、たったそれだけの断片的記憶。
それらの周りを埋めて然るべき記憶は、探しても探しても脳髄のどこにも見当たらない。すっぽりと抜け落ちていた空白期間がある、そんな矛盾にさえ気付けなかった自分が今はただひたすらに恐ろしかった。
「やはりか。これも見ろ」
嘲笑うように告げるアラトは、どこか満足げな気配を漂わせている。そして一体どこから入手したのかも知れない写真をばら撒くと、それら全てを幻也の前に突き付けた。
「これらは公安内部の極秘資料、庁舎襲撃の際に手に入ったモノだ」
「これは一年前の制圧任務の資料……」
幻也は床に散らばった資料を見渡すと、アラトの言葉に嘘はないと認めざるを得なかった。
ちょうど公安庁舎のベッドで目覚めた時に、犬山からも見せられたことがある資料の数々。その完全版とでも言うべき文言が視線の先に連なっている。
――死亡記録:被検体一号から十号。うち五号のみが生存――
その文字を認めた瞬間、言い知れぬ悪寒が背を撫でて行く。
まるで開いてはいけない鍵が、脳内でカチリと外れてしまったかのようだった。忘れもしない神社での制圧任務。かつて身を投じた任務の風景が、徐々にくっきりと輪郭を帯びていくのが感じられる。
そして、ようやく思い出した。
突入した本殿の中で、呪いに侵されて次々に倒れて行った隊員たち。あの時、自ら手を下した男たちの顔は、全て同じだったのではなかったか。
「あれは、全て俺……?」
まただった。憶えていなければおかしいはずの記憶が、すっぽりと抜け落ちている事にさえ気付いていなかったのだ。幻也はもはや反論する気にもならず、仮面の青年が吐き出す事実に身を委ねて行った。
曰く、あの制圧任務に投入されたのは全て被験体であり、あの任務自体が呪いに耐えた者だけを選別するという試験。
曰く、十年前の首都抗争でパイロットを使い潰した〈御霊〉を再び動かす為に、わざわざこんな事がなされていたのだと。
「そして被験体五号、つまり貴様が呪操槐兵を操るに足る者として選ばれた……いいや、更にその複製かも知れないな。いずれにしても選ばれた理由は一つ、槐の呪いに侵されながらも生き残れるだけの耐性を持っていたからだ」
「俺は身体を弄られていたとでも言いたいのか」
「もしもお前があの時と同一人物ならば、記憶と精神もだ。複製にしろ改竄にせよ、どんな手段を使ったとしても時間ならいくらでもあったはず」
一年間も意識不明の状態で眠っていたのだから、もはやアラトの言葉は否定するべくもない。あるいは記憶を引き継がれただけで、別人にすり替えられていたのかも知れないのだ。
これまで信じていた何もかもが、崩れて行く。
幻也はこの晩に会話を交わしたばかりの同僚の顔を思い浮かべ、胸中で人知れず決意を固めて行った。
――――犬山、やってくれたな。
幻也は拳銃を握り直すと、視線を上げた。
「そしてアラト、お前はこんな事を俺に知らせてどうするつもりだ。裏切らせるつもりとしか思えない」
「この事実を知った上で貴様がどうしようと勝手だ。だが、あの杭で確実にイチイを葬って貰う」
「杭だと?」
幻也の視線は、アラトが指差した方向へと導かれる。窓辺に佇む漆塗りの槐兵、愛機たる〈御霊〉の全身を舐めて行った視線は、傷付けられた腕の辺りで留まっていた。
激しい戦闘の最中で切り裂かれていた袖布からは、ちらりと何かの尖端が突き出ている。直径にしておよそ20cm、人の太腿ほどもある木製の杭だった。
「あの杭は、〈御霊〉に搭載されていた本来の神呪兵装らしい。犬山という男はそれを知っていたようだが、報せはしなかったようだな……恐らく神呪兵装の解放による機体の不安定化を嫌ったのだろうが」
「まさか、貴様はこの封印を解くために」
「見る限り、あの杭は漆塗りと呪符で積層的に封じられているようだったからな。戦闘中に封印を破らせてもらった」
何故、犬山がこの神呪兵装の存在を伝えなかったのか。
犬山という男の主義を思い返してみれば、その理由だけは分かるような気がした。幻也はもはや戦友とさえ呼べない男の顔を脳裏から消し去ると、白き仮面の男に問うていた。
「神呪兵装の銘は」
「〈御木之真柱〉、神木製の射出式杭だ。正史とされるどの伝承にも載っていないからイチイも知らないだろう。尖端から致死性の呪詛を流し込む、見えざる毒の杭……あれで奴を殺してみせろ」
ならば、何故お前が使わないのだ。
幻也は喉から出かけた疑問を呑み込むと、毒針を露わにした愛機を見つめる。アラトならばこの神呪兵装を奪い取ることも、あるいは槐兵ごと乗っ取ることも可能に違いない。
それだというのに、あくまで使えと告げられているのだ。
――――何故だ。
だが、確信できることもある。
二つの神呪兵装を併せ持つイレギュラーにして、偽書由来の贋作祝詞をその身に宿す掟破りの槐兵。それが〈御霊〉だというのなら、切り札を使えばただでは済むまいという予感だけはあった。
人を破滅へ誘う危うい香りが、杭からは滲み出ている。
「水鏡幻也、誰でもないお前は何を願う」
「それは――――」
* * *
幻也は浸っていた記憶から抜け出すと、再び苦痛の只中へと戻って来た。あの時、アラトから告げられた本来の神呪兵装の存在は、今や願ってもいない力となってこの機体に宿っている。
使えばただでは済まない、それが何だと言うのだ。幻也の手は骨折の痛みをも無視してグッと操縦桿を握り込む。
汚れた指で花に触れるよりも先に、やるべき事があった。
「こんな俺の傍にいてくれるんだな、かなえ」
死体を弄び、呪いに手を染め、外道と成り果てた自分でさえもかなえは守ってくれているのだと。呪術戦を生き残る度、そう思えてならなかった。
十年前のあの日から、ずっと。
そして今この瞬間も。
ぎぎぃと軋みを上げて振り上げた槐兵の手は、巻き上げられた砂塵の中で地面を叩く。徐々に起き上がって行く〈御霊〉の体躯は、瞬く雷光さえ寄せ付ない影となって現れ出ようとしていた。
――――俺は、俺だ。
目の前で娘を喪ってから止まっていた時間は、この時になってようやく動き出そうとしている。そんな予感に突き動かされるままにペダルを踏み込む足は、己が身体にも等しい〈御霊〉に鞭を打つ。
――――この身体も、意思も、俺のものだ。
殺しと呪いの中で過ごして来た十年間、喪失の中で過ぎて行く日々にいつしか慣れてしまっていたのかも知れなかった。正気の殺し方ばかり上手くなって、黄泉に足を踏み入れることを夢想していた自分に、今さら何が成せるとも思わなかった。
何を願っても、もう遅すぎるのかも知れない。
そんな自分に今さら芽生えた想いは、十年越しにようやく言葉となって溢れ出る。
――誰でもないお前は何を願う――
そんなのは、初めから決まっていた。
「それでも、俺はかなえと生きたかった……!」
叶うのならもう一度。
被験体五号として生み出された誰でもない男が、偽りとも知れない記憶に縋る。本当の娘ですらないと悟ってもなお、たった一人の家族を求め続ける。たとえ真実がそうだったとしても、立ち上がるにはそれだけで充分だと思えた。
拭い切れない後悔も、
心に沸き立つ憎しみも、
この願いさえも、他でもない己の中に宿った本物ならばそれで良いのだ。守れなかった償いを遂げさせてほしい、その為に力を欲する自分はここにいる。
――――だからこそ。
脚を振り出した〈御霊〉は、足跡に彼岸花を咲かせながら歩みを重ねていた。前へ、前へ、一歩ごとに汚染を拡大しながら進み続ける。
『ようやく分かりましたよ……あなたの槐兵が如何にして術を散らして来たのかを。それは言うなれば、即座に反射的に的確に人では有り得ない反応速度で贋作祝詞を返すシステムだ……違いますか』
どこか遠くから聞こえて来る怨嗟の声に、幻也は耳を傾けていた。
呪詛を流し込んだイチイとてまだ死んではいないはず。その予想を裏付けるように姿を現した〈氷雨〉は、紫の袈裟をぼろぼろと朽ちさせながら歩み寄って来るのだ。
満身創痍の敵機から聞こえて来る声は、何故か嬉しそうですらある。
『そしてあらゆる術を発動させる為には、魂を宿す人間が儀式に介在する必要がある。本来ならばね』
「何が言いたい」
『そう、実に簡単なことだった……つまり、祝詞の動作原理である言霊の応用ですよ。言葉には魂が宿る、ならば逆に魂を言語化して文字に落とし込むことも出来る、とね。霊魂のコード化は私がかつて提唱した理論です』
言葉には力が宿る。唱えた祝詞が呪術として効力を発揮するのも、元を辿れば言霊と呼ばれる霊的作用を前提としたものだ。
ある文字列の中に言語化した魂を封じ込める――――イチイの語る言葉が真実だとすれば、それはまさしく一つの魂を縛る呪文を創造する行いに他ならなかった。神代の頃から継承されて来た祝詞ではなく、一から呪いを創り出すという禁忌そのものだ。
『魂を組み込んだ祝詞は、それ自体が一つの生命になり得る。そして身体としての神木に埋め込むことで、言語化された魂は自動的に術を発動させるようになる。だが、神木に人の魂は宿らなかった……あの娘を除いては』
「かなえの事か!」
幻也は全身を満たす激痛に苛まれながら、半ば唸るように問うていた。
自律的に発動する呪操OS〈神薙〉の正体。
生霊として宿ってくれたかなえの魂こそが、その核だったのだと。操縦桿の根元を飾る白きシロツメクサは、そんな事実を肯定するかのように今も花咲いている。
〈御霊〉という機体銘が、これほど皮肉に感じられたことは無かった。
『あの娘の魂を封じ込め、生ける呪文そのものとして槐兵に組み込んでいたとは。だからあなたは存在してはいけない……偽典の呪いなどに縋るあなたは、全力で滅ぼさねばなりません!』
「それは俺の台詞だ」
〈御霊〉の真実を看破してみせた敵とて、既に満身創痍だ。神呪兵装たる杖をついて歩くしかない敵機の姿は、もはや足元さえおぼつかない老人のそれに他ならない。
二機の槐兵が、深夜の交差点を挟んで近付いて行く。
「お前がかなえの魂を縛る人型なら……やってみせろよ、〈御霊〉」
道連れにすると決めた己の半身に、初めから答えなど求めていない。
一度は折れたはずの腕を伸ばし、幻也は静かに操縦桿を押し出していた。筋繊維の代わりに収縮し、骨の代わりに身体を支えるのは呪いに侵された体組織に他ならない。歩く度に、身体は槐兵に近しい存在となって行く。
それでも歩みは止まらない。
道に刻まれた足跡が、一歩一歩と赤く染まる。
幻也の決意を乗せて脚を振り出す〈御霊〉は、もはや交戦を避けられない距離にまで踏み込んでいた。
だが、これで最後だ。
どちらかが倒れるまで決して終わらない、そんな予感が互いの緊張をじりじりと高めて行く。滅ぼし合いとでも言うべき戦いの火蓋は、遂に切られようとしていた。
『こやつに滅びを、〈氷雨〉!』
「俺の身体が保つまでだ……奴の小細工全てを散らせ、〈御霊〉!」
互いの叫びが夜を貫いた途端、二機の槐兵は交差点中央で激突していた。一方は刀、一方は杖、互いに硬化した神木を打ち合わせて火花を散らす。
だが、〈御霊〉の勢いは止まらない。
辺りを侵食し始めたツルを切り払い、鬱蒼と生い茂る呪いの茂みを裂いて間合いを詰める。くるりと回転した機体は二振りの刀を振るうと、敵機が纏っていた袈裟を斬りつけていた。
『あなたが振るう力は何もかもが偽りです、槐兵も、その魂も! 真に求めるモノもなく戦う犬などに私は止められませんよ!』
「小細工は効かないと言った……!」
呪操OS〈神薙〉の連続発動により、黒い槐兵は呪術の一切を無効化して猛攻を仕掛ける。半月のような軌跡を描く刀身は、〈氷雨〉が呼び出していたらしい葉の数々を一刀の下に払っていた。
ぶわり、とビルの合間を埋める木枯らし。
幻也は嵐の影に紛れた敵機を追いつつも、システムダウンしそうになっていた神薙に再起動を掛ける。ほんの一秒と掛からずに操縦コマンドを送り込んだ指先は、苛立たし気に操縦桿を弾いた。
――――俺の限界なんかに構うな!
呪術戦に特化した〈氷雨〉
対呪術戦に特化した〈御霊〉
一見すると似ているが両者の設計思想は真逆だ。呪操OS〈神薙〉によってもたらされた絶対的な優位性はこの局面においても揺らがない。かなえの魂を組み込むことによって実現された力こそが、敵の喉元に届く唯一無二の武器だ。
だから、殺し切れる。
否、一刻も早く殺してみせる。
『タカアマハラニカミズマリマススメムツカミロギカミロミノミコトヲモチテオオワタツミコワダツミモロワダツ――――』
死力を振り絞って戦うのはイチイとて同じこと。互いに血反吐を吐いて削り合うかのような呪術戦の最中に、執念すら滲ませる祝詞が響き出す。
やがて、曇天から滴が注ぎ始めた。
幻也は天より注いだ雨の行方に、思わず目を奪われる。
側溝を流れて行く水に目を凝らせば、どれもこれも流血のように赤い。アスファルトの窪みに現れた水たまりも、赤い斑点となって次々に数を増して行く。
――――赤い雨だと。
『知っていますか、古き時代にはこのような雨が降ったと伝えられているのですよ。贄雨の儀、といえば名前だけは聞いたことがあるかも知れませんが』
「貴様、これが何かを知って……!」
『当然です、私が蘇らせた禁呪の一つですから……これであなたに神呪兵装の発動を止めるという選択肢は無くなった。その命を削りなさい』
雨乞いには、有形無形とを問わずに代償が伴う。
しかし、生贄も無しに雨を降らせるその呪術は、降った雨が生贄を求める禁呪の一つ。干ばつに悩まされていた者たちが手を出してしまったとされる、禁忌の雨乞い儀式――――贄雨の儀だった。
触れた者たちは皆命を落としていくという、災害の域にさえ達する禁呪の猛威。眠れる街に降り注ぐ赤き雨は、しかし〈御霊〉だけは一滴たりとも濡らすことが出来ない。
『私は見たいのです! あの原初なる槐兵が、この東京を杜へ帰して行く光景を。古き雨が大地を赤く染め、呪われた木々が生い茂る原初の森を、現代の奇蹟を必ずやこの手で……!』
「またあれを呼び出そうというのか」
『いえいえとんでもない、今度こそですよ。完全なる人型で蘇らせてこそ、あの槐兵は真なる名に相応しき奇蹟の体現者となる!』
これほどの大呪術に身を晒していれば、本来なら呪いに極めて高い耐性を持つ呪操槐兵でさえもどうなるか分かったものではない。一瞬たりとも神薙を解けない、それは苛烈な我慢比べを意味していた。
そして敵機が杖を振るう度、辺りには赤い氷片までもが無数に漂い始める。まさに〈氷雨〉の名を体現せんとする呪術は、季節外れの雪を呼び込んでいた。
『まあいい……あなたを倒してから、また復活の儀をやり直すとしましょう!』
「やらせるものかよ」
疾走。雨の中を駆け出した〈御霊〉を、空中に配置された無数の氷のつぶてが打ち付ける。
漆塗りの甲冑を打ち付ける氷の散弾。速度を落とさなければ槐兵がハチの巣にされてもおかしくない罠に、幻也は舌打ちを隠せなかった。
――――こちらの速さを封じるつもりか。
使役された氷のつぶてを縫って、〈御霊〉は赤雨に濡れた鏡のようなビル壁面を駆け上がる。降り注ぐ雨に逆らって宙に躍り出た機体は、眼下の敵機に向けて90mm対呪物ライフル砲を向けていた。
がきり、と起こされるレバーの作動音。
射出された木刀が、一足先に地面へと食い込む。
次の瞬間には盛大な発射炎が直下に噴き出し、アスファルトが直径数mに亘ってすり鉢状に吹き飛んでいた。だが、分厚い氷塊の影に隠れた敵は撃ち抜けていない。
『これしきのこと!』
「まだ終わっちゃいないんだよ……!」
空中で足場も無しに戦車砲を撃ち放った〈御霊〉だが、その機影は既に直下の〈氷雨〉に降り注いでいた。発射直前に射出されていた刀の二振りが、柄から伸びる鎖で機体を強引に繋ぎ止めたのだ。
一閃、刃のように鋭い脚が空を裂く。
神木で硬化した脚部そのものを打ち付けた一撃は、〈氷雨〉の隻腕を根元から斬り落としていた。
『神聖なりしミケに歯向かう者などに!』
両腕を切り落としてもなお、敵が操る雨も氷も止む気配はない。それどころか主を失った杖は鬼火を纏い、蒼白い火矢となって〈御霊〉の肩口に突き刺さっていた。
神薙を以てしても咄嗟にカバーし切れなかったのだ。
呪術を次々に無効化して迫る〈御霊〉は、まるで食い付いて離れない猛獣が如く。豪雨の中にあって微塵も濡れることのない槐兵は、娘の仇たる老人に向かって一直線に距離を詰めていった。
たとえ片腕が使えなくとも喰らい付く、その気迫で以て距離を詰める〈御霊〉の腕からは彼岸花が滴り落ちて行く。
「お前は、お前はかなえから未来を奪った……!」
『そしてあなたも遠からず死にますよ』
「その前にお前は死ぬ、俺が――――殺す!」
衝突。鋭い衝撃波が大気を叩くと、腹に黒い右腕を突き込まれた〈氷雨〉はがくんと機体を震わせる。もはや動かない背から突き出しているのは、神呪兵装たる杭の尖端だった。
雲が晴れ、雨も止む。
ずるりと右腕を引き抜いた〈御霊〉は、赤い雫を滴らせる杭を振るっていた。電柱にべちゃりとこびり付く赤い痕は、ようやく月光の下に晒された仇の血に他ならない。
――――終わったのか。
幻也は今やぴくりとも動かない敵機を見据えると、その腹部にかけて穿たれた大穴を見つめていた。
ここで相手を殺せるならば死んでも構わないと、本気で思っていたのかも知れない。今さらながらに自覚する想いは、燃えるように痛む全身さえ凍り付かせて行く。
そんな自分を引き留めてくれたのは、赤く染まった視界に映り込むシロツメクサに違いなかった。
神薙を使うほどに花の侵蝕範囲は広がっている。それこそ今もかなえの魂が生きている証なのだと、信じる事も出来る。
魂を引き剥がされたかなえの身体を取り戻すまでは、止まる事など出来やしない。
花を目にしてそう誓う幻也は、己がなすべき事を言葉として刻み付けようと決めていた。それはまさしく呪いの如くに。
「……迎えに行くからな、どんな手を使っても」
徐々に木と化して行く残骸の前で、〈御霊〉がゆらりと立ち上がる。
この晩はあまりにも深く傷ついてしまった。肩口を貫いていた杖を強引に引き抜くと、漆黒の槐兵は傷付いた身を徐々に白み始めた街に晒して行く。
朝日だった。
夜通し繰り広げられた死闘の爪痕は、これから日の下に晒されるに違いないのだ。幾重にも響くサイレンの音は止む気配も見せず、数百人とも、数千人とも知れない大呪術災害の被害を物語っている。
「かなえ」
それでも、かなえと生きる邪魔をする者たち全てを屠るまで止まれない。
既に呪われた身に罪を重ねようとも、もはや走り出してしまった運命を止めるつもりもない。被験体五号、誰でも無かったはずの男は決意を胸に操縦桿を握り締める。
戦い続ければ遠からず死ぬ、そんな事は分かっていた。
明けの陽光から逃れるように、杖を手にした〈御霊〉は西の空へと消えて行った。
* * *
「奴は本当にあのイチイを斃したか」
徐々に朝日で赤く染められていく街並みを見下ろすように、純白の槐兵は送電用鉄塔の上に佇んでいた。
白き呪操槐兵〈影光〉、その胸部に設けられたコックピットにはアラトが座している。残火で燻る墨田区の風景を見つめる内に、彼の指先はぞわりという感触に蠢いていた。
――――イチイも、こうなってしまえば呆気ない。
衝撃波に打ち砕かれたビル群の隙間。てらてらと雨滴に艶めく交差点の中央には、まるで数十年も前から生えていたかのような大樹がそびえている。
擱座した槐兵の残骸だった。
〈氷雨〉の残骸は、何よりも雄弁に決闘の勝敗を物語る墓標。敗者は自らの呪いに喰われて大樹と化し、勝者たる漆黒の槐兵は未だ昏い西空へと去ったのだ。
ただし、その先に未来があるとは思えない。教団の幹部が一人を殺し、公安を裏切るしかなくなった男に平穏など訪れるはずもない。
「それはたった一人で全てを敵に回す道だぞ、水鏡幻也」
槐兵とリンクしたアラトの視界には、まだ辛うじて〈御霊〉の姿が見えていた。きらりと陽光を反射する漆塗りの甲冑は、跳躍を繰り返す度に街の向こうへ遠ざかって行く。
これで水鏡幻也という男は孤独を極め、いずれ破滅へ至る旅路へと足を踏み入れたのだ。
そう悟った途端に、無機質な仮面の下でぱっくりと口が割れる。限りなく笑みに近い表情を浮かべるアラトは、しかしその事に気付いてもいない。
「そうだ、貴様はそうして命を散らして行け。それがボクの復讐だ」
第二位幹部を失った教団と公安霊装が全面抗争を繰り広げる日は近い。ほぼ確信ともいえる予感を胸に、アラトはフットペダルを踏み込む。
跳躍。純白の槐兵もまた、誰にも気付かれぬままに姿を消していた。
<カクヨムで潜航連載中>
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